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六谷蜜葉(むつたにみつは)
しおりを挟むはあ、はあ、と浅い呼吸を繰り返す。
呼吸をしているはずなのに、息苦しさがずっと続いている。
まるで海の中で溺れている魚のようだ。
手入れの行き届いていない庭には、柿の木と、井戸と、私に向けて水をかけた後の空っぽになった水桶が、いくつか転がっている。
――この水桶が、全部いっぱいになるまで水を汲んでちょうだい。
朱鷺子さんにそう言われたのは、今日の昼過ぎ。
朱鷺子さんのドレスを縫い直していた時だ。
最近流行りの洋装は、朱鷺子さんのお気に入り。特にドレスは一番のお気に入りで、クローゼットの中には数着、鮮やかなドレスが収められている。
ボタンが気に入らない、花飾りが足りない、丈が長すぎる、フリルが足りない、レースが足りない。
そう、朱鷺子さんがドレスに文句を言い出したのは、今日の朝のことだった。
今日中に全部縫い直して、と言われた。
午前中は、お掃除や洗濯、昼食や夕食の準備があるのだけれど、朱鷺子さんの命令を断るわけにはいかない。
けれど普段の私の役割を疎かにすると、朱海お母様から手酷い折檻を受けることはわかっていた。
だから、できるだけ早くいつもの家事を終わらせて、衣装部屋にこもってドレスの縫い直しをしていた。
一着目のドレスの縫い直しが終わった時に、水を汲めと言われた。
それが私にかけるための水とは知らず、私は言われるままに井戸水をくんだ。
そうして、朱海お母様が私の着物を脱がして、体を柿の木に縛りつけた。
わけがわからないまま、私は呆然としていた。抵抗はしなかった。そんなものは意味がないとわかっているし、びくびくと怯えていることしかできなかった。私は、二人が怖い。
それから、朱鷺子さんが私に水をかけた。
(戦争の捕虜は、自分で自分の墓穴を掘ったと、昔おじい様がおっしゃっていたわね)
私も同じだ。
それが私にかけるための水だと、どこかで薄々気付いていた。
けれど私は黙々と、言われるままに水を汲んだ。どうしてそうしてしまうのか、自分でもよくわからない。
今の私は、命じられるままに動く、人形でしかない。
もう、百舌鳥の声は聞こえない。百舌鳥は自分の声を思い出せるのだろうか。
私は、自分がどんな形をしていたのか、もう思い出せないのに。
でも、そんなものは最初からなかったのかもしれない。
縛られてどれぐらい経ったのだろう。
すっかり陽が落ちてしまい、屋敷の窓だけが煌々と明るい。
どうしてこうなってしまったのだろう。
体が、冷たい。痛い。
自分の足や手が、どこにあるのか分からない。動かそうと思ったけれど、動かすことができているかどうかも、暗闇の中では見ることもできなかった。
このまま死んでしまえたら、楽になるのだろうか。
死にたいと、強く思ったことはないけれど。辛いも苦しいも、よく分からない。
ただ、痛いのは、嫌だと思う。
「……蜜葉、大丈夫か?」
真っ黒い影が、いつの間にか私の前に立っていた。
荒縄をナイフで切ったそのひとは、ふらつく私の体を支えてくれる。
皮膚が怖気立つ。触られたくないと思う。
けれど、体はいうことをきいてくれない。私はその影の太い腕に抱えられて、明るい屋敷から逃げるように、闇の溜まっている離れへとつれていかれる。
――幸次郎さんだ。
幸次郎さんは、私の新しいお父様だった。
私が五歳の時にお父様が亡くなって、朱海お母様はその時六谷家の下男だった幸次郎さんと再婚をした。
幸次郎さんは朱海お母様よりもずっと若くて、私にとってはお父様というよりはお兄様という感覚が強かった。
だからだろうか、今でも幸次郎さんを、お父様とは思えない。
幸次郎さんは、悪い人ではないのだと思う。
朱海お母様に見つからないように、こっそりと私に優しくしてくれる。
今も屋敷は静かだから、お仕事から帰ってきて、母屋に向かわずに直接庭に来たのだろう。
でも――幸次郎さんに助けてもらうよりも、縛られたままの方が、ずっと良かったのにと思う。
「また、朱海さんにひどいことをされたんだな。かわいそうに」
私を抱き上げて運ぶ幸次郎さんの口調は、甘ったるく優しい。
けれど、幸次郎さんが私を助けたことを知ると、朱海お母様はもっと私を嫌う。
私は。
――幸次郎さんが苦手だ。
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