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夜の離れ
しおりを挟む母屋の隣にある小さな建物は、土間と畳敷の八畳間と、格子のついた小さな窓しかない離れである。
今は幸次郎さんが書斎として使用している場所だ。
けれど私にとってこの離れは、死の香りがいつも付き纏っているように思われる。
病とは不浄のもの、よくないものだと、六谷家ではいわれている。
それは六谷家が、魚の売買で富を築いたからなのかもしれない。
生魚は腐る。腐りものは、病を運ぶ。
この地方には海がないから、ひいお爺様の時代に海辺の街で魚を買い付け売ることをはじめたらしい。
お店はやがて大きくなり、人を雇えるまでになった。
今は幸次郎さんが亡くなったお父様の跡をついでいる。
私のお父様も、お爺様も、この離れで亡くなった。病だった。
離れは、病で死にゆく人を、閉じ込めるための場所だ。
私のお祖母様は、私が生まれる前に亡くなっている。お祖母様の亡くなった理由は知らないけれど、その後立て続けに、お父様とお爺様が後を追うようにして亡くなった。
六谷家で立て続けに病死が続けば、流行病だと噂されてしまう。それはきっと商売に悪影響となるのだろう。
だからだろうか。離れで密やかに亡くなったお父様たちは、大きな葬儀をおこなうこともなく、まるで隠されるようにしてしめやかに荼毘にふされたようだ。
死に目には、あえなかった。
墓参りにも行っていない。
だから私にとって死とは唐突に、離れに連れていかれて消えてしまうことだ。
もちろん離れと死が無関係であることは、もう十七歳にもなるのだから、理解している。
料理の時は、死んだ魚や動物をさばく。
道端で死んでいる犬や猫や鳥を見たことだって、一度や二度ではないのだから。
「寒かっただろう、痛かっただろう。どうして、朱海さんは実の娘のお前に、ひどいことをするのだろうね」
真っ暗な離れに私を運び、幸次郎さんは土間の籠につんである浴衣を畳の上に広げると、私をおろした。
月明かりしか光源のない離れの小部屋に、石油ランプの灯りがともる。
あかるく照らされた私を、幸次郎さんは長い前髪をかきあげながら、哀れなものを見るような目で見つめた。
仕事帰りの幸次郎さんは、灰色のスーツを着て、青いネクタイをしめている。
家業の一つである魚売りは今はもう雇人が行っていて、幸次郎さんの仕事は『事業の経営』というのだそうだ。
「蜜葉はこんなに綺麗なのに、朱海さんはお前に嫉妬をしているのかもしれないな。もう、あの人も歳だから」
幸次郎さんは、私の剥き出しの足を手拭いで丁寧に拭いながら言う。
「朱海さんと朱鷺子は、蜜葉のことを汚れていると言うけれど、足なんて、こんなに真っ白で綺麗だ。いつの間にか随分と、女らしくなったのだね、蜜葉。いくつになったのだったかな」
「……十七です」
「そうか。俺がこの家の使用人だった時、蜜葉はまだ幼かった。可愛らしいお嬢様だったのに、いつの間にか、女になるのだな」
幸次郎さんは私の足の指を一本一本手拭いでゆっくりと土の汚れを拭き取りながら、どこか熱のこもった声音で言う。
ぞわりとした気持ち悪さを感じ、私は幸次郎さんの手の中から逃げようと、足をひこうとした。
けれど足首を強い力で掴まれて、身動きがとれなくなってしまう。
ぐい、と引かれて、半身を起こしていた私は、畳の上でバランスを崩して背中を打った。
「綺麗にしてあげているのだから、暴れてはいけない。俺は蜜葉のお父様なのだから、嫌がる必要はないだろう?」
「ごめんなさい、ごめ、なさ……」
どこまでも甘く優しい声音に、有無を言わせない冷酷さがにじむ。
朱海お母様も、朱鷺子さんも怖いけれど、幸次郎さんも、怖い。
私に痛いことはしないけれど、でも、怖い。
うまく息ができなくて、声が掠れた。
幸次郎さんが満足げに、私を見下ろしている。
「濡れてしまって寒いだろう。綺麗にして、着替えを手伝ってあげよう。お前がどれぐらい大人になったのか、お父様に見せてくれるかい?」
「ごめんなさい、許して、許してください……」
「怖がらなくても大丈夫だよ、俺は朱海さんとは違う。血は繋がっていないけれど、お前を実の娘のように思っている」
幸次郎さんの指先が、私の襦袢の帯に伸びる。
「旦那様、帰ってらしたの? 幸次郎さんーー」
朱海お母様の声が遠く聞こえて、幸次郎さんは薄く笑うと、私に伸ばしていた手を止めた。
「あぁ、朱海さんに見つかってしまうと、蜜葉がもっとひどいことをされてしまうね。だから、今日のことは内緒だよ、蜜葉」
幸次郎さんは立ち上がると「部屋に帰って着替えなさい」と言った。
私は軋む手足を叱咤してなんとか立ち上がると、転がるようにして母屋の裏口から、自室とは名ばかりの今はもう使われていない空の布団部屋へと戻った。
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