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エニード様を左に
しおりを挟む──それにしても、眠い。
今日は忙しかった。それ自体はいい。エニードは体力があるほうだ。王都横断フルマラソンを余裕で走り切ることができるほど、体力が有り余っている。
だが、大人しく座って芸術を鑑賞するというのはあまり得意ではなかった。
もちろん、演奏も合唱も演劇も素晴らしいものだったが、普段使わない部分を使ったように軽い疲労感がある。
これだけ一日を満喫した上に、散々体を塩もみされるきゅうりぐらいに熱心に揉まれたのだ。
全身の血行がとてもよくなり、気を抜くとうとうとしそうになってしまう。
寝ている場合ではない。これから子作りを、するようなしないような、なのだから。
(夫婦生活というのも大変だな……)
眠気をおさえてクラウスの訪れを待たなくてはいけないのだ。正直、寝ていいと言われたら一秒で眠れる。
エニードは眠気を覚ますために、ジェルストとエヴァンではどちらが上でどちらが下なのかを考えることにした。
彼らの出会いは、幼い頃にまで遡る。
同じ村出身の幼馴染だった二人は、騎士に憧れて野山を駆け回りながら切磋琢磨し合っていた。
エヴァンは村一番の金持ちの息子だった。エヴァンの父は、所有していた山に金脈を見つけたのである。
エヴァンの父は金を売り富を得て、男爵位を買った。
対してジェルストは、昔騎士だったという自堕落な父と二人暮らしだった。
母はジェルストが幼い時に男を作り出ていってしまった。それから、自堕落で呑んだくれの父と二人暮らし。当然、豊かではなかった。
成金男爵と呼ばれる父の元で豊かに育ったエヴァンは、贅沢を嫌い遊興を嫌う真面目な少年だった。
ろくでなしの父の元で苦労しながら育ったジェルストは、口と頭の回転が早いやや軽薄な少年に育った。
正反対の二人は馬が合い、毎日共に過ごしていたのだという。
『こんな村、いつか出てやる。俺は、王都に行く』
『王都に行ってどうするんだ?』
『騎士になる。騎士なら、庶民でもなることができる』
『じゃあ、僕も一緒に行く。騎士になれば、人の役に立つことができるだろう』
少年たちはそんな話をよくしていた。
ジェルストもエヴァンも今の生活から逃げたかったのだ。ジェルストは当然のこと、豊かだったエヴァンも、金が全てだと、全ての人間は金の前にひれ伏すのだと豪語する父に嫌気がさしていた。
金山など何の役にも立たない。金は食べることができないからだ。あれは、ただの光る石だ。
エヴァンはそう思っていた。宝石も金も何もかもが、エヴァンには何か薄汚れたものに見えたのである。
騎士を目指すといっても、剣がすぐに手に入るわけではない。
二人は木の枝で模造刀をつくり、いつも持ち歩いていた。山に行っては小型の魔物を模造刀で叩き、大木を敵に見立てて模造刀で打つ練習をした。
そんなある日、二人は森に──。
「……エニード、いつも以上にとても真剣な顔をしているが、何か悩みがあるのではないか」
「──クラウス様」
騎士団の皆との年末忘年会の最中に聞いた、ジェルストとエヴァンの昔話に思いを馳せていたエニードは、はっとして顔をあげた。
いつの間にかクラウスが部屋にいた。
ベッドに座っているエニードの正面に立って、エニードの顔をのぞきこんでいる。
「それは、そうだろうな……この部屋は君にとっては、最低な思い出のある場所だ。婚礼の日の夜に、独り寝をさせてしまうなんて、私はなんて最低な男だったのか」
「クラウス様」
「すまなかった、エニード。君は優しい女性だ。私の謝罪を受け入れてくれた。しかし、その心は未だ深く傷つき血を流しているのだろう。私はそんなことにも気づけずに……」
「血は流していません。私に傷を負わせることのできる者など、今のところいませんので」
「私に気をつかう必要はない。君はなんて……思慮深く、健気な女性なのだろう」
クラウスがエニードの前の床に片膝をついて、潤んだ瞳で見上げてくる。
その話はエニードの中ではもう終わっているのだが、クラウスの中では終わっていないらしい。
夫婦というのは大変だ。
相手が部下だとしたら「いい加減にうるさい」と一喝して、「そんなに気に病むのなら、今日は一日筋肉トレーニングだ」と、筋肉の肥大化を目論むだけで済むのだが。
「クラウス様、私はなにも悩んでいません。今はただ、上下左右について考えていたのです」
「上下左右……」
「はい」
「それは、哲学的な問いだな」
「そうですね」
エニードは相づちを打った。ラーナに言わせれば『脊髄反射でうつ何も考えていない相づち』ということになるが、エニードとしてはきちんと、それなりに言葉を選んで口に出しているつもりだ。
「女であり、男であり、女でありながら男になる必要もあり、逆もある。哲学的です」
「エニード、君は難しいことを考えているのだな。……素敵だ」
さすがに、あなたを待っている間眠かったので──とは言えない。
ぶつぶつ何かを言いながら頬を染めるクラウスに、エニードは手を差し伸べた。
「クラウス様、床に座ってはいけません。こちらに」
「しかし」
「夫婦の寝室なのですから、一緒に眠ることは当然です」
クラウスはエニードと同じで、寝衣を着ている。飾り気の少ないガウンのような寝衣である。紐がほどけたら下着姿になってしまうような、防御力の低い寝衣だ。
ざっくりあいた胸元が妙に色っぽい。クラウスが男性に組み敷かれることを求めているのだとしたら、エニードは頑張らなくてはいけない。
(私の努力が、円満な夫婦生活と親孝行に繋がるのだからな)
それに、ほうっておくとクラウスはいつまでも床に座って己の行いを後悔し続けるのだろう。
それは若干、めんどくさ──ではなく、見ていて忍びない。
エニードはおもむろに立ち上がると、ベッドから降りた。
それからクラウスの体を軽々と担ぎあげて、そっとベッドに降ろした。
ぽいっと放り投げないところが、エニードの淑女らしさである。今日は公爵夫人なのだから、投げてはいけない。部下だったら投げていた。
「え、エニード……っ!?」
「クラウス様、ご安心を。──ではなく……そうですね、あぁ、そうだった。あなたの全てを、私にください。私にあなたを食べさせてください、クラウス様」
エニードはクラウスの上に馬乗りになると、ラーナが言っていた『セツカがクラウスを襲う台詞』を口にした。
きちんと両手をクラウスの顔の横において、じっとその目を見ながら。
クラウスは一瞬呆けた顔をしたあと、みるみるうちに顔を赤くした。
涙に濡れる瞳、染まる頬、切なげにひそめられる眉。
エニードの想像していたとおりの妙に色気のある表情である。
エニードは生まれてはじめて、生娘を襲う悪人の気持ちを味わった。
これで正しいのだろうか、ラーナ。教えて欲しい。
──ジェルスト、シルヴィア様、今の私は何点ですか。
自問自答するエニードの脳内で、ラーナとジェルスト、そしてシルヴィアが、百点満点の札を掲げている。
そうなのだ。エニードはいつだって花丸百点満点なのである。
祖父がいつもそう言って褒めてくれたのだから、間違いない。
「だ、駄目だ……エニード、もっと自分を大切にしなくてはいけない……!」
クラウスはがばっと起き上がり、エニードと自分の体を反転させた。
エニードが遅れを取るほどに素早い身のこなしだった。
ぎゅっと抱きしめて、よしよしと頭を撫でられる。
「私のせいで、君が傷つく必要はない。こういったことは、ゆっくりでいい。私のことを思っての行動だったのだろう、ありがとう。だが、私は君を大切にしている。君に嫌われたくない。焦りたくない」
「……クラウス様、あの」
「今日は疲れただろう。ゆっくり眠って欲しい。あの日のやりなおしをさせてくれ。朝まで、私はこうして、君の傍にいる」
そうではなく。
子作りを……と、エニードは思った。
しかし、優しく撫でられていると、もともと眠かったこともあり、エニードは呆気なく睡魔に負けた。
というよりは、まぁいいか──明日もあるし、と頭を切り替えて、寝ることにした。
頭の切り替えの早さも、エニードの美徳の一つであった。
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