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エニード、はじめて助けられる
しおりを挟むそもそも、このような状況になるのははじめてである。
誰かに助けを求められる、もしくは女性から菓子や花を渡される以外で、人から話しかけられたことなどないに等しい。
一人で食事ができないなんてずいぶん寂しがり屋な男性たちもいるものだ。
だが、エニードは人妻なので、寂しがり屋な男性たちの相手はできない。
あまりにしつこいので、今まさに握られた腕を反対に折り曲げて、そのまま地面に打ち倒して背中を踏もうとしていたところだった。
悪人に怪我をさせずに取り押さえる時におこなう、エニードの得意技である。
失敗したことは一度もない。
なにせエニードは音速よりも素早いのだと、自負している。
誰も呼んでくれないが、閃光のセツカという二つ名がある。エニードの中で。
相手に怪我をさせずに取り押さえるというのはなかなかどうして難しいもので、力の入り具合によっては関節が外れたり骨が折れたりしてしまう。
エニードのそれは、繊細かつ大胆かつ素早く力強い。
とてもテクニカルなもので、ただ声をかけてきた男に対して使用するものとしては最善な技に思えた。
「……女性の体に許可なく触れるなど、あり得ないことだ。お前は、触れられた女性の恐怖を考えたことがあるのか?」
クラウスは、騎士たちの全裸を見慣れすぎているエニードにとっては(彼らはエニードの前で平気で着替えるし、平気で水を浴びる)細身の男である。
しかし、クラウスに腕を掴まれている男に比べると、背丈があり腕も太く、指も長い。
これは、長身のためだろう。
鍛えればよい騎士になるかもしれない。しかし、二十七から騎士を目指すのは大変か――などと、エニードはクラウスの腕を見ながら考えた。
そもそもクラウスは何故ここにいて、何故割り込んできたのか。
エニードの部下たちならまず割って入ったりしない。
団長は一人で百人の兵に匹敵すると、彼らはよく分かっているからだ。
(女性が男に触れられる恐怖……)
この台詞は――エニードも口にしたことがある。
王都を巡回していると、悪い男たちに襲われそうになっている女性に遭遇することがあるのだ。
エニードはそういった行いが大嫌いである。
子供と女性というのはかよわい存在だ。だから、守るべきであり、襲うなどとんでもないことだ。
男の風上におけないと数時間に及ぶ説教をして、性根をたたき直すために泡を吐いて気絶するまで鍛錬をさせたことも少なくない。
拷問ではない。鍛錬だ。エニードももちろん一緒に行うので、それは鍛錬なのだ。
だがまさか、エニード自身が誰かから言われる日がくるとは考えていなかった。
(そうだな、私は女性だ。しかし、私のほうがクラウス様よりも強いのだが)
内心、少し狼狽えてしまった。
はじめての経験というのは、誰しも戸惑うものだ。
「お前は一体なんなんだ。この女の知り合いか?」
「女性を女と呼ぶものではない。女性に声をかけるのなら、それなりに礼節を弁えるべきだ」
「うるさい。いきなり出てきて説教か? 俺は今この、恋人に捨てられた女と話をしているんだ。邪魔をするんじゃない」
「恋人に捨てられてはいないのですが……」
待ち人などはいないし、恋人もいない。
ここにいるのが夫である。
けれど、クラウスはエニードを妻だとは言わない。
言わないということは、内密にしておきたいのかもしれない。
「――ともかく、迷惑がっている女性を強引に誘うのは、見ていられない」
「黙れ! 邪魔をするな!」
「暴力に訴えるのは構わないが、君の立場は危ういことになる。ルトガリア公爵の名の下に、法にのっとり君を捕縛し処断しなくてはならなくがるが、構わないか」
「嘘を……」
「嘘ではない。面倒なことになりたくなければ、立ち去ることだ」
なるほど、そういう黙らせ方もあるのかと、エニードは感心をした。
そもそも貴族というのは、こんな風に街をうろつかないし、庶民の問題には関わらないものなのだ。
そんなことをするのはよほどの物好きである。
庶民にとっては貴族にたてつくことほど恐ろしいことはない。
よほどの悪人であれば別だが、ここにいるのは一人で食事をしたくないだけの、寂しがり屋な男性にすぎないのだ。
「疑うのなら、証明しようか。ルトガリア家の家紋なら、君も見たことがあるだろう。ルトガリア商会と言ったほうが、君には馴染み深いか」
「……くそっ」
クラウスが貴族かどうかなど、立ち振る舞いや服装を見ればおおよそ検討はつくのだが。
男はそれでもクラウスにくってかかるほどの気骨が少しはあったようだ。
だが、冷静にクラウスに諭されて、悔しそうに眉を寄せると、立ち去っていった。
クラウスはあまり強くなさそうなので、暴力沙汰にならずによかったと、エニードは内心ほっとした。
なんとなれば、夫を守るためにエニードが男を倒す気満々であったが――そうはならずに済んだようだ。
「クラウス様、ありがとうございます」
「あぁ。邪魔をしたな。ではな」
「邪魔ではありません。夫を邪魔だと思う妻はいません」
「しかし……君は、恋人を待っているのだろう」
男が立ち去ってすぐに、いなくなろうとするクラウスをエニードは引き留めた。
これは、きっと助けてくれたのだ。
こんなさもないことで、誰かに助けてもらうというのははじめてである。
しかも、クラウスはエニードの夫だ。
形ばかりではあるが夫なのだから、きちんとお礼をしなくては。
「恋人……?」
「あぁ。先程から君は、話しかけてくる男たちに待ち人がいると言って断っていた。君の恋人だろう?」
「恋人などいません。私はクラウス様の妻ですので」
当然である。何を言っているのだろう。不義密通でのトラブルの仲裁を何度もしてきたエニードにとって、自ら進んで男女関係を乱れさせる者の気持ちなど少しも理解できない。
クラウスは眉間の皺を更に深くして、エニードから視線を逸らした。
なんだか少し、困惑しているような表情だった。
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