上 下
34 / 55

エニード様を左に

しおりを挟む


 ──それにしても、眠い。

 今日は忙しかった。それ自体はいい。エニードは体力があるほうだ。王都横断フルマラソンを余裕で走り切ることができるほど、体力が有り余っている。
 だが、大人しく座って芸術を鑑賞するというのはあまり得意ではなかった。

 もちろん、演奏も合唱も演劇も素晴らしいものだったが、普段使わない部分を使ったように軽い疲労感がある。

 これだけ一日を満喫した上に、散々体を塩もみされるきゅうりぐらいに熱心に揉まれたのだ。
 全身の血行がとてもよくなり、気を抜くとうとうとしそうになってしまう。

 寝ている場合ではない。これから子作りを、するようなしないような、なのだから。

(夫婦生活というのも大変だな……)

 眠気をおさえてクラウスの訪れを待たなくてはいけないのだ。正直、寝ていいと言われたら一秒で眠れる。
 エニードは眠気を覚ますために、ジェルストとエヴァンではどちらが上でどちらが下なのかを考えることにした。

 彼らの出会いは、幼い頃にまで遡る。
 同じ村出身の幼馴染だった二人は、騎士に憧れて野山を駆け回りながら切磋琢磨し合っていた。

 エヴァンは村一番の金持ちの息子だった。エヴァンの父は、所有していた山に金脈を見つけたのである。
 エヴァンの父は金を売り富を得て、男爵位を買った。
 対してジェルストは、昔騎士だったという自堕落な父と二人暮らしだった。
 母はジェルストが幼い時に男を作り出ていってしまった。それから、自堕落で呑んだくれの父と二人暮らし。当然、豊かではなかった。

 成金男爵と呼ばれる父の元で豊かに育ったエヴァンは、贅沢を嫌い遊興を嫌う真面目な少年だった。
 ろくでなしの父の元で苦労しながら育ったジェルストは、口と頭の回転が早いやや軽薄な少年に育った。

 正反対の二人は馬が合い、毎日共に過ごしていたのだという。

『こんな村、いつか出てやる。俺は、王都に行く』
『王都に行ってどうするんだ?』
『騎士になる。騎士なら、庶民でもなることができる』
『じゃあ、僕も一緒に行く。騎士になれば、人の役に立つことができるだろう』

 少年たちはそんな話をよくしていた。
 ジェルストもエヴァンも今の生活から逃げたかったのだ。ジェルストは当然のこと、豊かだったエヴァンも、金が全てだと、全ての人間は金の前にひれ伏すのだと豪語する父に嫌気がさしていた。

 金山など何の役にも立たない。金は食べることができないからだ。あれは、ただの光る石だ。
 エヴァンはそう思っていた。宝石も金も何もかもが、エヴァンには何か薄汚れたものに見えたのである。

 騎士を目指すといっても、剣がすぐに手に入るわけではない。
 二人は木の枝で模造刀をつくり、いつも持ち歩いていた。山に行っては小型の魔物を模造刀で叩き、大木を敵に見立てて模造刀で打つ練習をした。

 そんなある日、二人は森に──。

「……エニード、いつも以上にとても真剣な顔をしているが、何か悩みがあるのではないか」
「──クラウス様」

 騎士団の皆との年末忘年会の最中に聞いた、ジェルストとエヴァンの昔話に思いを馳せていたエニードは、はっとして顔をあげた。
 いつの間にかクラウスが部屋にいた。
 ベッドに座っているエニードの正面に立って、エニードの顔をのぞきこんでいる。

「それは、そうだろうな……この部屋は君にとっては、最低な思い出のある場所だ。婚礼の日の夜に、独り寝をさせてしまうなんて、私はなんて最低な男だったのか」
「クラウス様」
「すまなかった、エニード。君は優しい女性だ。私の謝罪を受け入れてくれた。しかし、その心は未だ深く傷つき血を流しているのだろう。私はそんなことにも気づけずに……」
「血は流していません。私に傷を負わせることのできる者など、今のところいませんので」
「私に気をつかう必要はない。君はなんて……思慮深く、健気な女性なのだろう」

 クラウスがエニードの前の床に片膝をついて、潤んだ瞳で見上げてくる。
 その話はエニードの中ではもう終わっているのだが、クラウスの中では終わっていないらしい。
 夫婦というのは大変だ。
 相手が部下だとしたら「いい加減にうるさい」と一喝して、「そんなに気に病むのなら、今日は一日筋肉トレーニングだ」と、筋肉の肥大化を目論むだけで済むのだが。

「クラウス様、私はなにも悩んでいません。今はただ、上下左右について考えていたのです」
「上下左右……」
「はい」
「それは、哲学的な問いだな」
「そうですね」

 エニードは相づちを打った。ラーナに言わせれば『脊髄反射でうつ何も考えていない相づち』ということになるが、エニードとしてはきちんと、それなりに言葉を選んで口に出しているつもりだ。

「女であり、男であり、女でありながら男になる必要もあり、逆もある。哲学的です」
「エニード、君は難しいことを考えているのだな。……素敵だ」

 さすがに、あなたを待っている間眠かったので──とは言えない。
 ぶつぶつ何かを言いながら頬を染めるクラウスに、エニードは手を差し伸べた。

「クラウス様、床に座ってはいけません。こちらに」
「しかし」
「夫婦の寝室なのですから、一緒に眠ることは当然です」

 クラウスはエニードと同じで、寝衣を着ている。飾り気の少ないガウンのような寝衣である。紐がほどけたら下着姿になってしまうような、防御力の低い寝衣だ。

 ざっくりあいた胸元が妙に色っぽい。クラウスが男性に組み敷かれることを求めているのだとしたら、エニードは頑張らなくてはいけない。

(私の努力が、円満な夫婦生活と親孝行に繋がるのだからな)

 それに、ほうっておくとクラウスはいつまでも床に座って己の行いを後悔し続けるのだろう。
 それは若干、めんどくさ──ではなく、見ていて忍びない。

 エニードはおもむろに立ち上がると、ベッドから降りた。
 それからクラウスの体を軽々と担ぎあげて、そっとベッドに降ろした。
 ぽいっと放り投げないところが、エニードの淑女らしさである。今日は公爵夫人なのだから、投げてはいけない。部下だったら投げていた。

「え、エニード……っ!?」
「クラウス様、ご安心を。──ではなく……そうですね、あぁ、そうだった。あなたの全てを、私にください。私にあなたを食べさせてください、クラウス様」

 エニードはクラウスの上に馬乗りになると、ラーナが言っていた『セツカがクラウスを襲う台詞』を口にした。
 きちんと両手をクラウスの顔の横において、じっとその目を見ながら。

 クラウスは一瞬呆けた顔をしたあと、みるみるうちに顔を赤くした。
 涙に濡れる瞳、染まる頬、切なげにひそめられる眉。
 エニードの想像していたとおりの妙に色気のある表情である。

 エニードは生まれてはじめて、生娘を襲う悪人の気持ちを味わった。
 これで正しいのだろうか、ラーナ。教えて欲しい。
 ──ジェルスト、シルヴィア様、今の私は何点ですか。

 自問自答するエニードの脳内で、ラーナとジェルスト、そしてシルヴィアが、百点満点の札を掲げている。
 そうなのだ。エニードはいつだって花丸百点満点なのである。
 祖父がいつもそう言って褒めてくれたのだから、間違いない。

「だ、駄目だ……エニード、もっと自分を大切にしなくてはいけない……!」

 クラウスはがばっと起き上がり、エニードと自分の体を反転させた。
 エニードが遅れを取るほどに素早い身のこなしだった。
 ぎゅっと抱きしめて、よしよしと頭を撫でられる。

「私のせいで、君が傷つく必要はない。こういったことは、ゆっくりでいい。私のことを思っての行動だったのだろう、ありがとう。だが、私は君を大切にしている。君に嫌われたくない。焦りたくない」
「……クラウス様、あの」
「今日は疲れただろう。ゆっくり眠って欲しい。あの日のやりなおしをさせてくれ。朝まで、私はこうして、君の傍にいる」

 そうではなく。
 子作りを……と、エニードは思った。
 しかし、優しく撫でられていると、もともと眠かったこともあり、エニードは呆気なく睡魔に負けた。

 というよりは、まぁいいか──明日もあるし、と頭を切り替えて、寝ることにした。
 頭の切り替えの早さも、エニードの美徳の一つであった。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

所詮、わたしは壁の花 〜なのに辺境伯様が溺愛してくるのは何故ですか?〜

しがわか
ファンタジー
刺繍を愛してやまないローゼリアは父から行き遅れと罵られていた。 高貴な相手に見初められるために、とむりやり夜会へ送り込まれる日々。 しかし父は知らないのだ。 ローゼリアが夜会で”壁の花”と罵られていることを。 そんなローゼリアが参加した辺境伯様の夜会はいつもと雰囲気が違っていた。 それもそのはず、それは辺境伯様の婚約者を決める集まりだったのだ。 けれど所詮”壁の花”の自分には関係がない、といつものように会場の隅で目立たないようにしているローゼリアは不意に手を握られる。 その相手はなんと辺境伯様で——。 なぜ、辺境伯様は自分を溺愛してくれるのか。 彼の過去を知り、やがてその理由を悟ることとなる。 それでも——いや、だからこそ辺境伯様の力になりたいと誓ったローゼリアには特別な力があった。 天啓<ギフト>として女神様から賜った『魔力を象るチカラ』は想像を創造できる万能な能力だった。 壁の花としての自重をやめたローゼリアは天啓を自在に操り、大好きな人達を守り導いていく。

王太子様に婚約破棄されましたので、辺境の地でモフモフな動物達と幸せなスローライフをいたします。

なつめ猫
ファンタジー
公爵令嬢のエリーゼは、婚約者であるレオン王太子に婚約破棄を言い渡されてしまう。 二人は、一年後に、国を挙げての結婚を控えていたが、それが全て無駄に終わってしまう。 失意の内にエリーゼは、公爵家が管理している辺境の地へ引き篭もるようにして王都を去ってしまうのであった。 ――そう、引き篭もるようにして……。 表向きは失意の内に辺境の地へ篭ったエリーゼは、多くの貴族から同情されていたが……。 じつは公爵令嬢のエリーゼは、本当は、貴族には向かない性格だった。 ギスギスしている貴族の社交の場が苦手だったエリーゼは、辺境の地で、モフモフな動物とスローライフを楽しむことにしたのだった。 ただ一つ、エリーゼには稀有な才能があり、それは王国で随一の回復魔法の使い手であり、唯一精霊に愛される存在であった。

最初から勘違いだった~愛人管理か離縁のはずが、なぜか公爵に溺愛されまして~

猪本夜
恋愛
前世で兄のストーカーに殺されてしまったアリス。 現世でも兄のいいように扱われ、兄の指示で愛人がいるという公爵に嫁ぐことに。 現世で死にかけたことで、前世の記憶を思い出したアリスは、 嫁ぎ先の公爵家で、美味しいものを食し、モフモフを愛で、 足技を磨きながら、意外と幸せな日々を楽しむ。 愛人のいる公爵とは、いずれは愛人管理、もしくは離縁が待っている。 できれば離縁は免れたいために、公爵とは友達夫婦を目指していたのだが、 ある日から愛人がいるはずの公爵がなぜか甘くなっていき――。 この公爵の溺愛は止まりません。 最初から勘違いばかりだった、こじれた夫婦が、本当の夫婦になるまで。

【完結】引きこもりが異世界でお飾りの妻になったら「愛する事はない」と言った夫が溺愛してきて鬱陶しい。

千紫万紅
恋愛
男爵令嬢アイリスは15歳の若さで冷徹公爵と噂される男のお飾りの妻になり公爵家の領地に軟禁同然の生活を強いられる事になった。 だがその3年後、冷徹公爵ラファエルに突然王都に呼び出されたアイリスは「女性として愛するつもりは無いと」言っていた冷徹公爵に、「君とはこれから愛し合う夫婦になりたいと」宣言されて。 いやでも、貴方……美人な平民の恋人いませんでしたっけ……? と、お飾りの妻生活を謳歌していた 引きこもり はとても嫌そうな顔をした。

身代わりの公爵家の花嫁は翌日から溺愛される。~初日を挽回し、溺愛させてくれ!~

湯川仁美
恋愛
姉の身代わりに公爵夫人になった。 「貴様と寝食を共にする気はない!俺に呼ばれるまでは、俺の前に姿を見せるな。声を聞かせるな」 夫と初対面の日、家族から男癖の悪い醜悪女と流され。 公爵である夫とから啖呵を切られたが。 翌日には誤解だと気づいた公爵は花嫁に好意を持ち、挽回活動を開始。 地獄の番人こと閻魔大王(善悪を判断する審判)と異名をもつ公爵は、影でプレゼントを贈り。話しかけるが、謝れない。 「愛しの妻。大切な妻。可愛い妻」とは言えない。 一度、言った言葉を撤回するのは難しい。 そして妻は普通の令嬢とは違い、媚びず、ビクビク怯えもせず普通に接してくれる。 徐々に距離を詰めていきましょう。 全力で真摯に接し、謝罪を行い、ラブラブに到着するコメディ。 第二章から口説きまくり。 第四章で完結です。 第五章に番外編を追加しました。

婚約者を譲れと姉に「お願い」されました。代わりに軍人侯爵との結婚を押し付けられましたが、私は形だけの妻のようです。

ナナカ
恋愛
メリオス伯爵の次女エレナは、幼い頃から姉アルチーナに振り回されてきた。そんな姉に婚約者ロエルを譲れと言われる。さらに自分の代わりに結婚しろとまで言い出した。結婚相手は貴族たちが成り上がりと侮蔑する軍人侯爵。伯爵家との縁組が目的だからか、エレナに入れ替わった結婚も承諾する。 こうして、ほとんど顔を合わせることない別居生活が始まった。冷め切った関係になるかと思われたが、年の離れた侯爵はエレナに丁寧に接してくれるし、意外に優しい人。エレナも数少ない会話の機会が楽しみになっていく。 (本編、番外編、完結しました)

ハズレ嫁は最強の天才公爵様と再婚しました。

光子
恋愛
ーーー両親の愛情は、全て、可愛い妹の物だった。 昔から、私のモノは、妹が欲しがれば、全て妹のモノになった。お菓子も、玩具も、友人も、恋人も、何もかも。 逆らえば、頬を叩かれ、食事を取り上げられ、何日も部屋に閉じ込められる。 でも、私は不幸じゃなかった。 私には、幼馴染である、カインがいたから。同じ伯爵爵位を持つ、私の大好きな幼馴染、《カイン=マルクス》。彼だけは、いつも私の傍にいてくれた。 彼からのプロポーズを受けた時は、本当に嬉しかった。私を、あの家から救い出してくれたと思った。 私は貴方と結婚出来て、本当に幸せだったーーー 例え、私に子供が出来ず、義母からハズレ嫁と罵られようとも、義父から、マルクス伯爵家の事業全般を丸投げされようとも、私は、貴方さえいてくれれば、それで幸せだったのにーーー。 「《ルエル》お姉様、ごめんなさぁい。私、カイン様との子供を授かったんです」 「すまない、ルエル。君の事は愛しているんだ……でも、僕はマルクス伯爵家の跡取りとして、どうしても世継ぎが必要なんだ!だから、君と離婚し、僕の子供を宿してくれた《エレノア》と、再婚する!」 夫と妹から告げられたのは、地獄に叩き落とされるような、残酷な言葉だった。 カインも結局、私を裏切るのね。 エレノアは、結局、私から全てを奪うのね。 それなら、もういいわ。全部、要らない。 絶対に許さないわ。 私が味わった苦しみを、悲しみを、怒りを、全部返さないと気がすまないーー! 覚悟していてね? 私は、絶対に貴方達を許さないから。 「私、貴方と離婚出来て、幸せよ。 私、あんな男の子供を産まなくて、幸せよ。 ざまぁみろ」 不定期更新。 この世界は私の考えた世界の話です。設定ゆるゆるです。よろしくお願いします。

またね。次ね。今度ね。聞き飽きました。お断りです。

朝山みどり
ファンタジー
ミシガン伯爵家のリリーは、いつも後回しにされていた。転んで怪我をしても、熱を出しても誰もなにもしてくれない。わたしは家族じゃないんだとリリーは思っていた。 婚約者こそいるけど、相手も自分と同じ境遇の侯爵家の二男。だから、リリーは彼と家族を作りたいと願っていた。 だけど、彼は妹のアナベルとの結婚を望み、婚約は解消された。 リリーは失望に負けずに自身の才能を武器に道を切り開いて行った。 「なろう」「カクヨム」に投稿しています。

処理中です...