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夕立と雷雨
しおりを挟む残る聖遺物はあとふたつ。胴体と頭だけになって大分すっきりした邪神の石像と聖遺物を抱えた私は、レイン様にぺろりと唇を舌で舐められて目を白黒させていた。
長くしなやかな指先が、背中の大きくあいたドレスからのぞく背骨や肩甲骨を撫でる。
緊張から体を硬くしていた私は、そっと離れていった唇の感触に、やっと呼吸をすることを思い出して深く息をついた。
「ロザリア。……君は、私に触れられて、嫌じゃない?」
海底神殿は海の底にある。
海面から差し込む光が、海中をエメラルドグリーンに照らしている。
海の中にいるのに、体は濡れないし、呼吸もできる。
レイン様の魔法の力は本当に何でもできる。たぶんきっと、国を滅ぼすことだって簡単にできてしまうのだろう。
レイン様が首筋や頬に触れる。私たちは皮膚によって隔てられていて、温度を感じることはできるけれど、一つに溶け合うことはできない。
境目もなくひとつになってしまえたら、レイン様に信じて貰うことができるのだろうか。
言葉はすぐに消えてしまう。
口に出した瞬間から、声は過去になってしまう。
「嫌なわけありません、嬉しいです」
「体が硬くなっているし、震えています。怖いのかと」
「慣れていないのです。男性にこんなふうに触れていただいたこと、なかったので。だから、緊張してしまいます。嬉しいのと同じ分、緊張してしまいます……嫌じゃないのは、本当です」
嫌じゃない。嬉しいに決まっている。むしろご褒美だと思う。
レイン様が積極的に私に触ってくれるという事実だけで、私は十分満たされているし、すごく、幸せ。
けれど羞恥心というのは消せないもので、どうしても体は緊張してしまう。
レイン様は「そう」と短く言って、私の髪をそっと撫でた。
「グレンは、君の婚約者でしたね。けれど、君には触れなかった」
「私は嫌われていたので。でも、嫌われていて良かったです。だって、レイン様と一緒にいられるのですから。私は、レイン様が好き。レイン様のことが好きな私でいられて、嬉しいのです」
「……グレンが君を大切にする未来は、なかったのですか? 君は未来視ができるのでしょう。運命を変えようとは思わなかったのですか」
「私が見ることができた未来は、私が投獄されてから先の未来だけなのです。でも……たとえばもっと以前から未来がわかったとして、私はきっと同じ運命を選んだのだと思います」
「同じ運命を。……君は学園で、ひどい思いをしていたのに?」
「ええ。たいしたことではありません。私をレイン様が助けに来てくれると思えば、皆から嫌われていた三年間などおまけみたいなものです」
「苦しみが、おまけ、ですか」
「はい。学園でどれほど烏と蔑まれたとしても、私には私を大切にしてくれる家族がいましたし。世界も空も広いのだから、私の痛みなんて小さなこと。じっと我慢していればいつかは通り過ぎる、夕立みたいなもの。そう思っていました」
レイン様は私の手を、優しく握った。私の両手に抱えられている邪神の石像が、まるで二人の間にうまれた子供のように、手を握り合う私たちの腕の間から顔を覗かせている。
海底神殿も、レイン様も、とても綺麗なのに、私が邪神の石像を所持しているせいで色々台無しになっている気がしないでもないけれど、石像の顔も良く見れば可愛いので、許してあげよう。
「それは夕立ではなく、雷雨だったら? じっと我慢して通り過ぎるのを待った後に残っているのは、壊れた家や大地、燃えさかる山々だったら?」
「雷雨が過ぎ去れば青空が見えます。壊れたものはつくりなおせます。傷も、いつかはふさがります。雷雨は怖いですけれど、怖いときはじっとしています。雷雨に怒ったってしかたないですから。だって、雷雨は雷雨にしかなれないのでしょう? 雨雲が雨を降らし終えるまで、待っているしかありません」
「……私をばけものにした狂信者たちは、いつでも己の不幸を嘆いていました。ゲンネのほうが優れているのに、王国の民に虐げられるのだと。ミューエ辺境伯家に巣くっていた狂信者たちは、守られていました。暴力も、差別も、受けていなかったでしょう。けれどロザリア、君は違う」
レイン様は私の手の甲を撫でる。
幾度か、針をさされたことを思い出す。傷口はちいさいから、ふさがっているはずだ。もう見えない。たぶん。
レイン様はそれを知っているかのように、私の手の甲を慈しむようにして指先で辿った。
「憎くはないのですか? 全てを壊したいという衝動は?」
「レイン様にはあるのですか?」
「わかりません。でも、君のためならそれも良いかと思っています」
「私はレイン様が好きです。私にとって大切なのは、レイン様がレイン様のまま生きていること。私と一緒にいてくれること。おはようロザリア、好きだよって、毎朝言ってくれることです。……すみません、今欲望に負けました、私」
おはようだけで十分なのだけれど。好きだよって毎日言ってくれたら、もっと嬉しい。それは欲張りすぎというものだろう。
レイン様は私の過去について、ずいぶん気にしてくれている。
私はたしかに学園であまり愉快とはいえない思いをしていたけれど、もう終わったことだ。終わったことだし、どうでも良いと思っている。大切なのは、レイン様と私のこれからの未来なのだから。
でも――レイン様は私がどんな目にあっていたのか、やっぱりよく知っているみたいだ。
どこかとおくから、私の知らない場所から、私を見ていてくれたのだろうか。
「そういえば、レイン様、私が可哀想なお魚を池に戻したり、可哀想な虫たちを花壇や森に戻したり、可哀想な小鳥や鼠を助けようとしていると、……お魚がいつの間にか池に戻ったり、虫がいつのまにかバケツの中からいなくなったり、傷だらけだった小鳥や鼠が元気になって逃げていくことがありました」
「そうですか」
「レイン様の魔法だったのではないかと、今やっと気づきました」
「……あぁ、そうだったかもしれません」
「好きです、レイン様、大好き」
私はレイン様はずっと前から、私を助けてくれていたのだと、気づいた。
好きという気持ちが溢れすぎて、どうして良いのか分からない。
だから、伝えた。
そうすることしか、気持ちを伝える方法を私は知らない。
「朝目覚めたら、君におはようと。それから、好きだと伝えれば良いのですね。……覚えておきます」
「はい!」
私は元気よく返事をした。
レイン様は優しく微笑むと、私の額に軽く口づける。
「私たちの明るい未来まで、あと少しですね、ロザリア。行きましょう」
「胴体と頭です、レイン様。日没までまだ時間がありますよ、余裕綽々ですね」
ダルダリオスの体は着々と封印されつつある。
体が封印されるということは、レイン様の持っている魔法の力も封印されるということではないのかしらと思ったけれど――そんなことはないみたいだ。
レイン様と私の足下に浮かび上がった魔方陣は、私たちを一瞬で別の場所へと運んでくれた。
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