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クリストファーの迷走

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 ◇

 寒村である。
 
 ユルゲン・グリメビト家が治める辺境伯領の北の外れ。
 
 村に家は十数軒しかなく、いずれも農地を有している。
 痩せた土地を耕し、芋や麦を作り羊を育てて日々を暮らしている。

 街といえば華やかな王都と、賑わうベルガモルド公爵領の首都ベルネックぐらいしか知らなかった俺は、岩がごろごろ転がる草に覆われた土地の横に建つ、馬小屋のような家に押し込められてどうしたらいいのかわからなかった。

 絶望と怒りが身の内を支配していても、腹は減る。
 料理などしたことがないし、食糧もない。空腹を紛らわすために井戸から水を汲んで飲んだ。
 井戸で水汲みもしたことがない。

 王都では水とは使用人に命じれば目の前に置かれるものだった。水も、紅茶も、食べ物もだ。
 着替えもない。風呂もない。次第に薄汚れて痩せていく俺の姿を見て心配したのか、村人たちが「奥さんと二人で食べなさい」と言って、果物や野菜を渡してくれた。

 三大公爵家の嫡男として生まれた俺は、村人に施しを受けるほどにまで落ちぶれてしまったのだ。

 何が悪かったんだ。
 浮気を知られたときに、婚約を解消すると言ったことが間違いだったのか。
 あの時、シルキーなどは火遊びで、俺が好きなのはリーシャだけだと言っていたらよかったのか。

 しかしリーシャは俺を殴ったのだ。とても許せなかった。今までの嫌悪の感情が溢れて、嘘を突き通すことができなかった。
 俺が好きだったくせに、俺のものだったくせに。
 リーシャが殴るべきは俺ではなくシルキーだったのではないか。
 俺を奪ったことを詰ってシルキーを糾弾し、俺を奪い返そうとするものだろう。

 リーシャも動揺していた。だからきっと間違えたのだ。糾弾するべきは、俺ではなく俺に色目を使ったシルキーだということを。

「こんなのって、ないわ……! 最低! 自分の分の水しか汲んでこないの? 何もできない役立たず!」

 ここにきてから泣いてばかりいたシルキーが、苛立ったように騒ぐことが増えた。
 部屋の隅で貰ったリンゴを齧りながら、役立たずはどちらだと思う。

 日がな一日ベッドに寝転び、泣き腫らした目は無惨に腫れている。
 体は薄汚れて髪は乱れて、まるで化物みたいだ。

 こんなものに、俺は愛を囁いたのか?
 どうかしていた。

「人殺し! 役立たず! あの時あんたが馬車から降りていれば、ちゃんと助けていれば、こんなことにはならなかったのに!」
「……馬車馬が暴れたのは使用人の管理不足だ。責任は御者にある。俺は関係がない」

「そのせいで私は、こんな目にあっているのよ」
「お前が言ったんだ。庶民の命などどうでもいいと。それより早く帰ろうと」

「人のせいにしないで!」

 ああ、うるさい。
 口の中でごりごりと潰されるリンゴには、まるで味がしない。
 ただ噛んで、飲み込んでいる。空腹を紛らわすためだけに。

「何にもできない役立たず! ベルガモルトの名前がないあんたなんて、なんの価値もないのよ! 借金まであったなんて、私は騙されたわ……! せっかく、地位も権力も金もある男を手に入れることができたと思ったのに、嘘つき!」

「……お前は、そんな理由で俺に近づいたのか?」

「そうに決まってるじゃない。お人好しのリーシャから奪うのは簡単だったわ。単純で、初なのね、クリストファー様ってば。あはは、馬鹿みたい。でも、間違えたわ。こんなことならゼフィラス様に近づけばよかった! リーシャが手に入れられるのなら、私にだって簡単に手に入ったはずよ。私の方があんな女よりも可愛いもの。あんな、人がいいばかりの、愚鈍な役立たずよりも!」

「黙れ! リーシャを愚弄するな、お前の方がよほど役立たずだ」

 何故俺は、こんな性悪に騙されたのだ。
 それに、ゼフィラスもだ。
 あの男はきっとリーシャが欲しかったのだろう。

 だから罪にもならないような罪で俺をこんな場所に押し込めたのだ。
 俺は騙され、貶められた。どうして俺ばかりがこんな目にあわなくてはいけないのだ。
 俺は、不幸だ。

「ゼフィラス様なら辺境の地でも、こんなふうに私を苦しめることなんてなかった! どこであっても、きっと幸せにしてくれたはずよ!」

「それは俺の台詞だ。リーシャであれば、俺を苦しめなかった。お前のように泣いてばかりではなく、大丈夫だと笑ってくれたはずだ」

「未練がましいのね、クリス。今頃リーシャは、ゼフィラス様に……」

「黙れ」

 俺は立ち上がると、シルキーの腕を掴んだ。
 痛がり騒ぐシルキーを、家から追い出す。扉の外でしばらく喚いていたが「家に戻るわ、私。大したことはしていないもの。謝って、許してもらうわ!」と言っていなくなった。

 家の中で一人きりになると、頭の中の霧が晴れていくようだった。
 シルキーのことは、過ちだった。
 俺はリーシャと結婚するべきだったのだ。

 リーシャは俺を愛してくれているはずだ、今でも。
 仕方なく、ゼフィラスの元にいるだけだ。相手は王太子、権力者である。
 怖いだろう。権力で無理やり、リーシャはゼフィラスに好きなようにされている。

「……俺が、助けないと」

 花畑の中で幼いリーシャが花冠を作っている。
 何を作っているのかと覗き込むと、花冠を自分の頭に乗せた。
 にっこり笑って「クリスのお嫁さんみたいに見える?」と尋ねる。

 その手をとって俺は笑った。

「そうだ、リーシャ。……君は俺の花嫁だ」

 そうすればきっとうまくいく。リーシャと和解をして、ベルガモルト公爵家に戻れば。
 全て、元通りになるはずだ。

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