36 / 55
遅めの朝
しおりを挟むジェルストとエヴァンの思い出に浸ることにも飽きてしまった。
ラーナやシルヴィアに話したら喜ぶのだろうが、エニードにとってそれはただの、部下たちの青春の思い出でしかない。
恋人のように親しいことは微笑ましくはあれど、それ以上の何かは特に感じなかった。
上下左右というのは難しいものだ。
いったん考えるのをやめて、それからちらりと部屋を見渡した。
時計の針は、午前八時を示している。
普段は朝の五時には目を覚まして鍛錬に勤しんでいるエニードにとって、驚くほどの寝坊である。
いったいクラウス様はいつ起きるのだろうな──と、エニードは安らかに眠り続けている男の顔を至近距離でじっと眺める。
ジェルストが確か、クラウスは二十七歳だと言っていた。
だがその肌は、女性のようにきめの細かく若々しい。
エニードが幼い頃、祖父と冒険の旅に出た時、一年中雪に覆われている地方の宿では暖をとるためによくこうして、祖父が抱きしめながら眠ってくれたものである。
エニードにとって祖父の腕の中とは、何よりも安心する安全な場所だった。
祖父は寡黙な人だったが、かといって話すことが嫌いというわけでもなく、時々ぽつりぽつりと騎士団時代の話や、それよりももっと若いころの話をしてくれた。
だからエニードは、こうして抱きしめられて眠るということに多少は慣れている。
クラウスには、エニードのように抱きしめて眠ってくれる祖父のような人はきっといなかったのだろう。
エニードを抱きしめたまま眠り続けているのは、もしかしたらそういった経験がないが故に、はじめて安心感を感じているからかもしれない。
それはそうだ。祖父の腕の中が安全であったように、エニードの腕の中も当然王国一安全な場所だ。
子犬は母犬の腹の中で眠るのだから、クラウスも同じ。
母犬を求める、子犬のようなものなのだろう。
そう思うと、無碍にはできない。
夫婦として夫には親切にするべきである。クラウスはきっと疲れているのだろう。
今日は特に予定はないはずなので、眠りたいだけ眠らせてあげようと思うし、抱きしめたいのなら好きに抱きしめさせてあげようと思う。
それが夫婦というものである。
妻という役割は案外大変だが、騎士団長の役割に慣れてしまった今、新たな役割というのも新鮮で悪くない。
昨日は、夫婦の営みについては何も進まなかったが、これはエニードにも問題がある。
きちんと男同士の愛の営みについてラーナに聞いてこなかったのがいけなかった。
しかし、まだ少女のラーナにそんなことを聞くのはどうなのか。
──などと考えていると、クラウスの瞼が薄っすらと開いた。
ぱちりと至近距離で、目が合う。
瞬きをせずに人をじっと見つめる癖のあるエニードは、その綺麗な青い瞳が驚愕に見開かれて、何度もぱちぱちと瞬きをする様子を眺めていた。
「クラウス様、おはようございます」
「え、エニード……! す、すまない……!」
がばっとエニードから離れて、床に這いつくばろうとするクラウスの手首をつかみ、エニードは悪人を羽交い絞めにする要領でクラウスをベッドに押し倒した。
「おはようございます、クラウス様」
「え、ええ、エニード、これは一体……っ」
「それは私が尋ねたいのですが。目覚めた途端に土下座をしないでください。土下座をするときは、それ相応の罪を犯した時です。クラウス様は寝て、起きた。それだけです」
「し、しかし、私は……こ、こんなに近くで、君を抱きしめて眠っていたのだ。それに、こんなに遅くまで」
「それがどうしましたか。ルトガリア家には、寝坊をすると懲罰がくだるという決まりでもあるのですか」
「ないが……私はどちらかといえば眠りが浅く、早起きの方なのだが……それに、君に悪いと思い、昨夜は少し離れて眠ったはずなのに……」
エニードに押し倒されたクラウスは、頬を染めてエニードから視線をそらしながら、小さな声で呟く。
昨日はクラウスよりも先に、ほぼ一瞬で眠ってしまったので、クラウスのそのような気遣いは全く知らなかった。
「クラウス様。私たちは夫婦ですので、気づかいは無用です。抱きしめたければ抱きしめればいいですし、好きなようになさってください」
「……っ、エニード、君はなんて潔い女性なんだろうか。しかし、いけない。もっと自分を大切にしてほしい。それに、私は君を大切にしたい」
「それは昨夜も聞いた気がします」
「私の気持ちは昨日も今日も変わらない」
「それは、ありがとうございます。クラウス様の考えは理解しましたが、私は抱きしめられて眠ることに慣れています。ですので、問題ありません」
「慣れ……っ」
クラウスは何故か、赤くなったり青くなったりした。
案外強情で、落ち着いているように見えて感情表現が豊かな人である。
「慣れているのか、エニード……そうか……」
「はい。祖父とよく共に寝ました」
「祖父……っ」
今度は嬉しそうに、安堵したように口元をほころばせる。
尻尾を振っている子犬を連想させる表情である。
「祖父か……そうか……」
「はい、祖父です。ところでそろそろ起きてもいいですか」
「あ、あぁ、そうだな。起きよう、エニード。今日は、領地の案内をしようと思っていた。王都ほどではないが、ルトガリアの街も賑わっている。君に、私の暮らしている場所を見て欲しい」
「えぇ、もちろんです」
エニードはクラウスの上から起き上がり、硬くなった体をのばすために両手を広げて伸びをした。
首を回し、肩を動かし、ベッドから軽々と降りる。
それからふと思い出して、もう一度クラウスに挨拶をした。
「おはようございます、クラウス様」
「……おはよう、エニード」
クラウスはゆっくりと起き上がり、気恥ずかしそうに微笑んだ。
837
お気に入りに追加
2,124
あなたにおすすめの小説
婚約者を奪われ魔物討伐部隊に入れられた私ですが、騎士団長に溺愛されました
Karamimi
恋愛
伯爵令嬢のクレアは、婚約者の侯爵令息サミュエルとの結婚を間近に控え、幸せいっぱいの日々を過ごしていた。そんなある日、この国の第三王女でもあるエミリアとサミュエルが恋仲である事が発覚する。
第三王女の強い希望により、サミュエルとの婚約は一方的に解消させられてしまった。さらに第三王女から、魔王討伐部隊に入る様命じられてしまう。
王女命令に逆らう事が出来ず、仕方なく魔王討伐部隊に参加する事になったクレア。そんなクレアを待ち構えていたのは、容姿は物凄く美しいが、物凄く恐ろしい騎士団長、ウィリアムだった。
毎日ウィリアムに怒鳴られまくるクレア。それでも必死に努力するクレアを見てウィリアムは…
どん底から必死に這い上がろうとする伯爵令嬢クレアと、大の女嫌いウィリアムの恋のお話です。
身代わりの公爵家の花嫁は翌日から溺愛される。~初日を挽回し、溺愛させてくれ!~
湯川仁美
恋愛
姉の身代わりに公爵夫人になった。
「貴様と寝食を共にする気はない!俺に呼ばれるまでは、俺の前に姿を見せるな。声を聞かせるな」
夫と初対面の日、家族から男癖の悪い醜悪女と流され。
公爵である夫とから啖呵を切られたが。
翌日には誤解だと気づいた公爵は花嫁に好意を持ち、挽回活動を開始。
地獄の番人こと閻魔大王(善悪を判断する審判)と異名をもつ公爵は、影でプレゼントを贈り。話しかけるが、謝れない。
「愛しの妻。大切な妻。可愛い妻」とは言えない。
一度、言った言葉を撤回するのは難しい。
そして妻は普通の令嬢とは違い、媚びず、ビクビク怯えもせず普通に接してくれる。
徐々に距離を詰めていきましょう。
全力で真摯に接し、謝罪を行い、ラブラブに到着するコメディ。
第二章から口説きまくり。
第四章で完結です。
第五章に番外編を追加しました。
殿下、側妃とお幸せに! 正妃をやめたら溺愛されました
まるねこ
恋愛
旧題:お飾り妃になってしまいました
第15回アルファポリス恋愛大賞で奨励賞を頂きました⭐︎読者の皆様お読み頂きありがとうございます!
結婚式1月前に突然告白される。相手は男爵令嬢ですか、婚約破棄ですね。分かりました。えっ?違うの?嫌です。お飾り妃なんてなりたくありません。
大嫌いな幼馴染の皇太子殿下と婚姻させられたので、白い結婚をお願いいたしました
柴野
恋愛
「これは白い結婚ということにいたしましょう」
結婚初夜、そうお願いしたジェシカに、夫となる人は眉を顰めて答えた。
「……ああ、お前の好きにしろ」
婚約者だった隣国の王弟に別れを切り出され嫁ぎ先を失った公爵令嬢ジェシカ・スタンナードは、幼馴染でありながら、たいへん仲の悪かった皇太子ヒューパートと王命で婚姻させられた。
ヒューパート皇太子には陰ながら想っていた令嬢がいたのに、彼女は第二王子の婚約者になってしまったので長年婚約者を作っていなかったという噂がある。それだというのに王命で大嫌いなジェシカを娶ることになったのだ。
いくら政略結婚とはいえ、ヒューパートに抱かれるのは嫌だ。子供ができないという理由があれば離縁できると考えたジェシカは白い結婚を望み、ヒューパートもそれを受け入れた。
そのはず、だったのだが……?
離縁を望みながらも徐々に絆されていく公爵令嬢と、実は彼女のことが大好きで仕方ないツンデレ皇太子によるじれじれラブストーリー。
※こちらの作品は小説家になろうにも重複投稿しています。
お金のために氷の貴公子と婚約したけど、彼の幼なじみがマウントとってきます
鍋
恋愛
キャロライナはウシュハル伯爵家の長女。
お人好しな両親は領地管理を任せていた家令にお金を持ち逃げされ、うまい投資話に乗って伯爵家は莫大な損失を出した。
お金に困っているときにその縁談は舞い込んできた。
ローザンナ侯爵家の長男と結婚すれば損失の補填をしてくれるの言うのだ。もちろん、一も二もなくその縁談に飛び付いた。
相手は夜会で見かけたこともある、女性のように線が細いけれど、年頃の貴族令息の中では断トツで見目麗しいアルフォンソ様。
けれど、アルフォンソ様は社交界では氷の貴公子と呼ばれているぐらい無愛想で有名。
おまけに、私とアルフォンソ様の婚約が気に入らないのか、幼馴染のマウントトール伯爵令嬢が何だか上から目線で私に話し掛けてくる。
この婚約どうなる?
※ゆるゆる設定
※感想欄ネタバレ配慮ないのでご注意ください
【完結】傷物令嬢は近衛騎士団長に同情されて……溺愛されすぎです。
早稲 アカ
恋愛
王太子殿下との婚約から洩れてしまった伯爵令嬢のセーリーヌ。
宮廷の大広間で突然現れた賊に襲われた彼女は、殿下をかばって大けがを負ってしまう。
彼女に同情した近衛騎士団長のアドニス侯爵は熱心にお見舞いをしてくれるのだが、その熱意がセーリーヌの折れそうな心まで癒していく。
加えて、セーリーヌを振ったはずの王太子殿下が、親密な二人に絡んできて、ややこしい展開になり……。
果たして、セーリーヌとアドニス侯爵の関係はどうなるのでしょう?
【完結】聖女になり損なった刺繍令嬢は逃亡先で幸福を知る。
みやこ嬢
恋愛
「ルーナ嬢、神聖なる聖女選定の場で不正を働くとは何事だ!」
魔法国アルケイミアでは魔力の多い貴族令嬢の中から聖女を選出し、王子の妃とするという古くからの習わしがある。
ところが、最終試験まで残ったクレモント侯爵家令嬢ルーナは不正を疑われて聖女候補から外されてしまう。聖女になり損なった失意のルーナは義兄から襲われたり高齢宰相の後妻に差し出されそうになるが、身を守るために侍女ティカと共に逃げ出した。
あてのない旅に出たルーナは、身を寄せた隣国シュベルトの街で運命的な出会いをする。
【2024年3月16日完結、全58話】
王太子殿下の子を授かりましたが隠していました
しゃーりん
恋愛
夫を亡くしたディアンヌは王太子殿下の閨指導係に選ばれ、関係を持った結果、妊娠した。
しかし、それを隠したまますぐに次の結婚をしたため、再婚夫の子供だと認識されていた。
それから10年、王太子殿下は隣国王女と結婚して娘が一人いた。
その王女殿下の8歳の誕生日パーティーで誰もが驚いた。
ディアンヌの息子が王太子殿下にそっくりだったから。
王女しかいない状況で見つかった王太子殿下の隠し子が後継者に望まれるというお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる