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第二部

41.支えと負担 3

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 シニアでの全日本出場を目指して、七級のバッジテストを受験した南場さんが不合格になった。南場さんは次回また受けるから気にしていないと言っていたけれど、なぜか本人じゃない上本たちの方がジャッジへの不満を漏らしていた。
 テストが終わってから数日たっても、採点がからすぎると散々文句を言っていた。確かに南場さんの演技に目立った失敗はなかった。でも講評の時に回転が足りないとかクリーンに降りてないとか、不合格の理由を挙げられていた。だから仕方がないと思うんだけど、上本たちはよほど南場さんを応援していたのだろう。

 そして果歩も同じ日、六級に落ちた。

 席替えの日を待ちに待って二ケ月余り。やっと願いの叶う日が来た。
 机の中の荷物を鞄にしまい、先生の所へとくじを引きに行った。僕の引いたのは後ろから二番目の窓際の席だった。窓の外には細い雨が静かに降っていた。薄暗い風景だったけれど、僕には心が落ち着くような景色に見えた。後ろの席が埋まるまでは。

「あ、また近くになったね。よろしく」
「なんでだよ!!」
 去年はちっとも近くの席にならなかったのに、どうして立て続けにこんなことになるんだと後ろに座る流斗をにらんだ。まあ去年は去年で、近くの席になんて絶対になりたくなかったけれど。

「あのさあ、常葉木ときわぎさん、なんで六級落ちたのかな? 知ってる?」
 荷物を移し終わった流斗が、静かに聞いてきた。
「……お前、知ってるんじゃないのかよ。連絡取り合ってるんだろ?」
「うん、まあね」
 と流斗は言った。窓の隙間から小さな雨が降りこんで、机の上をうっすらと濡らした。
「でも、落ちた人に詳しいことを聞くのは悪いでしょ? だから理由は聞いていないんだよ」
 僕は窓を風がわずかに通るくらいにまで閉めた。
「厳しすぎたんだよ」
 僕は言った。
「ノーミスだったのに、『滑走力が足りない』って。ひどいよな。それだけの理由で落とされたんだ。難しそうなエレメンツもしっかり決めてたのに、『六級の滑りじゃありません』って。意味が分からないよ」

 その言い方は、上本たちが南場さんのことで愚痴ぐちっていたのと変わらなかった。
「やっぱりそうだったんだ」
 と流斗は言った。
「何といっても六級だからね」
 当然のようにそう言われた。喉の奥が少し痛んだ。
「君はあの滑りでいいとでも思ってたの?」
 氷の上を滑っている果歩の姿が脳裏をよぎる。

 いいとは言えなかった。
 果歩は前よりずっと上手くなっている。ジャンプもスピンも難しそうなものを沢山こなせるようになっている。形もよくて軸も安定していて、回転も十分だった。でもスケーティングだけは、何かが違っていた。今、毎日のように素晴らしいスケーティングを目にしている僕には、果歩の滑りを認めることはできなかった。
 だけど、六級に滑りは関係ないだろう?

「スケーティングっていうのは、基礎だから。それができていなかったら、その級をもらう資格は無いから」
「あいつがやってるのはシングルだよ? ダンスじゃないんだ。滑りなんて関係ないだろ?」
「シングルだってスケートだからね。あの滑りしてたんじゃ、彼女はもうじき行き詰まるよ」

 流斗は友達に対しても厳しい。客観的に見たらその意見は正しいのかもしれない。ジャッジだって何の根拠もなく合格させなかったわけじゃない。そこには理由があって、それが解消されなければその先に進むことはできないだろう。
 だけど僕は果歩に合格してほしかった。

「手をつながせてさえくれれば、なんとかしてあげるんだけどな」
 突然、妙な言葉が聞こえた。
「は……? なに言ってんだよ?」
「あの滑り見てると、我慢ならないんだよねー。もう強引にガッと手、つないじゃおっかな」
「な……、や、やめろよ」
「なんで?」
「え? なんでって……」
「それで上手くなれるかもしれないのに? どうしてやめろなんて言うのかな?」
「な……なんでって……」
 流斗が面白そうに僕をのぞき込んでくる。だめだ、動揺しては。こいつは人をからかってるだけなんだ。
「そんなことどーでもいいだろ。それより、どうしてお前と手をつないだら果歩が上手くなるんだよ。でたらめ言うな」

「彼女はね、乗り方をちょっと忘れてしまっているだけじゃないかと思うんだよ。滑り方自身はとても素直で可能性を感じるよ。誰かさんによく似てる。ほんの少しのヒントさえあげれば、きっとずっと上手くなれると思うんだ」
 僕をからかうために、適当なことを言っているわけではなさそうな気がした。
「常葉木さん、このままだと近いうちに級を取るのをあきらめることになると思うよ」
 流斗はそんなことを平気な顔で言った。
「さっきからなんでお前、そんなにかわいそうなことばっか言うんだよ!」
 僕が怒ると、流斗はにっこり言った。
「じゃあ手、つないでいい?」
「やめろ」

 その日の夕方、僕はモミの木に果歩を訪ねて行った。
「果歩!」
 練習中の果歩にリンクサイドから声をかける。
「お前、また六級受けるんだろ。だったら、大阪のリンクに来いよ」
 果歩は僕の前をすいっと通過すると、ゲートを出た。エッジケースをはめこちらへ向かってくるその顔に、いつもの笑顔はなかった。
「どうして?」
「どうしてって、お前も姫島先生にレッスンしてもらえよ。すごくいい先生なんだ。基本に厳しい。だから俺も去年、短期間でものすごく滑る力がついた。お前も絶対合格できるから」

 果歩は淡々と「いらない」とだけ言って、そのまま僕に背を向けてすたすたとフードコートへと向かった。
「なんでだよ。お前、六級受けたいんだろ? レッスンしてもらえば絶対上手くなれるから」
 僕は自分のその考えをすごくいいアイデアだと思っていた。だけどこのリンクに特別な思い入れのある果歩が、他のリンクに行けなんて言われて、そんなに素直に聞くわけがなかった。
「うるさいなー。私はね、ここでやれることをやりたいの。別に他のリンクの助けなんていらないから」
 果歩はフードコートに置いたPCで自分のスケーティングを確認すると、急いでリンクへ戻っていった。

 それからの僕は、自分の練習をしながら、時々ヒントを出すような感じで果歩の近くをすり抜けてみたりした。先生につかない人間が上達するには、自分から手本を探し、得るものを得ていくしかないのだ。昔は僕もそうやっていた。僕もそんなに上手いわけじゃないけれど、スケーティングに関しては果歩より鍛えられているはずだ。

 果歩は僕の方を見ながら、ひそかに真似ようとしていた。それでもちっとも僕に追いついてくる気配はなくて、僕は何周も何周も果歩を追い抜くしかなかった。


 全日本ジュニアには、リズムダンスとフリーダンスの二つのプログラムが必要だった。このシーズンのリズムダンスはラテンが課題になっていた。ルンバ、マンボ、サンバなどの中から曲を選んでプログラムを作るのだが、先生は僕たちに似合っているからとチャチャを選んだ。プログラムのどこかに、パターンダンスのチャチャコンゲラートを入れることも必須だった。
 二日目のフリーダンスには曲調に関する制限はない。先生はもともと試合に流用するつもりでシルバーのフリーを作っていたようで、試合でもシンデレラのワルツを使うことになった。しかし流用するつもりだった割には大きな手直しがあちこちに入った。プログラムを勝てるものにするために、先生は骨を折っているようだった。

「アイスダンスは毎年ルールや課題が変わるので、キャッチアップするのがかなり大変らしいんですよ。しかも変更に関する情報はまずは英語で出るんです。そのせいで日本の先生は、戦略を立てたプログラムを作るのにどうしても苦労してしまうようです」
 そう教えてくれたのは吉田さんだった。ここのところ先生がずっと手にしていた英語のプリントは採点ルールに関するハンドブックで、吉田さんは読み解くのが難解な個所を手伝っていたのだった。
「英語が理解できても、解釈がよく分からないことも多いですからね。細かいところまでの理解が点数に関わってくると思うと、難しいですね」
 吉田さんは手伝いといいながら、ハンドブックをすべて読破したようだった。

「陽向さんはもともとトップレベルのアスリートですし、制覇君は運動神経も体力もありますから、リフトとスピンはどちらもレベル2で用意していくつもりで先生は考えておられるでしょう。これで、リフトが+1・0、スピンが+1・0。それに対してステップシークエンスはレベルが一つ上がると+1・5となっています。あちらのカップルはアクロバティックなことよりどちらかというとステップの方がお得意と聞いていますので、このあたりを計算して要素を準備していかなくてはなりません」

 ルールを理解していれば、自分たちのできる技のうち何をどう入れるのが得なのか、自分たちにない技のうち何を攻略してプログラムに取り入れるべきなのか、戦略が立てられる。しかし理解していないと戦略が立てられないだけでなく、せっかく入れたエレメンツも評価されなかったり減点されたりすることもある。
 プログラムを作るなら当然ルールは勉強した方がいいに決まっているし、先生なら知っていてほしいところだれど、アイスダンスという世界においてそれはとても労力のかかることなのだ。

 スケート界には、プログラムを作ってくれる専門家もいるのだそうだ。でも今回先生は、そういった方法もとらないことを選んだ。
 つまり僕たちは、この世界のみんなが乗っているレールから外れた。
 僕のせいかもしれなかった。

 先生は苦労して、リズムダンスとフリーダンスのプログラムを用意してくれた。どちらも僕にはとても難しくて、アイスダンスに取り組んでいる選手たちはこんな難しいものをやっているのかと思うと、僕はレールの上を進んでいくみんなを遠くから眺めているような気分になった。
 僕たちはレールから外れてしまって、本当によかったんだろうか。
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