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左腕の聖廟
しおりを挟むダルダリオスの右腕を無事に封印し終えた私たちは、今度は湿地帯に来ていた。
わさわさとした植物や、ぐるぐるとした植物がたくさんはえている湿り気を帯びて熱い場所だ。
足下はぬかるみ、苔のような植物がはえている。
靴底が地面に沈んでいくような、まるでぬめぬめした柔らかい動物の背中の上を歩いているような、ぬちゃりとした嫌な感触がある。
私の手荷物は、少し軽くなっていた。
右腕を亡くした邪神の石像と、五個に減った聖遺物。
どちらも割と大きいので、一つ減っただけでかなり身軽だ。
「さっきまで氷の山の上にいたのに、今度は熱いですねレイン様。レイン様は熱くないのですか?」
青いところどころ破けたドレスを着ている薄着の私と違い、レイン様は厚着だ。
首回りのあいている黒い服に、体を隠すようなマントを羽織っている。
全体的に黒くて重々しい雰囲気のあるレイン様だけれど、湿地帯においても涼しげで、汗ひとつながしていない。
涼しげではない、暑さにひいひいしているレイン様なんて想像するのが難しいのだけれど。
でも、それはそれで可愛らしいような気もする。
両足を水桶につけて、「暑いのは苦手なんです」というレイン様を、扇であおいであげたい。
白い肌をしたたる汗などが見えてしまった日には、私は……!
――落ち着いて、私。
そういうのは、全てが終わってから。楽しみはとっておくべきよね。海辺に別邸など建てて、二人きりのバカンスを楽しみたいわね。
「熱くはないですよ。熱さや寒さや、痛みといった感覚に、どうにもこの体は鈍くて。昔は、何かを感じていたような気がするのですが……良く思い出せません」
「でも、レイン様はさっき、あたたかいって言いましたよ?」
私が知っているレイン様の過去は、何回もの繰り返しの中で私がダルダリオスの贄に捧げられるときにレイン様から聞いたものだけだ。
ダルダリオスの力を身に宿すため、多くの人が贄になったこと。
最後は、妹さんとご両親が、命を失ったこと。
そうしてレイン様は魔力を手に入れたのだという。
けれど、儀式は中途半端なところで終わってしまった。
本来ならばダルダリオスとして覚醒するはずだったレイン様は、レイン様のままだったのだという。
ダルダリオスの魂は未だ、石像の中にある。
命の蝋燭がつきたとき、復活させられた魂は行き場を失い、レイン様の体を奪う――らしい。
実際に命の蝋燭がつきた瞬間を私は見ていないから、本当にそうなるのかまではわからないのだけれど。
「どうしてなのか、私は、ロザリアを感じることができる。君の肌は、あたたかく、柔らかい。……何を触っても、何を食べても、味も香りも感触さえわからなかったのに。……私はもっと、ロザリアに触れたい。今、そう思っています」
レイン様の指先が、私の唇をなぞった。
私は心の中で悲鳴をあげた。
どうしちゃったのかしら、レイン様。急に熱烈なのだけれど。
もちろん嬉しい。レイン様なら私としてはいつでも大歓迎だ。
でも、ここは何だか毒々しく、重苦しさを感じる蒸し暑い湿地帯で、謎の大きな虫みたいなものも飛んでいるし、私は邪神の石像を抱えているし。
ゆっくり愛を育む場所としては、あんまり適しているとはいえないのではないかしら。
「レイン様、レイン様、その、私やっぱり、子供は十人ぐらい欲しいです!」
あぁ、使命感よりも欲望が勝ってしまった。
私は大声で叫んだ後に、ぶんぶん首を横に振った。
「じゃなくて、レイン様。急ぎましょう。そんな風に触って頂くと、際限なく欲望に忠実になってしまいそうになりますので。雪山ほどではありませんが、ここは快適とは言えませんし」
「……欲望に、忠実?」
「もっとキスして欲しいなとか、そういうのです」
「しましょうか」
「良いんですか!? ……じゃなかった。レイン様、時間切れになるまえに急ぎましょう。左腕の聖廟を探さなくてはいけません」
レイン様は私の唇をふにふに触っていたけれど、手を離すとそれを軽く自分の唇にあてた。
味を確かめるようにしてぺろりと舐めてから、首を傾げる。
「直接触れないと、味はしないのですね」
「……そ、そうですか」
レイン様は純粋な探究心で動いている気がするのだけれど、見ている私は心臓に悪い。
なんとなく息苦しさを感じて深呼吸をする私に、レイン様は落ち着いた声で言った。
「ここはドロドラドの湿地帯」
「どろどろどろ?」
「ドロドラド。左腕の聖廟は、右腕から直線上にある、ミューエ伯爵領の端。つまりはこの場所。湿地帯には毒性の植物が多く、沼の水は毒に犯されていますので、毒耐性を持つ植物や動物しか生きられないと言われています」
「毒ですか」
「毒です」
「死にませんか」
「そうですね。湿地帯の空気にも植物の胞子に含まれる毒などが飛散していますので、普通に呼吸をしているだけでも死にます」
「どうしましょう」
「大丈夫ですよ、ロザリア。私と君には保護の魔法をかけています。さぁ、行きましょう。おそらく聖廟は、湿地帯の中央。毒性の最も強い沼の底にあります」
私の足下から、再びぬっと影犬さんが姿を現した。
影犬さんは私を背中に乗せてくれる。
私は影犬さんのふかふかしている背中を、撫でた。
「何故撫でるのです? それは偽物。ただの影なのに」
レイン様が私の手を見つめながら尋ねる。
「影犬さんです。影犬さんは影ですが、犬なので、撫でます。可愛いからです」
「……可愛いから、撫でる。……うん。それは、私にも記憶があるような気がする。昔、妹の頭を撫でたような記憶が」
レイン様は湿地帯の奥へと滑るように進んでいく。
私を乗せた影犬さんは、レイン様の隣を歩いた。
毒があると聞いたからだろうか、なんとなく空気が重苦しいような気がする。
レイン様が守ってくれているので問題はないのだろうけれど。
「レイン様の妹は……」
「死にました。私が十歳の時。あの子は、オリビアはまだ四歳でした。最後まで何をされているのか理解できないという瞳で、真っ直ぐに私を見ていましたよ。痛いと、泣き叫んでいました。ダルダリオスの贄にするために、母に体を押さえつけられて、父に首を切られました」
「……っ」
私はそれを、知っている。
レイン様が、何回目かの私に話してくれたことがあるからだ。
知っているけれど――何度聞いても、苦しい。
どうして私は、もっと早くに記憶を取り戻せなかったのだろう。
入学する前。いえ、もっと子供の頃。レイン様がつらい思いをしていた十歳の頃、それよりも前に繰り返しの記憶があれば、レイン様も、レイン様の妹も、助けることができたかもしれないのに。
私はどうして、なんのために繰り返していたのかしら。
どうして、私には記憶があるのだろう。
息が詰まる。体の中に毒がまわってしまったかのように、気怠く、苦しい。
「ロザリア、泣いている? ……こちらをむいて」
レイン様が足を止めて、私の頬に手をはわせた。
顔をレイン様の方に向けられる。針を指に刺してしまった時に指先にぷっくりと膨らんだ血のように、とろりとした赤い瞳に見つめられて、私は目を閉じた。
なんだか、見ていられない。
見てはいけないものを見てしまったような気がする。
目尻に、ぬるりとしてあたたかいものが触れる。
涙を啜られているのだと気づいた瞬間、ざわざわと大きな音を立てながら、大きな虫たちが逃げるようにしていっせいに湿地帯から飛び立った。
大きく目を見開いた私の目の前に、毒々しい色合いをした黒い池がある。
池の中心からごぼごぼと泡がたっている。
植物たちがまるで生きているかのように、池の中央で蠢いている。
蠢く植物たちの中心から、右手と同じような姿をした、腐臭のする巨大な左腕があらわれた。
「……あぁ、邪魔だね。涙が、もったいない。せっかくこんなに甘いのに」
レイン様は私の目尻に唇をつけながら、囁くようにそう言った。
何本もの黒い影のような剣が、暗く濁った池からずるりと現れる。
その剣は容赦なく左腕に突き刺さり、断末魔をあげるようにしながら左腕はもがき苦しみ、池の底へと沈んでいった。
「ロザリア。唇も、涙も甘い。……味も香りも、この体に化け物が入ってきた時に、どこかに忘れてきてしまったのに。……君といると、私は人間に戻れたような気がしてしまう」
「レイン様は人間です。私と同じ。涙は甘いものではありませんけれど……どうしてでしょう? もしかして、愛の力? 私がレイン様のことが好きだと思った分だけ、レイン様は私を甘く感じるのでは?」
「どうして?」
「恋は甘酸っぱいものですが、愛は砂糖菓子のように甘いものですから」
「よくわかりませんね」
「私も自分で言っておいてなんですが、どういうことかなって思ってます」
ダルダリオスの左腕も、レイン様があっさり倒してくれた。
黒い池の中央には、今は植物を編んで重ねて作ったような棺が浮かんでいる。
棺まで、私たちの立っている池の畔から、植物たちが折り重なってできた細い道ができている。
「ロザリア、左腕を封印しましょうか」
「はい……」
レイン様は私の目尻から唇を離して、微笑んだ。
正直かなり名残惜しかった。
妹さんの話を聞いて悲しかったはずなのに、すっかり涙は乾いてしまった。
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