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落ち着くまで、状況がひと段落するまで、彼があちらに住む、遠距離恋愛という選択肢はないのだろうか。
熱く幸せだった午前から、ずっしりと重く息苦しい空気に一変した。
「大樹さん、大樹さんはこちらには戻って来ない予定ですか?」
「…菜津、一緒にいたいんだよ。」
それはつまり、ずっと向こうにいて看病を続ける、続けている間は母親は生きているということ。看病の終わりは死を意味し、落ち着く、ひと段落するということを想像したくないんだ。でも、それはいつまでも続くものではないとわかっているから、彼は自分の口から「一緒に故郷に『住もう』」とは言わないし、『待ってて』とも言えないし、だから一緒にいたいと言う。
「大樹さん、私のこと振ってくれて構いません。」
「な…! どうしてそうなる!」
「私、あちらには友人も家族も仕事もないです。全く知らない土地です。」
「…菜津」
「お見舞いに行って、大樹さんのご家族と顔を合わせて、それからお返事するのではダメですか? こういう返事ってずるいですか?」
「……いや、そうだよな。ずるくない…。突然言われても、そうだよな。」
彼が情けない顔でこちらを向く。ここでやめておけばいいのに、私の口は追い討ちをかけるようにさらに続けてしまう。
「で、結局、大樹さんは地元に戻って、その後はもうこちらには戻って来ないんですか?」
「菜津…」
「大樹さん、人はいつか必ず死ぬんです。お母様が長くない、って最期まで見守りたいってわかります。そうしたいのなら、そうすればいいと思う。でも、私はここが故郷で気に入ってます。兄姉も友人もいます。仕事もあります。でも、大樹さんのお母様はお会いしたこともない、今はただの他人です。大樹さんがどうしたいのか、どうするつもりなのか言ってくれなきゃ、私も何も言えません。」
「菜津!!」
ただの他人、その言葉に大樹さんがカッと目を見開いた。私は冷静に続けた。
「大樹さん、こんな落ち着いてこんなこと話す私です。嫌だと思うなら振ってくれて構いません。私も父を交通事故で亡くしています。一人が寂しいというなら、今夜もここにいてくださって構いません。」
彼がハッと息をのむ。でも何も言えなくて、無言の空間が延々続く。
じりっとした空気が流れる。ふと外を見ると、晴れていた空は、分厚い雲。今にも雨が降り出しそうな雰囲気の空に変わっている。
「大樹さん、布団しまうの手伝っていただけませんか? 雨、来そうです。」
はっとして大樹さんが顔を上げ、外を見る。慌てて立ち上がる。
「わかった」
ベランダの窓を開けると、途端にぬるい風が吹き込む。重苦しいのに吹き荒れる。今の私たちの心境のようだ。
大樹さんが軽く埃を払って、掛け布団を回収する。その間に私は敷パッドが乾いているか確認し、枕カバーと共に取り込んだ。部屋に足を1歩踏み入れたところで、パタリと大粒の雨が落ちた。
「わ、ギリギリセーフだったみたい。」
途端にザーッと降り出し、雷鳴まで轟く。うるさいけど、ちょうどいいから空気の入れ替えで窓を開けておく。
「1~2時間もすれば止むよな? そしたら、カポナータの材料買いに行こうか。教えるから、一緒に作ろう。」
「うん。」
敷布団の上に布団用のヘッドに変えた掃除機を滑らせ、敷きパッドを載せる。ゴムで四隅を止め、枕カバーをつけた枕を設置。大樹さんが掛け布団を乗せ、広げて完成。さすがに生温い空気が部屋に満ちているので、窓を閉めに行く、大樹さんが冷房のスイッチを入れる。
打合せもアイコンタクトもなしに、こんな阿吽の呼吸で流れ作業をこなし、これで一緒に住まないという選択肢がある事の方が驚きだ。
彼にだって、もう少し現実を受け止める時間が欲しいのだろう。その間、一人になりたくなくて、誰かの肌の温もりを感じていたくて私にそばにいて欲しいと思ってくれたのだろう。わかっていて冷たく現実を突きつけるように話を進める私は、やっぱり冷淡で情が薄いのだと思う。
現実を受け止める覚悟を決める時間は先週一週間、一人でいたことはマイナス、ネガティブな考えが浮かんでしまい、負のスパイラルから抜け出せなくなってしまったのだろうか。そう気がついたら、もう少し、一緒にいようと思えた。
「大樹さん、再来週月曜から3日間私、有休取りますね。」
「再来週?」
「今度の週末、金曜夜でもまた旭川へ飛びましょう。頑張って残業から逃げて来ますから。トラブル発生しても誰かに押し付けて来ますから。」
「菜津……」
「それまで、大樹さんここから仕事行くか、私、大樹さんの部屋行きますよ。」
彼がはっきりと、向こうへ永住するのか看病しに一時的移住なのか、言ってくれなきゃ私も言えるのはここまでだ。
「旭川の蕎麦も美味しいよ。北海道は蕎麦の生産、日本一だしね。」
「はい。楽しみにしてます。」
暗い、重い話からなんとか明るい話題、雰囲気を作ろうとしてくれる思いやりが切なく、暖かかった。
週明け、マネージャーに有休取得と週末の残業回避のお願いをした。お盆休暇を取っていなかったし、連休とも重ならないし、いいよ、と有休取得の許可は意外にあっさり取れた。
インターネットのマップで日本地図を見る。移動時間を計測してみる。
函館になら行ったことあったけど、函館から旭川って、東京から名古屋より遠い? 北海道は広いなあと感心する。
「あれ、鈴木さん旅行でも行くの?」
「いいえ、遠方にいる方のお見舞いです。」
「…あ、そう。ごめん。」
「え? 何か謝ることですか?」
昼休みから戻って来たお隣の多田さんに声をかけられる。
安いビジネスホテルを取ろうかと思ったら、大樹さんに実家に泊まればいいと却下される。結婚もその約束もしていないのに五日間もお世話になるのは気がひける。良識のある大人としてどうなんだろう。
「母が入院してから、姉が定期的に郵便物の受け取りと空気の入れ替えに行ってるらしいけど、それ以外あの家、無人なんだよ。」
「そうなの?」
「だから、菜津、ホテルの予約は要らない、遠慮も要らない。うちに泊まって。一緒にいて。」
「…はい。」
週の半ば、中村くんから電話がかかってきていた。不在着信でそれを知る。金曜心置きなくサクッと上がれるよう、もうちょっとで完成しそうなアプリケーションを仕上げるため、珍しく残業した。疲れててスマホのメールチェックも忘れ翌朝のアラームでスマホをカバンから取り出した時に、それに気がついた。用があるならもう一度かかってくるかメールで用件伝えるだろうと放っておいた。
「おお! 期限前の納品、助かるよ。何かあったら、多田に直してもらおうか。」
「え、マネージャーが直してくださいよ。コードのクセ、そっくりじゃないですか。」
「そりゃ、教えてくださったの、中田さんですからねー、似ててもおかしくないですね。」
マネージャーの中田さんに笑いかけると、照れ臭そうにぽりぽりと首筋をかいた。
熱く幸せだった午前から、ずっしりと重く息苦しい空気に一変した。
「大樹さん、大樹さんはこちらには戻って来ない予定ですか?」
「…菜津、一緒にいたいんだよ。」
それはつまり、ずっと向こうにいて看病を続ける、続けている間は母親は生きているということ。看病の終わりは死を意味し、落ち着く、ひと段落するということを想像したくないんだ。でも、それはいつまでも続くものではないとわかっているから、彼は自分の口から「一緒に故郷に『住もう』」とは言わないし、『待ってて』とも言えないし、だから一緒にいたいと言う。
「大樹さん、私のこと振ってくれて構いません。」
「な…! どうしてそうなる!」
「私、あちらには友人も家族も仕事もないです。全く知らない土地です。」
「…菜津」
「お見舞いに行って、大樹さんのご家族と顔を合わせて、それからお返事するのではダメですか? こういう返事ってずるいですか?」
「……いや、そうだよな。ずるくない…。突然言われても、そうだよな。」
彼が情けない顔でこちらを向く。ここでやめておけばいいのに、私の口は追い討ちをかけるようにさらに続けてしまう。
「で、結局、大樹さんは地元に戻って、その後はもうこちらには戻って来ないんですか?」
「菜津…」
「大樹さん、人はいつか必ず死ぬんです。お母様が長くない、って最期まで見守りたいってわかります。そうしたいのなら、そうすればいいと思う。でも、私はここが故郷で気に入ってます。兄姉も友人もいます。仕事もあります。でも、大樹さんのお母様はお会いしたこともない、今はただの他人です。大樹さんがどうしたいのか、どうするつもりなのか言ってくれなきゃ、私も何も言えません。」
「菜津!!」
ただの他人、その言葉に大樹さんがカッと目を見開いた。私は冷静に続けた。
「大樹さん、こんな落ち着いてこんなこと話す私です。嫌だと思うなら振ってくれて構いません。私も父を交通事故で亡くしています。一人が寂しいというなら、今夜もここにいてくださって構いません。」
彼がハッと息をのむ。でも何も言えなくて、無言の空間が延々続く。
じりっとした空気が流れる。ふと外を見ると、晴れていた空は、分厚い雲。今にも雨が降り出しそうな雰囲気の空に変わっている。
「大樹さん、布団しまうの手伝っていただけませんか? 雨、来そうです。」
はっとして大樹さんが顔を上げ、外を見る。慌てて立ち上がる。
「わかった」
ベランダの窓を開けると、途端にぬるい風が吹き込む。重苦しいのに吹き荒れる。今の私たちの心境のようだ。
大樹さんが軽く埃を払って、掛け布団を回収する。その間に私は敷パッドが乾いているか確認し、枕カバーと共に取り込んだ。部屋に足を1歩踏み入れたところで、パタリと大粒の雨が落ちた。
「わ、ギリギリセーフだったみたい。」
途端にザーッと降り出し、雷鳴まで轟く。うるさいけど、ちょうどいいから空気の入れ替えで窓を開けておく。
「1~2時間もすれば止むよな? そしたら、カポナータの材料買いに行こうか。教えるから、一緒に作ろう。」
「うん。」
敷布団の上に布団用のヘッドに変えた掃除機を滑らせ、敷きパッドを載せる。ゴムで四隅を止め、枕カバーをつけた枕を設置。大樹さんが掛け布団を乗せ、広げて完成。さすがに生温い空気が部屋に満ちているので、窓を閉めに行く、大樹さんが冷房のスイッチを入れる。
打合せもアイコンタクトもなしに、こんな阿吽の呼吸で流れ作業をこなし、これで一緒に住まないという選択肢がある事の方が驚きだ。
彼にだって、もう少し現実を受け止める時間が欲しいのだろう。その間、一人になりたくなくて、誰かの肌の温もりを感じていたくて私にそばにいて欲しいと思ってくれたのだろう。わかっていて冷たく現実を突きつけるように話を進める私は、やっぱり冷淡で情が薄いのだと思う。
現実を受け止める覚悟を決める時間は先週一週間、一人でいたことはマイナス、ネガティブな考えが浮かんでしまい、負のスパイラルから抜け出せなくなってしまったのだろうか。そう気がついたら、もう少し、一緒にいようと思えた。
「大樹さん、再来週月曜から3日間私、有休取りますね。」
「再来週?」
「今度の週末、金曜夜でもまた旭川へ飛びましょう。頑張って残業から逃げて来ますから。トラブル発生しても誰かに押し付けて来ますから。」
「菜津……」
「それまで、大樹さんここから仕事行くか、私、大樹さんの部屋行きますよ。」
彼がはっきりと、向こうへ永住するのか看病しに一時的移住なのか、言ってくれなきゃ私も言えるのはここまでだ。
「旭川の蕎麦も美味しいよ。北海道は蕎麦の生産、日本一だしね。」
「はい。楽しみにしてます。」
暗い、重い話からなんとか明るい話題、雰囲気を作ろうとしてくれる思いやりが切なく、暖かかった。
週明け、マネージャーに有休取得と週末の残業回避のお願いをした。お盆休暇を取っていなかったし、連休とも重ならないし、いいよ、と有休取得の許可は意外にあっさり取れた。
インターネットのマップで日本地図を見る。移動時間を計測してみる。
函館になら行ったことあったけど、函館から旭川って、東京から名古屋より遠い? 北海道は広いなあと感心する。
「あれ、鈴木さん旅行でも行くの?」
「いいえ、遠方にいる方のお見舞いです。」
「…あ、そう。ごめん。」
「え? 何か謝ることですか?」
昼休みから戻って来たお隣の多田さんに声をかけられる。
安いビジネスホテルを取ろうかと思ったら、大樹さんに実家に泊まればいいと却下される。結婚もその約束もしていないのに五日間もお世話になるのは気がひける。良識のある大人としてどうなんだろう。
「母が入院してから、姉が定期的に郵便物の受け取りと空気の入れ替えに行ってるらしいけど、それ以外あの家、無人なんだよ。」
「そうなの?」
「だから、菜津、ホテルの予約は要らない、遠慮も要らない。うちに泊まって。一緒にいて。」
「…はい。」
週の半ば、中村くんから電話がかかってきていた。不在着信でそれを知る。金曜心置きなくサクッと上がれるよう、もうちょっとで完成しそうなアプリケーションを仕上げるため、珍しく残業した。疲れててスマホのメールチェックも忘れ翌朝のアラームでスマホをカバンから取り出した時に、それに気がついた。用があるならもう一度かかってくるかメールで用件伝えるだろうと放っておいた。
「おお! 期限前の納品、助かるよ。何かあったら、多田に直してもらおうか。」
「え、マネージャーが直してくださいよ。コードのクセ、そっくりじゃないですか。」
「そりゃ、教えてくださったの、中田さんですからねー、似ててもおかしくないですね。」
マネージャーの中田さんに笑いかけると、照れ臭そうにぽりぽりと首筋をかいた。
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