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過去と今と 1
しおりを挟む――お父様は怒るだろうか、お母様やお兄様は泣くだろうか。
アシュレイ君は、大丈夫だろうか。お義姉様の具合が、ずっとよくない。
リーシャになら話せると言って、不安を口にしてくれた。「お母様は、死んじゃうかもしれない」と言って。
クリストファーは、泣いてくれるかしら。
今までの記憶が、頭の中を駆け巡る。私は恵まれた家に生まれた。
貴族が商売をするなどいやらしいと言って蔑む人もいるけれど、それはきっとお父様への嫉妬だろう。
お金に困ったことはない。お父様は余剰資金を慈善事業に使っていたし、領民たちを苦しめるようなこともしなかった。
それは別に、お父様が優しいから――ということではないのだ。
お父様は、徹底的な合理主義者だった。
もちろん、善や悪の判断はするし、善良な方だ。
少し違うかもしれない。善良であろうとしている方だ。
「感情に走れば、勝機を見失う。商売とはそういうものだよ、リーシャ。どちららに利があるのかを嗅ぎ分ける嗅覚が必要になる。金があるところには、金の匂いを嗅ぎつけた厄介な連中が集まってくるものだからな」
お父様が善良に振る舞うのも、慈善事業に勤しむのも、単純な優しさからというわけではない。
それは順調に領地を発展させるためであり、商売人として極力敵を作らないためらしい。
利害関係を第一に考えるお父様だけれど、私やお兄様には優しかった。
「クリストファーと結婚をしたいのなら、そのように頼もう。私はね、リーシャ。親として、お前の幸せを願っている」
私は、それなのに――こんなところで死ぬ。
でも、後悔はしていない。私は正しいことをした。
子供を見殺しにして自分だけ生き残るようなことはしたくない。
もし同じことがもう一度あったとして、私は同じ行動をとるだろう。
そこに、迷いなんかない。私が救える命があれば、私は手を差し伸べる。
それが――恵まれている私の、義務だからだ。
でも、それだけじゃない。
私がそうしたいと思うから――自分の心は、裏切れない。
「大丈夫か、嬢ちゃん! 起きろ! 飲んだ水を吐き出せ!」
私を呼ぶ声がする。せっかく、穏やかな気持ちで眠っていたのに。苦しくも痛くもない。
深い深い海の底へ沈んでいって――果ての無い眠りにつくことができたのに。
「っ、うえっ、げほ……っ、ぁぐ……っ」
何度も背中が叩かれている。痛い。痛いし、苦しい。
喘ぐように呼吸を繰り返し、幾度も咳き込んだ。
苦しい、痛い、寒い。
「嬢ちゃん、無事か……よかった」
喉に詰まった海水を、げほげほと吐き出した。とても人には見せられない姿だ。
潤んだ視界に入ってきたのは、獅子のような大柄な男性だった。
「……っ、あな、たは」
「サーガ・ウェールズ。観光船の持ち主だ。……まさかこんなことが起るとはな」
「あの子は……!」
「嬢ちゃんが助けた子供なら、無事だよ」
私は船の甲板に寝かされていた。
髪も服もびしょ濡れで、体に張り付いていて気持ち悪い。
全速力で長時間走ったぐらいに呼吸が苦しくて、冷や汗が出た。
でも――生きている。
あの子供も、無事だった。
再び意識を手放した私が次に目覚めたのは、伯爵家の自室だった。
海水を飲んだせいで肺炎を起こし、高熱が出て数日間熱に魘されていたらしい。
甲斐甲斐しく世話をしてくれたのはグエスで、サーガさんが手配してくれた王都の腕利きの医者によって私の治療はなされた。
数日寝込んだらすっかり元気になった私に、サーガさんから多額の謝礼金が渡された。
食事にも何度か誘われたけれど、婚約者がいるからとそれはお断りさせてもらった。
私の助けた子供も、命を取り留めて無事。セイレーンは討伐されて、乗客は怪我人が出たぐらいですんだのだという。
子供のご両親から、お礼の手紙やお礼の品が、何度も私の元に届けられた。
ともかく、無事でよかった。
あのまま手を伸ばさずにあの子が命を失ってしまっていたら、私はきっと顔をあげて生きることができなくなっていた。
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