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黒騎士ゼス 2
しおりを挟む止まっていた涙がまたこぼれてしまう。
ゼス様は何も言わずに店を出た。両手が塞がっているからか、扉を足で蹴破る。
ばん! と、音を立てて壊れて開く扉に一瞬唖然としたけれど、私は何も言わずに目を伏せた。
今日は、なんていう日なのかしら。
まるで本当に夢を見ているみたいだ。
私は実はベッドの中にいて、いまだまどろんでいるのではないかしら。
目覚めて準備をして、身支度を整えて、クリストファーの迎えを待つのだ。
一緒に劇を見て、笑い合って、婚礼の儀式が楽しみだって──初めてのキスを、したりして。
そんな一日が待っている……訳が、ないわよね。
「ゼス様、助けていただいて、ありがとうございます」
私はゼス様の腕の中で、ひっくひっくと情けなく嗚咽を漏らしながら、なんとかお礼を言った。
ゼス様がいなかったら、私はもっと最低な一日を過ごすことになっていた。
「君が無事でよかった。……助けに入るのが遅くなり、すまなかった。まさか……あんな店に貴族女性が入ってくるとは思わずに、判断が遅れた」
「それはそうですよね、この格好ですもの……」
私はすでに、アールグレイス伯爵の娘だと名乗って素性を明かしている。
でも、一目見れば貴族か、それなりの立場の娘だとわかるだろう。
「婚約者に浮気をされたという話は聞こえてきた。辛い気持ちはわかるが、大人しく家に帰ったほうがいい」
「は、はい……本当に、反省しています、私。ご迷惑をおかけしてしまって、ごめんなさい。ゼス様、もう大丈夫です。迎えの馬車が劇場の前にいるはずなので、そこまで歩けます」
「靴がない。それに、踵から血が滲んでいる。大人しくしていなさい」
「はい……」
どうしてゼス様が仮面をつけているのか私にはわからない。
少し怪しい風貌だけれど、有名な冒険者のゼス様は人格的にも立派な方なのだろう。
私はお言葉に甘えて、大人しくしていた。
確かに、靴は脱げてしまっていたし、あの場で靴を拾って履く余裕なんてとてもなかった。
ややあって、「お嬢様!」と私を探す従者たちの声が聞こえてくる。
伯爵家の馬車まで私を送り届けてくれたゼス様に、従者たちは深々と頭をさげて口々にお礼を言った。
「本当にありがとうございます、ゼス様。必ず、お礼を……!」
「その必要はない。心を落ち着けて。ゆっくり休め、リーシャ。君が無事で、本当によかった」
酒場では少し怖いぐらいに怒っていたゼス様だけれど、今はもう怒っていないみたいだ。
馬車の中に座る私に、そう言って薄く微笑んでくれる。
嫌なことはあったし、怖かったけれど。
私を助けてくれるいい人もいる。ゼス様のおかげで、私は少し元気になっていた。
少なくとも、クリストファーの浮気について考えて、泣きじゃくらないでいられるぐらいには。
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