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破談のすすめ
しおりを挟むエニードの淑やかで大人しい態度に気を大きくしたのか、マリエットは何故か勝ち誇ったように扇で口を隠しながらころころと笑った。
「挨拶など必要ないのよ。だって、あなたとは二度と会うことなどないのだから! クラウス、この結婚、今すぐ破談になさい」
「何を言っているのですか、母上。……あなたなど母とも呼びたくないが。あなたの言う通りに、生活に困らない程度の金は毎月渡している筈です。住む場所も、ルトガリアの別宅を与えました。私の人生の邪魔をするのはやめてください」
破談という言葉に、クラウスはとうとう激怒した。
激怒といっても、声を荒げるわけではなく、その顔からは表情が抜け落ちて、瞳孔が収縮している。
人が怒るときには、いくつかの感情の発露の種類がある。
激高する者もいれば、冷静になる者もいるし、笑い出す者もいる。様々だ。
クラウスは冷静になるタイプなのだなと、エニードはクラウスの顔を眺めた。
それにしても、噂にたがわず中々強烈な人だ。マリエットという女性は。
「邪魔なんてしていないわ! 大切な息子の邪魔をするわけがないじゃない。よく知らない伯爵家の女を娶るなんてどうかしているわよ。ルトガリア家は王家の信頼もあつい、由緒正しい家柄よ」
「ルトガリア家の血筋を継いでいるのは私であって、あなたではない」
「その血を与えたのは私だと言っているのよ。お腹を痛めて生んだ子よ、あなたの幸せを私は望んでいるの」
「御冗談を」
「冗談ではないわ。フィルシャワ家の兄が、自分の娘とあなたに結婚をさせたいと言っているの。半年前にも紹介したでしょう? レミニアよ。一目見た時からあなたに恋をしたそうで、まだ誰とも婚約もせずにあなたを待っているわ」
「エニードの前で余計なことを言うな……! 彼女が傍にいてくれるだけで、今の私には奇跡だというのに……! すまない、エニード。この女の話は聞かなかったことにしてくれ。すぐに追い出すから、部屋で待っていて欲しい」
クラウスはエニードに向き合うと、両肩に手をおいて心配そうにエニードの顔を覗き来んだ。
顔にへばりついた怒りは消えている。
自分を見失う程に怒っているというわけではないようだ。
こんな状況でもエニードを気遣ってくれる、よい夫である。
よい夫のために、エニードはよき妻であらねばならない。
騎士として。そして一人の人間として。
エニードはクラウスやルトガリアの侍女たちや、皆を守ると誓ったのだ。
エニードと言う名の大船に皆を乗せたわけだから、その航海は、嵐に見舞われようが、凪が起ころうが、速やかに順調であるべきである。
「あなた、エニードと言ったわね。今日はレミニアを連れてきたわ。フィルシャワ家を知っているわね、もちろん。あなたのような弱小貴族などとてもかなわない家よ。恥をかくまえに、さっさと出ておいきなさい」
「──お義母様。出ていくのはやぶさかではないのですけれど」
「エニード、そんなことを言わないでくれ。私が君を守る。私には君だけだ、どうか信じて欲しい……!」
エニードは、必死な様子のクラウスの両手を握って、力強く頷いた。
大丈夫だと心を込めて。にっこりと微笑んだ。つもりである。
クラウスは頬を染めて、瞳を潤ませた。エニードの笑顔の意味が分かったらしい。
クラウスはエニードの笑顔を笑顔と認識してくれるのだと、気づいた。
それはとても珍しいことだ。いつも微笑んでいるつもりでも、無表情だと言われるのに。
「私も、ただ出ていくというのは納得がいきません。お義母様が私を認めないという気持ちは理解しました。私は確かに伯爵家の娘で、フィルシャワ侯爵家とは比べることもできません。ですが、私にも意地、とうものがあります」
「伯爵家の娘の意地など、考慮する必要もないものよ」
「そうかもしれませんが、一つ、お願いがあります」
「願いとは?」
「レミニア様がいらっしゃっているのですね。是非、この場に連れてきてください。そして、どちらがクラウス様の妻に相応しいのか──奥方の座をかけて、勝負をいたしましょう」
勝負となれば、エニードには勝つ自信がある。
もちろん決闘をするわけにはいかないが。
どちらが相応しいかで押し問答するよりは、さっさと勝負をして勝敗を決めてしまった方が話が早い。
ただここで、自分の方がクラウスに相応しいと言葉だけで主張したところで、何の証明にもならないのだから。
「勝負ですって……?」
「エニード、そんなことはしなくていい。私の妻は君だけだ」
「確かにそれはそうですが、だからといってお義母様は納得されないでしょう。私とレミニア様が勝負を行い、私が負けたらこの結婚は破談として、私はルトガリア家を去ります」
「あなたのような女が、侯爵家の娘として完璧に育てられたレミニアに勝てるとでも思っているの?」
「勝負は、やってみなくてはわかりません。そして、勝負の前には皆が平等なのです。それとも、お義母様のお連れになった方は、私には勝てないと、お義母様は思っているのでしょうか。戦う前から、負けると考えているのですか」
「そんなわけがないじゃない! 分かったわ、受けてやるわ、その勝負とやら。さっさと負けて、泣きながらクラウスの元を去りなさい!」
これは──いい判断だ。
エニードは自分の思い付きを、心中で称賛した。
頭の中のラーナも「エニード様、ルトガリアの奥方に相応しいふるまいです。特に暴力に訴えないところがすばらしいです」と褒めている。
ジェルストも「エニード様、教育的指導だと殴らなかったのが素晴らしいです!」と泣きながら手を叩いてくれている。
「エニード、勝負など……。私は、君には迷惑をかけたくない。私が君を守らなくてはいけないのに」
「クラウス様、ご安心を。夫婦というものは、困難に二人で立ち向かっていくものです。私はあなたを守ります。私は大船、そして強い。あなたの為ならどんな城も落とすと約束しました。妻として」
「エニード……」
「えっ……城……?」
今まで静かに成り行きを見守っていたキースが、戸惑いの声をあげる。
遠巻きに見ていた侍女たちも「城?」「お城?」と、小さな声で口にした。
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