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属国の姫は皇帝に虐められたい
憧れの王子様
しおりを挟むーー大丈夫ですよ、ティア様。いつか、王子様が助けにきてくれます。
乳母は私の髪を撫でながら、よくそう言っていた。
子供に聞かせる寝物語である。
私は城の片隅で、乳母の膝の上に座りながら微睡むのが好きだった。
私の記憶は大抵朧げで曖昧で、思い出そうとするとごちゃついてしまい混乱する。物覚えが良くないのだ。
お兄様に言ったら「思い出せないことは、思い出さなくても良いことだよ、ティア」と優しく諭してくださった。
幼かった頃の思い出というものに、私は乏しい。
気づいたら乳母が消えてしまったことを覚えている。お母様にみつかってしまったのだ。お母様にみつかってしまうと、次の日には人が消えてしまう。
優しかった乳母も、私に花をくれた庭師も、ご飯をこっそり分けてくれた料理人も、みんな。
そうして、私の側には誰もいなくなった。
乳母がいなくなったすぐ後に、滅多に顔を見せてくれないお兄様がやってきて、オルゴールをくれたことを覚えている。
オルゴールはいなくなった乳母のかわりだった。
城の中で聞くとお母様にみつかってしまうから、森の中に持って行ってこっそり聞いていた。
やがて、戦争がはじまったらしい。
城の中は相変わらずだった。たくさんの宝石やお酒や食べ物が毎日のように城には運び込まれて、お父様やお母様、大人達は昼間からお酒を飲んで大騒ぎしていた。
その時の私は襤褸布のような服を着ていて、埃っぽくて薄汚れていたのに、どういうわけかリュシーヌ王家の血筋だと分かったらしい。
気づいたら革命軍に攫われて、広くて快適な牢獄のベッドで眠っていた。
そうしてーーそう。
ちゃんと、思い出せる。ずっと忘れていたけれど、今なら思い出せる。
革命軍に捕まって、快適だけれど窮屈な生活を送っていたある日の夜、私は王子様に助けてもらった。
目覚めた私が見たのは、ジークハルト様の赤い瞳と、口元に浮かんだ柔らかな笑みだった。
それから、頬に飛んだ返り血と、触れてはいけないと拒絶するようなどこか苦しげで怜悧な美貌。
私の朧げな記憶に王子様の姿はこびりついていて、ずっと、ずっとその面影を追い求めていた。
「ティア、……あぁ、ティア。私の、燈。私の全て。あなたがいたから、……私は、今もこうして呼吸ができる。ティア、あなたがいなければ、私はずっと、水底で溺れ続けていた。溺れていることにも気づかないまま」
ボートを岸に戻したジークハルト様は、桟橋へと私の手を引いて降ろしてくださった。
そのまま強く抱きしめられる。
掠れた低い声が、鼓膜を揺らす。
私もジークハルト様の背中に手を回して、その服を指先で握りしめる。
服の下に、硬い背中の感触がある。背骨や、筋肉の隆起の形は私のそれとはまるで違う。
いつもの私なら笑いながら「大袈裟ですわ」と言っていただろうけれど、今はジークハルト様の体を切り裂かれるほどに切なく強い思いが愛しい。
「ジーク様……私も、私も、ずっと……、ジーク様を探していたような気がします。忘れていて、ごめんなさい。大切な思い出だったのに。でも、どうして帰ってしまいましたの? お話も、ご挨拶も、できませんでしたわ」
「リュシーヌの戦の混乱に乗じて、私は己の姿を隠す必要があった。……カルナには、帝国の王になり、必ずティアを私の妻にすると伝えていた。けれど、私の志が道半ばで途絶えてしまう可能性も十二分にある。だからあなたには何も話さず、私のことは忘れたままでいて欲しい。そう、願っていた」
「……それでは、ジーク様がもし帝国で倒れてしまっていたら、私はジーク様のことを知らないまま、生きていたということですの?」
「あぁ。あなたへの想いは、私の妄執。身勝手な執着だ。父や兄の命は、刺し違えてでも奪うと決めていた。こうして生き残り皇帝の座を手に入れ、あなたを抱けるだなんて……、まるで、奇跡だ」
「ひどいです」
じわじわと、目尻に涙が溜まる。
後から後から溢れるそれは、頬を伝ってぽろぽろとこぼれ落ちた。
ジークハルト様は私からそっと体を離し、涙を拭ってくれる。
私はジークハルト様の顔を、なるだけ怖そうに見える顔で睨んだ。
ひとを睨むことなんてしたことがないから、上手くできているかどうかわからない。
怒っていることを伝えたいのだけれど、そもそも怒った経験に乏しいのでよくわからなかった。
「私、ずっと、ジーク様の面影を追い求めておりましたわ。きちんと覚えていなかったから、お兄様と混同してしまっておりましたけれど……、今ならわかります。ジーク様は力強くて、雄々しくて、男らしくて。……だから私は、そういった男性ばかりが出てくる恋愛小説を読むようになってしまいましたの」
「すまない、ティア。泣いているあなたは美しいが、……恋愛小説の話が出てくるとは思わなかった」
ジークハルト様は私の頬や髪を撫でながら、困ったように言った。
私はジークハルト様の赤い瞳を見つめて、なるだけ分かって貰えるように事情を説明することにした。
「私、文字があまり読めませんでしたわ。十歳ごろまでは乳母がいましたから、少しばかりはわかりましたけれど……、だから、勉強のためにと侍女が色々な本を買ってきてくれましたの」
「色々な本というのが、恋愛小説だったのか」
「どんな本が良いかと聞かれたから、王子様が出てくる本が良いと頼みましたの。でも、本の中の王子様というのは私の理想とは違いましたわ。なんというか、女性的で、優しいばかりで、……そうではなくて、もっと雄々しくて強引な方が良いとお願いしましたの。それで、……侍女達はなるだけ私の望みを叶えようとしてくれて、……いつしかそれが、強引な男性ばかりが出てくる艶本へと変わっていきましたわ」
「……すまない、ティア。途中からよくわからなかった」
「良いですか、ジーク様。ごく普通の恋愛小説には、ジーク様のような雄々しくて乱暴で強引な男性は出てきませんのよ。でも、私、お兄様とジーク様を混同していましたから、兄妹の話ばかり読んでいましたけれど……、ともかく、私の理想とする男性というのは、私の趣味の艶本の中にありましたの」
「そうか……、いや、……私は、それほど強引で乱暴だっただろうか」
「はい! それはそれは素敵でしたわ。そのせいで私、私も艶本の中の女性達のように、ひどいことをされたいと強く願うようになってしまいましたの。全てはジーク様のせいですわ」
ジークハルト様が全て悪いわけではないのだけれど、多少の責任はある気がする。
よくよく考えると、幼い頃の私は純粋だった。
当たり前だけれど、純粋だった。
いじめられたいと積極的に願ったこともないし、王子様的な方に縛られたり嬲られたり飼育されたりしたいなどと考えたことはなかった。
当たり前だけれど。
その願望が欲求不満とついでに思い出すことのできないジークハルト様への憧れと思い出せない焦燥と重なり、更に深い深い嗜虐されたい欲求の沼へと落ちていってしまった気がするのだ。
「それなのにジーク様は、……お兄様もですけれど、私に何も伝えずに、こそこそして、ひどいです。ジーク様を思い出せなかったとしたら、きっと私はずっと満たされないままでしたのよ。ジーク様は、私の性癖の責任をとってくださいまし」
「……あぁ。……すまなかったな、ティア。どうか泣かないでくれ。責任は、……喜んでとらせてもらう。寧ろ、褒美のような気さえしている」
「ジーク様……、もう、私を残してどこかに行かないでくださいましね」
「ようやく、この手にあなたを抱くことができた。どこにも行ったりしない」
「大好きです。私の、王子様」
私は怒るのをやめて、微笑んだ。
甘えるようにその首に両手を巻きつけて、頬を擦り寄せる。
ジークハルト様は私の体をしっかり抱き止めて、髪に顔を埋めた。
「ティア……、愛している。あなたを、抱きたい。……あなたの理想とは違うかもしれないが、私の思うように、して良いだろうか」
「なんでもしていくださいまし……、ジーク様にしていただけることなら、私、なんでも嬉しいです……」
艶やかな声で囁かれて、心臓が跳ねる。
触れ合う皮膚が熱を帯びる。
風で揺れる湖面が橙色の灯に照らされている。夜更けが近いのだろう。月が真上にのぼっている。
ジークハルト様の声や言葉だけで、私の体は期待に震えはじめていた。
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