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属国の姫は皇帝に虐められたい

妖精の湖

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 桟橋からボートの上に軽々と乗ったジークハルト様が、私に手を差し伸べてくださる。

 先端が尖っていて、細長い形をしたボートの先端にはオイルランプの明りが灯っていて、ゆらゆら揺れる水面を照らしていた。

 私はジークハルト様の手をとり、よろめきながらもなんとかボートに乗った。
 椅子のような形になっている場所には、ふわりとして柔らかい敷物が敷かれている。

 促されるまま腰を降ろす。案外安定した座り心地だった。
 もっと心許なく不安定なのかと思っていたけれど。

 ランプや松明で照らされている水面は橙色に輝いていて、それ以外の場所は真っ黒い。
 あまり見つめていると引き込まれてしまいそうなので、私は極力明るいランプの炎が灯っているボートの先端に視線を向けた。

 長いオールを持って、ジークハルト様が軽く水面を漕ぐ。
 私は座っているけれど、ジークハルト様は立ったままだった。

 湖に落ちるのではないかと心配になってしまう。私の心配は杞憂にしか過ぎないのだろうけれど、慣れないボートの上にいるとどうにも、不安が強い。

 湖は深くて怖い。

 落ちたら、深く沈んでしまい、浮かび上がることができそうにないような気がする。

 桟橋からボートが離れていく。
 水面を切るようにして、滑るようにボートは湖の中央まで進んでいく。

 左程大きくはない湖だ。一周歩くのに、数刻もかからない程度だろう。

 炎台が湖を取り囲むように組まれていて、森と湖面を照らしている。夜鳥の鳴き声と、虫の鳴き声が小さく聞こえる。

 見上げた夜空には、星が無数の宝石を零したように輝いている。

 星空と松明に照らされたジークハルト様の姿は、息を吞むほどに美しかった。

 まるで、――戦神のよう。

 雄々しく、美しくて、少しだけこわくて、――とても、素敵。

 明りに照らされた顔や頬が橙色に染まっている。どういうわけか、返り血が飛んでいるように見えた。

「ジーク様……」

 私は、息を飲む。
 その姿を――私は、知っているような気がする。

 湖の中央でボートは止まった。

「……っ」

 見上げた星空は、とても美しい。
 黒い水面に星空の明りが落ちて、まるで空の中に浮かんでいるような気がした。

 ジークハルト様は、星空を見せてくださろうとしたのかしら。
 私は両手を胸に当てる。

 幼いころに真っ暗闇の中でひとりで見る星空は心細いばかりだったけれど、今は――こんなにも、愛しい。

 ジークハルト様が一緒にいてくださる。

 それだけで、世界は違って見える。
 空は繋がっているから――私が幼いころに見た星空を、ジークハルト様も見ていたかもしれない。

 そう思うと、どういうわけか目尻に涙が滲んだ。

「星が、綺麗です」

 せっかく星空を見せてくださったのだから、泣き顔を見せたくない。

 目尻を手で擦って、私は微笑んだ。
 ジークハルト様は静かな眼差しで私を見た後に、視線を湖面に向ける。

 黒い湖面が、じわりと青色に染まり始める。
 輝くような青色だった。松明よりも星や月明かりよりも、もっとずっと明るく、私たちの乗るボートを中心として湖面が光っている。

「……これは、……魔法ですの?」

 本当に珍しいらしいのだけれど、世界には魔力というものを持つ方々がいるらしい。

 私は見たことがないのだけれど、彼らは魔術師と呼ばれていて、魔法が使えるのだと言う。

 お兄様は軍事力の増強のために、魔術師が欲しいのだと言っていた。

 けれど大抵の場合魔術師の方々は厭世的で、権力には関わろうとしないらしい。

 リュシーヌでは見たことがないのだけれど、帝国は広大だから、魔術師がたくさんいるのかもしれない。

 ジークハルト様の部下の方々にも、魔術師が居て、湖を光らせてくれているのかしら。

「いや、違う。これは、魔法ではないよ」

 ジークハルト様は首を振った。
 湖は輝き続けている。湖がどこか違う場所へと、繋がっているようにも思える。

 ただただ神々しく、美しい光景だった。

「ここは妖精の湖と呼ばれている。昔は本当に妖精が住んでいると思われていたようだが、……光っているのは、光虫。水の中に住んでいる虫だ。夜になり、こうしてボートなどの、別の生き物の気配を感じると、青く光る」

「まぁ、光る虫がいますのね。蛍のようなものでしょうか」

「蛍よりはもっと小さい。光らなければ、その姿を確認することができないぐらいに」

「……まるで、空の上にいるみたいです」

 ジークハルト様は、優しく微笑んだ。
 どうして、――返り血なんて思ったのかしら。

 ジークハルト様は優しい方だ。それなのに、私はまた失礼なことを考えてしまった。

 黙っていると作り物のような美しい顔立ちと表情の乏しさが相まって怖そうに見えるのだけれど、私にはずっと優しい。愛し気な眼差しも、優しい笑顔も、胸が痛いぐらいに――

「ジーク様、……私、ジーク様が好き」

「ティア……」

「……良く分かりませんでしたの。私、……私のことが、良く分からなかったんです。……私というものがきちんとうまれたのは、多分、三年前、なんです。その前の記憶は朧げで、ただ、生きるために生きていたような気がします。食べ物を探したり、湖で体を洗ったり……話をできる人もいなくて、まるで、動物でした。辛いとは思いませんわ。良い記憶だとも思いませんけれど……、私よりも辛い方々が、沢山いましたから」

「過去に戻り、あなたを……、リュシーヌの城から連れ出すことができたら、どれほど良いだろう。……私は無力だな。すまない」

「謝らないでくださいまし。ジーク様、過去のことは良いのです。そうではなくて、……だから、私、鈍感でしたの。本当に、愚鈍でしたわ。それでも王家の血筋だからでしょうか、革命戦争のときに、革命軍に捕まって、捕虜になりましたの。それで、気付いたら城に戻っておりました。お兄様が、もう大丈夫だと言って、私を抱きしめてくださいました。……誰かが、私を助けてくださいましたの」

「……そうか」

「その方は、乱暴で、血に塗れていて、力強くて……、私、……その方は、お兄様なのかと、思っておりました。だから、お兄様に憧れていたのだと思います。でも、そうではなくて」

 ジークハルト様は何故だか、苦し気に眉根を寄せた。
 この話は良くなかったのだろうか。

 けれど、――私は、知りたい。

 まさか、とは思う。

 でも――でも、私は、ジークハルト様を、知っているような気がする。

「……私を救い出して下ったのは、……血に塗れて戦って、私を守ってくださったのは、ジーク様、では、ありませんの?」

「……ティア。……それは、あなたの辛い記憶だ。忘れたままで、私は構わなかった」

 静かな声で、名前を呼ばれた。
 それは、気遣いと優しさに満ちた肯定の言葉だった。

 再び目尻に涙が溜まり、頬を流れ落ちていく。

「ジーク様、……私、私……、ずっと、……ジーク様に憧れておりましたわ」

「ありがとう、ティア。……私も、あなたに恋焦がれていた。……三年前、あなたと出会ったときから、本当はずっと、私が傍で守りたかった。けれど私には、その力がなかった。……本物の皇子になるまで、三年もかかってしまった」

「……皆、ジーク様に感謝し、慕っておりますわ。革命のための戦争とは、……どれほど、辛いことでしょう。私も、ジーク様を尊敬しております。私など、流されるまま生きて、何も成し遂げたりはできませんでしたのに」

「私もあなたを尊敬している。……ティア、あなたにあるのは苦しい記憶ばかりだろうに、あなたの心には、影がない。辛くても苦しくても、あなたは何でもないことだと言って、笑うのだろうな。……私とは、違う」

「そんな……、私は、……愚鈍なだけですのよ。深く考えるのは苦手で、……今が良ければ、それで良いと思っているだけで……。困ったものだと、自分でも思いますわ」

 苦しいばかりだったというわけではない。
 お兄様は私を気遣っていてくれた。私を哀れむ方々もたくさんいた。

 けれど――そのほとんどの方々が、処罰されてしまった。

 私は私が辛いよりも、私のために失われてしまうだろう命が、辛かった。
 だから、かしら。

 いつの間にか、――苦しくなくなった。

 だって私は生きている。森には食べ物がそれなりにあったし、沢山食べなくても死んだりしない。

 着るものだって寒さをしのげればそれで良いのだし、湖で体を洗えば清潔を保つこともできる。

 私は私が哀れだとは思わなかった。
 だって、いつか王子様が助けに来てくれる。死んでしまった乳母が話してくれた寝物語を頭の中で反芻し、何度もそう夢想した。

「ジーク様、……好きです。大好きです。……私を、選んでくれて、ありがとうございます」

 私はなるだけ綺麗に見えるように、微笑んだ。

 ジークハルト様の姿が、青い光に照らされてきらきらと輝いている。

 朧げな記憶に残る姿に、重なる。
 私を助けてくれた方は、私が目を覚ました時にとても優しい顔で笑っていた。

「ティア……帰ろう。今すぐ、あなたを抱きしめたい」

 ジークハルト様が真っすぐな眼差しで私を見つめてはっきりと言うので、私は狼狽えながらこくこくと頷いた。

 恋を自覚したら――全てが、恥ずかしい。

 こんな風に感じるだなんて、知らなかった。

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