幼馴染の婚約者に浮気された伯爵令嬢は、ずっと君が好きだったという王太子殿下と期間限定の婚約をする。

束原ミヤコ

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去りし日々の苦渋の記憶 1

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「うっ、いっでぇ……!」

 ハガーの呻き声を聞いた瞬間、足許からせり上がった恐怖の針は霧散した。
 腰の短剣を抜き、ラーナは〈ウズマキ〉の前に立ちはだかった。
 たちまち渦巻き模様の底から迸る殺気にさらされた。

「退け。お前らに用はない」

〈ウズマキ〉が真横に腕を打ち振ると、地面を這っていたロープが舞いあがった。
 それがふいに不自然な軌道に曲がった。
 ラーナとウェイグの頭上に放物線を描いたのだ。
 先端の短剣が風を斬って唸る!

「こいつ……ッ!」

 それを見てラーナは確信した。
呪痕カルマ〉もちだ。
 ラーナは咄嗟に跳び退り、手中の刃を閃かせた。ハガー目がけ落下する短剣が火花とともに弾き飛ばされた。

「……!」

 それを機に、茫然と立ち尽くしていたウェイグが我に返った。地を蹴り、風のごとく速くなめらかな太刀筋で〈ウズマキ〉へと襲いかかった。

「……」

〈ウズマキ〉は、それを一歩、二歩と後退り紙一重で躱した。木々の間に身を滑りこませ、剣の太刀筋を殺した。
 すると三本の指を強張らせ、バキバキと鳴らした。
 そして腕を打ち振った。
 はね上がったロープが息を吹き返した。
 短剣は螺旋を描きながら、冒険者の背中を襲う!
 ウェイグは真横に飛んだ。
 二の腕が浅く裂けた。
 が、目標を失った刃は、まっすぐに〈ウズマキ〉へと向かう。

「何故、邪魔をする?」

 ところが、ロープはまたも不自然な軌道を描いた。主を傷つける寸前で真横へ逸れ、シュルシュルと音をたてながら、その片腕に巻きついた。

「お前こそ、なんで襲う!」

 弾いても弾いても鎌首をもたげ飛来する刃をいなしながら、ラーナは叫んだ。
 短剣を逆手に構えた〈ウズマキ〉から、冷たい一瞥が返った。

「魔獣だからだ」
「は?」

 意味が解らなかった。
 しかし背筋が凍りついた。
 途轍もなく嫌な予感だけがした。
 ラーナは襲い来る刃を刃で弾き返し、肩越しに背後を見た。

「あれ……?」

 そこにハガーの姿はなかった。
〈ウズマキ〉もそれに気付いたようだ。仮面の奥で舌を鳴らした。

「しぶとい奴だ。一度ならず二度までも……」
「どういうことだ?」

 今度はウェイグが問うた。
〈ウズマキ〉はロープの巻きついた腕を半端にあげた。

「あの男は魔獣だと言ったんだ。まだ完全に目覚めてはいないようだがな」

 そう言うと〈ウズマキ〉は、今度こそ腕を打ち振った。手中の短剣が消えた。巻きついたロープが斜め上方に飛翔し、枝にぐるぐると絡みついた。
 ウェイグがとび出す。左手にスティレットを抜き、突いた!
 その時、ロープの表面がビクンと脈打った。
〈ウズマキ〉の身体が宙にはね上がり、スティレットは虚空を穿った。
 ラーナと対峙していた刃も、主の許へ引き寄せられた。
 その行方を追いながらラーナは、胸を掻きむしるような不安を吐きだした。

「待て! ウソ吐くな。ハガーさんは人間だッ!」

 くるりと翻り、枝の上に降りたった〈ウズマキ〉が見下ろす。
 不安をかきたてる螺旋の双眸で。

「そう信じたければ、あの男を追うといい。災厄か呪いか。いずれにせよ、お前に待つのは死だがな」

 そう言い残し〈ガラスの靴〉の呪いは身を翻した。虚空に身を踊らせたかと思う間に、そのシルエットは宙を舞っていた。木々の落とす影のなかを右へ左へ翔けながら、急速に輪郭を縮ませていった。

「待てッ!」

 その後を追おうと地を蹴ったラーナだったが、

「あっ……」

 たちまち全身から力が抜け落ち、その場にへたりこんだ。

「な、なんで……ッ!」

 ラーナは笑う膝を殴りつけた。
 早くハガーを捜さなければ。
〈ウズマキ〉の狙いはハガーなのだ。

「立て、立ってよ……ッ!」

 焦燥が頭のなかを炙る。
 しかし〈ウズマキ〉の言葉が、ラーナの許に差しこんだ希望を黒く染め上げ、迷わせる。

『あの男は魔獣だ』

 あり得ない。あり得るはずがない。
 魔獣の正体が人だなどと、そんな話は聞いたこともない。
 それなのに。
 水底から湧きでる泡のように、次々と疑問が浮上する。

 ハガーは何故――。

 あれほどの肩の傷を負って生きていられたのか?
 治療から間もなくして追いつく体力があったのか? 闇の中、どうやって目当ての人物を見つけ出したのか?
 本当に野盗に襲われたのか?
 気を失った際に現れた、額の変色は?

「大丈夫ですか……?」

 疑念の洪水を、ウェイグの声が破った。
 ラーナは我に返り、かろうじて頷いた。

「ケガは?」
「ない」
「それはよかった」

 ほっとウェイグが微笑むと、ラーナは俯いた。

「よくない……」
「そういう意味では、あの、すみません……」

 狼狽しながら、ウェイグが傍らに腰を下ろした。
 ラーナは額を押さえた。

「いや……ごめん。行かなくちゃ」

 手をつき立ちあがろうとすると、ウェイグが慌てて腰を浮かした。

「ちょ、待ってください!」
「なに?」
「気持ちはわかりますが、これから捜索に当たるのは危険だ。もうこんなに暗い」

 ウェイグの顔半分を炎の光が撫ぜた。

「関係ない」

 ラーナは首を振った。

「関係なくはないでしょ! あなたが死んだら元も子もない」
「ボクは死なない」
「そんなふらふらな身体で言われても説得力ないです!」
「うるさい! ボクは……!」

 子どものように反抗したものの、依然として力は湧きあがってこなかった。膝が伸び切る前に砕け、ウェイグのほうへ倒れこんでしまう。

「おっと! とにかく大人しくしてください」

 受けとめたウェイグの手が、巧まずして肩のうえに載せられた。温かい手だった。
 改めてウェイグを見上げると、その優しい面差しに、何か熱いものがこみ上げてきた。それが胸の奥底に沈殿したままの冷たい不安を際立たせた。

「う、うぇう……」

 ラーナは両手で顔を覆った。たちまち熱い滴が流れ出した。
 涸れたのだと思っていた。
 裏切りの痛みを知った、あの時に。
 けれど、熱いあつい涙は、とめどなく溢れでた。

「どう、しよう……!」
「落ち着いて。大丈夫、大丈夫ですよ。今晩はゆっくり休んで、明日一緒に捜しましょう」

 ウェイグは隣に座り直し、背中をさすってくれた。
 ラーナは濡れた顔で見上げた。

「一緒に、捜してっ、くれるの?」

 ウェイグは肩をすくめ微笑んだ。

「ヴァンさん、俺はさっきの言葉忘れてないですよ。一緒に捜そうって言ってくれたでしょ。困ったときはお互い様です」

 ラーナはばたばたと涙を拭い、何度もありがとうと頭を下げた。
 本当は自分一人でも捜しに出かけたかった。
 夜など恐ろしくはない。この目は闇をも見通すのだ。
 けれど、力が湧いてこない。
 夜ではなく、〈ウズマキ〉の言った事が怖くてこわくて仕方がなかった。
 その事実を、自分一人だけで抱え込める自信もない。
 ハガーの事は信じているつもりでも。
 時として感情の篤さに応じ、深くなる憂いもある。

「じゃあ、今はしっかり休んで、明日に備えましょう」

 ラーナはこくりと頷き、横になって目を閉じた。
 まだ、まだだ。
 まだ独りではない。
 そう思うと、無駄な力は抜けていった。

 ハガーさん、死なないで……。

 そして暗闇の中、パートナーの無事を願った。
 自分以外の誰かのためにこいねがうのは、もういつ以来かわからなかった。
 あるいは、初めての経験なのかもしれなかった。


――


 ドサ、ドサ。
 足音が聞こえる。
 赤いあかい土の上だった。
 ハガーはいつかの惨劇を思い出しながら、屍の上を歩くような不快感を味わっている。

「死にたく、ねぇ……」

 傷ついた肩を押さえ、懸命に前へ進む。ドサと土を踏みしめる音は胸に絡みつく。
 まるで置いてきた妻の、死んでいった仲間たちの、糾弾のように思えて。〈ウズマキ〉の跫音きょうおんのように思えて。怖い。

 無論、振り返ってみたところで、弁解する相手などいない。追手の影もない。
 ただひたすらに静かな木々の連なりがあるばかり。その間隙に淀む闇は、しかし何かを隠しているような気がしてならない。
 ぞっと全身が粟立って、ハガーは足を速める。

 ドサ、ドササ。

 足音は追ってくる。いつまでも。
 決して近くも遠くもならず。
 いつまでも背中にぴったりとはり付いている。

「なんでオレが、こんな目に……!」

 さらに足を速める。音は遠くならない。
 見えない相手から逃げながら、ハガーはふと考えた。

 どこへ向かってるんだ、俺は?

 わからなかった。誰か知っているなら教えて欲しかった。
 否、誰もこの場にいて欲しくなかった。きっとそれは自分を脅かすものだから。

「うわっ!」

 張りだした木の根に足をとられた。
 惨めに土を舐めたら泣けてきた。
 足音がやんだ。

 追いつかれたのか?

 振り返ることはできなかった。
 恐怖の中、何故だろう、ふいに独り村に残してきた妻を思い出した。

「……エルマ」

 共に生き、共に死にたいと、初めて思えた相手だった。惰性で過ごしてきた人生に差した灯火だった。
 それが消えゆこうとしているなら、守らぬ道理はなかった。
 だがその決断の果てが、こんな孤独な最期なのだろうか。

「こんな事になるくらいなら……」

 あいつの傍にいてやればよかった……。

 引き留めた細腕を振り解かず、命尽き果てる瞬間まで、今度は自分が希望の温もりになってやるべきだった。

 帰りたい。

 胸の奥底に蓋をした感情が、どっと溢れ出る。残してきたものの重みが、傷ついた肩に圧し掛かる。
 狩りはたった一つの手違いが命を脅かすものだ。襲われれば喰われ、逃げられれば飢える。狩人に過ちは赦されない。
 人の道もそうだったのだと気付く。
 しかし窮地に立たされてから気付くのでは、あまりに遅すぎる。

 ビョウ!

 その時、風を斬る音がして。

「ッ!」

 反射的に土の上を転がっていた。
 視界の端で、短剣がザクと土を抉った。
 腹の底で、恐怖が拳を突きあげた。
 地面を掻くように手足をばたつかせ、立ちあがる。
 前につんのめりながら、すぐそばの木陰に跳びこんだ。
 頭上を見上げれば、星々に過ぎる影が見えた。
 突き刺さった短剣がピンと伸びたロープに引き上げられ、宙を舞った。
 影は瞬く間に、死角へ。
 と同時に、頭上へ消えゆこうとしていた短剣が、不自然な軌道で飛来する!

「クソぉ……!」

 涙目になりながらハガーは横に跳んだ。刃が浅く胸を裂いた。

「ぐあぁ!」

 跳んだ勢いのまま、無様に倒れ込んだ。

 ドサ。

 背後に殺意が凝った。
〈ウズマキ〉が下りてきた。
 死にたくない、とハガーは言った。
 当然だ、と〈ウズマキ〉は答えた。
 そしてこうも言った。

「これは慈悲だ」

 と惻隠《そくいん》に。

》楽にしてやる」

 と頑なに。

〈ウズマキ〉のロープが螺旋を描いた。
 風が哀しげに唸りをあげた。

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