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第二部

42.受験生の夏 1

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 雨の続く日が終わり、日差しが強くなってきた。普段なら学校のあるような時間から、僕たちはリンクに行くことができるようになった。夏休みが始まったのだ。

「みんな、集合―!」
 先生のその声に集まると、先生の隣には髪と目の色の明るいにこやな男性が立っていた。僕たちのプログラムを手伝いに海外から来てくれた先生だった。
 彼の口から、聞きとれない言葉がこぼれた。英語だ。

「制覇君と陽向ちゃんのために来てくださったスティーブン先生よ。時間のある時には、二人だけじゃなくてみんなのことも見てくださるそうだから、ご挨拶してちょうだい。では制覇君から」
 まさか自分が一番に当てられるとは思っていなかった僕は、頭が真っ白になってしまった。
「えと……、あまみやせいは……」
 とりあえず何かを言わねばとそこまで言ってしまってから、英語で名乗ることに失敗していることに気がついた。もうこうなったら日本語で押し通すしかない。
「……です」
「声が小さいっ!」
「はいっ! 天宮制覇ですっ! よろしくお願いしますっ!」
 男の先生は声を出して陽気に笑った。そして僕に向かって何か語りかけてきた。
 何を言っているんだろう。陽向さんの方を見ると、「元気がいいねって。よかったわね、制覇君」と訳してくれた。いや、今のは先生に無理やり声出さされただけなんだけど。
 陽向さんは僕を見て嬉しそうににっこりしていた。

 スティーブン先生が来てから、僕たちのプログラムはずっと良くなった。ほとんど何も変わっていないはずなのにそんな気がした。例えばターンのタイミングや、手を組む場所や、足を踏み出す場所をちょっと変えられただけで、それまでぎくしゃくしていたのが嘘のように自然になって、ふと手を出せばそこに陽向さんがいるようになった。もたつくような場所はなくなって、最初から最後までがすっかり滑らかにつながった。
「そうそう。その調子で曲をしっかり聞いて、二人の動きをそろえていって。ユニゾンよ、ユニゾン。制覇君は陽向ちゃんの邪魔にならないように気をつけてね」
 ここのところ難しい顔をすることの多かった姫島先生も、陽向さんが思い切り踊れるようになっていく様子を見て喜んでいた。
 少しの間、スティーブン先生に入ってもらっただけでも僕たちは大きく変化した。これが海外の技術なのだとしたら、姫島先生が僕たちをこれに引き合わせたいと思うわけだ。


 日に日に増す暑さの中、僕はいくつものボートが浮かぶ宝ヶ池の横の小道を通り、モミの木へと向かった。
 建物の中は嘘のような涼しさだ。リンクのそばまで行くと、目の前を意外なものが通り過ぎていった。シャボン玉だ。
 シャボン玉はリンクの中から流れてきていた。
「アメリカのリンクでは、ああやって小さい子を遊ばせてるんだって」
 すぐに果歩が寄ってきてそう言った。
 半袖Tシャツを着た果歩は、去年までとは違いもう短パン姿ではなかった。練習すると汗をかくようなこんな暑い時期になっても、ちゃんと長いズボンをはいている。遊びではなく、真面目に練習をしている証拠だ。

 果歩が指さす方に目を向けると、小学校に上がっているのかどうかくらいの小さい子たちが、夢中になってシャボン玉を追いかけていた。シャボン玉を追いかけてリンクの隅まで行った子どもたちは、折り返すと今度はキラキラしたモールのついた小さなアーチをくぐりながら元の場所へと戻っていった。
「これをやるようになってから、みんな怖がらずに滑るのを楽しめるようになってきたんだよ。この方法ね、蒼井君から聞いたんだ」
 と果歩が言った。
 ああ、やっぱり。指導が違うってのは、こういうことなんだよ――。

 僕は滑る準備をするからと言って果歩と別れ、果歩が氷に乗った隙に理子さんに会いに行った。
 久々に事務室の扉を開く。理子さんは仕事をしているのかしていないのか、PCの前で椅子にもたれてくるくるしながら遊んでいるように見えた。
 僕に気がつくとすぐに理子さんは何か相談事を持ってきたのだと察して、とても機嫌よく迎え入れてくれた。僕は早速理子さんに話を切り出した。

「このリンクに、プロの先生を呼んでやってください。果歩のことを教えることができるような人を」
 理子さんは、なんだそんなことか、という顔をした。
「果歩は上手くなろうとがんばってるけど、一人じゃ、もうこれ以上は無理だと思うんです」
「一人じゃないわよ、仲良くなった色んな人と一緒に練習してるみたいだけど?」
「でも、あいつを教えられるような人はいないじゃないですか。ここじゃあいつが一番上手いくらいなんだから」
「そんなこと言ってー。上手な先生なんか呼んじゃったら、私と果歩の仲はどうなっちゃうの? さては私たちの仲を裂く気?」
 理子さんは僕をからかうようにそう言った。
「意味が分かりません。僕は真面目なお願いをしてるんです。あいつが今より前に進むためには、いい先生が必要なんです」
 理子さんは突然、真面目な顔をした。
「誰のお金で?」
「え?」
「お金よ、お金。レッスン料!」
 お金?
 そうか、先生に来てもらうのにもお金がかかるんだ……。
 こんな時にもまた、お金の話になるのか……。

「いい先生がいれば果歩だけじゃなくて、他の人だって色々教えてもらえるわけだし、モミの木にとってもメリットのあることなんじゃないんですか?」
 なんとか理由をつけて、モミの木のお金で呼んでもらえないだろうか。
「んー、リンクとしては今はそういうのは考えてないしー」
「このままじゃ、果歩だってそのうち来なくなっちゃいますよ。上達できなくなったら、滑るのがだんだんつまらなくなるに決まってる」
「そうかなー」
 理子さんはまるで取り合ってくれそうになかった。僕がここで何を訴えようが、果歩と理子さんは直接ある種の信頼で繋がっているのだ。

 着替えを済ませてリンクサイドに戻ると、ちょうど果歩がフードコートに上がってきたところだった。何周か滑っては自分の映像を確認するという作業を、このところ果歩は何回も何回も繰り返していた。
 これだけ努力を重ねてるんだ。人の手なんか借りなくったって、上達していけるさ。
 そう願って眺めた果歩のスケーティングは、以前より悪くなっていた。

 なぜだ。
 どうして数週間前より悪くなっているんだ。
 果歩のフォームは不自然にゆがんでいた。少し前までは氷を上手く押せてはいないものの、歪みなどない、素直できれいな乗り方だったのに。
「お前、何を手本に練習してるんだ?」
「この選手。知ってるでしょ? 私、大好きなんだー!」
 果歩はPC上に女子選手の演技を映し出した。
 滑り方に癖のある選手だった。果歩はその癖をデフォルメして真似していたのだった。

「あのさ……もうちょっと上手い選手真似したら?」
「なに失礼なこと言ってんの。この人トップレベルだよ?」
「あ、いやごめん。そうじゃなくて、人にはそれぞれ癖とかあるからね」
「何が言いたい?」
「えーと……そうだ! 色んな選手の滑りを見て研究した方がいいって言ってるんだよ。スケーティングって、人それぞれ違うだろ。誰か一人を真似するんじゃなくて、多くの選手を見てこそ、上手いと言われるスケーティングの本質が分かるんじゃないかな。うん!」

 そう言って僕は果歩に上手い選手の映像をいくつも映し出させた。そして僕たちは何がいいスケーティングなのかを、一緒に研究することにした。それは思ったよりも簡単なことではなかった。
 いいスケーティングって結局何なんだ? どうやったら果歩に分かってもらうことができるんだ?
 果歩が悩んでいる横で、僕も悩む日々が続いた。
 僕もまだ人に上手く教えられるほど、スケートというものをちゃんとは理解できていないのだと知った。


「制覇君、なんだかとても安定してきたわよね」
 ある日陽向さんが言った。
 休憩時間のことだった。僕たちはリンクから上がるとベンチまで行き、水筒を取り出した。
「え? あ、そうですか? 安定してきたってなんだろ……?」
 安定というのは先生もよく使う言葉だった。これまでは深く考えたことがなかったけれど、エッジがぶれないとか腰が浮かないとか考えられることは色々ある。
「そうねえ。よくわからないんだけど、滑りがしっかりしてきたって感じ?」
 水筒を口元へと近づけていた彼女は、途中、僕の方を見て笑いかけてくれた。
 ほめられたことへの喜びを感じながら、頭の中では安定という言葉の意味を果歩の滑りに当てはめて考えていた。そういう風にすることが、僕のスケーティングだの体の使い方だのを知らず知らずのうちに向上させていた。

「せっかくスティーブン先生が来ているんだからたくさん練習に来て欲しいけど、今年は勉強が大変よね」
 陽向さんは僕に遠慮したように言った。
 しかし彼女との練習がない日に僕がしていたことは、勉強ではなくモミの木へと通うことだった。


 果歩のスケーティングも、かなりいい線に近づいてきた。一時ついていた変な癖も取れ、形はとてもきれいになった。だけど、なんだろう。今一つ、エッジに乗りきれていない気がする。
「もっとぎりぎりまでスケーティングレッグのエッジを保つんだよ!」
 果歩の滑りと上手い人の滑りを比べ続ける日々を過ごすうちに、これまで自分が浴びるように聞いてきた言葉が、自分の言葉として飛び出してきた。ただ教わっていただけのこれまでは漠然としか理解できていなかったのに、どんな言葉がどんな動きと結びついているのか僕の中ではっきりと形になっていた。
 一方、果歩は「分かってるって」と答えるだけでなかなか思ったようには動いてくれない。

 違うんだよ、そうじゃないんだよ。もっと出した足の上にガッとしっかり乗って、グッて感じで氷を押すんだよ。
 何度も繰り返して言葉をかけるうちに、僕はもう自分の中からこみ上げてくるじりじりした思いで一杯になってきた。
 あとほんの一息なのに。

「ああっ! もう、いらいらするなー!!」
 僕は後ろから果歩の手を取ると、ぐっとそれを押してやった。
 この方向に押してやればいい――なぜかそんなひらめきがあった。
 その瞬間、果歩は急加速した。それまで上手く氷に伝えきれずにいた力が、ついに果歩を運び始めた。
 腰に繋がれた重りから解放されたかのように、果歩は大きく軽やかに滑りだした。

「すごい!」
 果歩が満面の笑みで叫び声を上げた。僕たちはも言われぬ快感の中にいた。
 この感覚。
 一度どこかで味わったことがあるような……。

「そっか。昔こうやって滑ってたんだ! 思い出したよ」
 果歩はすっかりコツを思い出したようだった。僕が手を離しても、果歩は自分でぐんぐん氷をとらえて伸びやかに進んでいった。
 目の前の霧が晴れたような気分がした。
 僕の時もそうだった。エッジに乗る感覚がわかった瞬間、突然道が開けたんだ。

 夏休みも終わりに近づいた頃、僕はこうして誰かの手を取れるようになった。スケートの世界ではこれまで、誰かに導かれる側だった僕が。
 夏の間、果歩のために時間を割いたことは、僕に大きな実りを与えてくれていた。自覚はなかったけれど。陽向さんとダンスをしていく上でもそれが役に立つということは、体のどこかで感じていた。自分なんかがアイスダンスをしていていいんだろうかというもやもやした不安も、忙しい日々を送る間にいつの間にかすっかり消え去っていた。
 だからこの日のアトリウムから入る陽ざしは明るくて眩しくて、僕は自分が罪を犯しているなんて、まったく思いもしなかった。
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