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 セイレーンの記憶 2

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 海面に炎が燃えている。夕日の炎だ。
 少しずつ吐き出す空気がこぽこぽと、炎に向かって浮き上がっていく。

 海中は、くらい。
 深いところに行くほどにどんどん暗くなり、どこまでも続く真っ暗な、地面に空いた穴のように感じられる。

 吸い込まれて、深く沈んでいきそうなほど。
 それはただの海でしかないのに。
 海には悪意なんてない。ただ広がっているだけだ。私の命を奪おうなんてしていない。
 ただそこに、人の力ではどうにもできない大きな自然があるだけ。

 セイレーンに操られていたからか、落ちた瞬間子供は気を失ってしまったのだろう。
 海中にたゆたう小さな体が見える。
 手を伸ばし、足で海水を蹴り、私は子供の傍まで辿り着いた。
 
 春先の海水はまだ冷たい。
 抱きしめた体はひやりとしていて、重さを感じさせなかった。

 海面に出なければ。
 空気が足りなくなってしまう。急がないと。
 
 片手で子供を抱いて、私は浮上するために海水を再び蹴る。
 もう片方の手で海水をかき分けて、口の端からこぽこぽと漏れる空気があがっていく方向めがけて泳ぎ続ける。

 海面ではまだ炎が燃えている。海の中では上も下も分からなくなり、混乱して溺れてしまうのだとお父様が言っていた。
 混乱したら、空気を吐き出してしまう。
 一気に空気を吐き出してしまえば、どうしても吸い込みたくなる。
 吸い込んでも入ってくるのは海水だけ。だから、溺れるのだ。

 船に乗る機会の多いお父様は、いつか私が海に落ちたときのためと、そういう話をよくしてくれた。
 頭の中でお父様の言葉を反芻する。
 混乱してはいけない。落ち着いて、冷静に。大丈夫、まだ息が続く。
 子供は無事だろうか――もう、死んでいるのではないだろうか。

 わからない。でも、今はそんなことを考えている暇はない。
 ともかく、海面に浮上しなくては。そうすればきっと誰かが、私たちを助けてくれる――。

 もうすぐ海面から顔を出せる。
 炎が近い。橙色の光に優しく包まれているみたいだ。
 海中に向かって、いくつもの光の梯子が差し込んでいる。
 あぁ――助かる。

 そう思ったときだった。
 私の前に、ぬっと美しい女性が顔を出した。
 海の中で、銀色の髪が海藻のようにゆらゆらと揺れている。

 魅惑的に弧を描く口元。美しい青い瞳は宝石のようで――なんの感情も宿していない。

(セイレーン……!)

 海に落とした獲物を助けたのが気に入らなかったのだろうか。
 わざわざ私を追ってきたのだ。
 女性の下半身から先は、上半身よりも何倍も長い鱗のある魚の姿をしている。
 うねうねと伸びる魚の下半身からは、いくつものヒレが突き出ていた。

 私の頬にセイレーンが触れる。歌声が、鼓膜に直接注がれているように、頭にぐわんぐわんと響いた。

 あぁ――駄目だ。
 私は――。

 死を悟った。でも、死ぬわけにはいかない。私が死んだら、子供も死んでしまう。
 でも――まるで、風に煽られた蝋燭の炎が消えるように。
 ふつりと、私の意識は暗闇に沈んでいった。


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