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婚姻の申し込み
しおりを挟む夏の手前、梅雨の終わりの朝の匂いはまだ少し湿っている。
シンクにためた水桶で皿を一枚一枚洗って、布巾で丁寧に拭いていく。
調理場の窓からは裏庭が見える。
雨上がりの裏庭を縦横無尽に庭を支配している雑草たちが、生き生きとその葉に光を受けている。
緑の匂いと、湿った土のにおい。
開いた窓の網戸の向こう側から微かに夏の匂いがする。
もうすぐ蝉の声が響きだすだろう。今年の夏も、暑いのだろうか。
ちゃぷんと水桶に指先を入れて、私は息を吐きだした。
お皿洗いは――慎重にしなくてはいけない。
高級なお皿は私よりもずっと価値があるのだから。
お皿を割ると、お母様がひどく怒る。何度役立たずと言われたかわからない。
――でも、私は産まれたときから役立たずだ。
「薫子! 薫子、いるか、薫子!」
お父様の私を呼ぶ怒鳴り声が聞こえて、私は身を震わせた。
お皿洗いが終わったのに、調理場でぼんやりしていたのが知られてしまったのだろうか。
また、役立たずと、うすのろと、間抜けと――罵られるのだろうか。
着古した着物の上からつけている、生地のほつれの目立つエプロンで手を拭くと、私は急いで声のする方へと向かった。
「薫子! 遅い!」
「もうしわけありません、お父様……」
お父様の仕事部屋には、お父様とお母様、妹の咲子さんがいる。
応接用のソファにお母様とお父様が、咲子さんと向き合って座っていて、咲子さんの瞳はどういうわけか涙に濡れていた。
大きな音を立てると叱られるから、慎重に扉を開いた私が頭をさげると、お母様が忌々しいものを見るような冷たい視線を私に向ける。
――未だ、慣れない。
どうしても、期待してしまう。
いつか――お母様が私の名前を呼んで、優しく微笑んでくださることを。
そんな日は、こないことなんてもうとっくに分かっているのに。
「薫子。玉藻家から手紙が来た。慣例にのっとり、我が家から咲子を娶りたいと」
「嫌よ、お父様! 玉藻様というのは、噂によれば仮面で顔を隠している不気味な男性なのでしょう? お仕事中に無残に顔が焼け爛れてしまったから、仮面で隠しているのだとか……!」
「そんな恐ろしい男のところに、咲子さんを嫁に出すことなどできないわ! 咲子さんが不憫だと思わないの、あなた!? それに、咲子さんを嫁に出してしまったら、誰が八十神家を継ぐというの!?」
「お母様……っ」
咲子さんがお母様に抱きついて、しくしくと泣き始める。
私はその様子を、扉の前に立ったまま、黙り込んで見ていた。
――どうして私は呼ばれたのだろう。
居心地が悪くて、息が詰まる。
「八十神の娘は、咲子さん一人しかいないというのに……!」
私は八十神家の長女として産まれたけれど、そのように扱われたことは一度もなかった。
でも、幾度言われても、お母様のその言葉は、鋭利なナイフでえぐり取るように、私の心臓に傷をつける。
「――薫子。お前が、咲子の代わりに玉藻由良の元へと嫁にいけ」
「……私が、ですか?」
「あぁ。玉藻は、八十神の巫女を所望している。だが、咲子を化け物の元へなど渡すことはできん。お前が嫁になれ」
「で、ですが、私には……!」
思わず声をあげた私を、お母様がきつく睨む。
「黙りなさい! お前など産まなければよかったと何度も思ったけれど、ようやく少しは私たちのために役に立つときが来たのよ、口答えなど許さないわ!」
「お姉様がいてくださってよかった……! 私の代わりに、化け物の嫁になってくださるのですね! あぁ、よかった……!」
「で、でも……私は、巫女では……」
「神癒の力をお前は持たない。だが、そんなことは玉藻は知らん。うまく騙せ、薫子」
「そんなことは……」
「ともかく、これは決まったことだ。お前は玉藻の嫁となる。八十神の巫女としてな」
「できません、お父様、私には騙すなんて、とても……」
「黙れ!」
立ち上がったお父様が、私の頬を張った。
ばしんという音と共に、痛みが頬に走り、私は床に倒れ込む。
「咲子さんには、とびきり素敵な縁談を、お母様がみつけてあげますからね。あなたは化け物になんて嫁ぐ必要はない。鎮守様は玉藻だけではないのですから……!」
「はい、お母様! 咲子は白虎様がいいです。とても雄々しくて素敵な方と聞きました、仮面の化け物などではなくて」
「ええ、そうね、咲子さんの思い通りにしましょう。咲子さんは神癒の巫女、私の大切な娘ですから」
お母様も咲子さんも、私などは目に入っていないように二人で話をしはじめて、私はお父様の手に腕を掴まれると、部屋からまるでごみを捨てるように、廊下に引きずり出された。
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