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ひとりの夜
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翌日。ほとんど眠れないままに出勤すると病棟は、やはり緊張感に支配されていた。
ナースステーションにほど近い、広い個室。
高弘のほかに准教授である承と麻酔科医の令子、ME(臨床工学技師)が二名、そして看護主任が総動員されている。MEが二人も駆り出されている──容態はかなり、悪いのだろう。
ほぼICU(集中治療室)状態ね、と呟いたのは看護師長、武藤だった。
「高瀬さんの現状を、ほかの患者さんには絶対に悟らせないこと。あなたはそれだけ注意しながら、日常業務をこなしなさい」
師長の表情に、動揺は見えなかった。
手術の翌日は退院も多いものである。いわゆる「検査入院」の患者だった。個室方面の緊張した空気を気にしつつも、勝司は六件の退院の後処理を終えた。
そして昼食。
なんとなくひとり食堂の隅の席にぽつんと腰を落とした勝司の前に、人影が立った。
勝司と同年代のPT(理学療法士)で友人の守矢遼である。こうして一緒に食事することも普段から多かった。
いかにもスポーツ少年が、そのまま大きくなったとでもいうような素朴な風貌。黒い短髪に屈託ない爽やかな笑顔は、患者にもスタッフにも人気が高かった。
「朝、弁当つくる余裕なくてさ。一緒していいのかな、カツ」
「うん。でも、なんで──?」
いつもなら、あえて確認することなどなく昼食を共にしていたのに。
「いや、なんか不機嫌そうに見えたから」
「ゴメン。そんなんじゃねーんだ」
「じゃあ相当、忙しいんか?」
遼は大盛りのカレーを口に運んでいる。ちなみに食堂のメニューは一律、300円。
大盛りにしても値段は変わらない。味の方は、価格相応とでも言っておこう。
「うん、なんか慌しいかもな。でも忙しいのはオレじゃなくって、先生とかで……」
勝司は、遼の食事のペースにあわせようと必死だったが、食欲はあまりなかった。
それに怪訝な様子を見せながらも、あえて追求してこないのが遼の優しさか。
「そっか、あんま無理すんな。オマエさ、受験生なんだから──受かってくれよな」
遼には本命の志望校まで知らせてある。
それを口外するような男ではないと知っているからであり、同年代の気安さもある。
食事を終えると他愛もない会話をしながら遼はリハビリテーション科、勝司は病棟へと戻っていく。
ナースステーションの休憩室。半数ちかくの看護師が弁当をつつき、また茶を飲むなかで勝司は英単語帳を開いた。休憩時間までを勉強にあてる勝司は、最初こそ冷やかされたものの、今は応援する声の方が多かった。
だが今日、休憩室で看護師が口にする話題の多くは勝司にとって無視できるものではなく、英単語などほとんど頭に入ってくるはずもない。
「高弘先生、一睡もしてないわよね……」
ベテランで大柄のナースが嘆息する。
「TUL(経尿道的尿路結石破砕術)からの敗血症なんて、あんまり聞かないわよね」
「DICの寸前まで行ったんでしょう?」
寸前というか現状ほぼDICね、と言ったのは看護主任、瀧澤だった。
「高弘先生も災難だわね。ジョーが後ろでずっと監視してたんじゃ、余計に消耗するだけだと思うんだけど。しかも部長まで」
勝司の青褪めた表情に、瀧澤は気づいた。
「顔色、悪いわね──眠れてないでしょ」
勝司は、緩慢に首を横に振った。瀧澤は重く溜息をつく。
「アタシらを前にして、そういうごまかしはムダよ。せめて食事くらいちゃんとして、体調管理は徹底しなさい。余計な心配させないのがいまのあなたに唯一、今できることよ」
「──はい」
「高瀬さんはまだ若い、必ず持ち直すわ」
看護主任の心遣いが胸に苦しかった。勝司は、立ち上がる。
「オレちょっと外の空気、吸ってきます」
悄然とした様子が払拭された様子もない。
看護師たちは、一様に顔を見合わせた。
メッセージアプリの返信はなかった。
令子から言伝で「しばらくは帰れないはず」と教えられている。当面はいまの厳戒態勢が続くだろう、とのことだった。
夕食は、近所の牛丼屋で済ませた。
そうしてリビングのテーブルに向かって、数学の演習問題をひたすらに解いていた。
もちろん高弘が不在の夜など、これまでにいくらでもあった。
当直、オンコールでの夜間対応。医師というのはそういう職業だと頭ではわかっている。
だが、今回のケースは何か違う気がした。
病棟に張り詰めた緊張感は、どこか異質のものだ。本来あるはずのないことが起きてしまったとでもいうような、違和感。誰も、高弘を責めるわけではない。だがスタッフの表情には明らかに戸惑いが見て取れた。
もしかしたら高弘は今、窮地に立たされているのかも──だからといって自分に何ができるだろう。
勝司はテーブルに突っ伏した。
何かできるはずもない。自分は医師でも看護師でもMEでも、何でもないのだから。
だからといって己の無力に浸っている場合でもないだろう。
自分にできることを、やらなければ。
勝司はふたたび、目の前の無機的な数式の群れに挑みかかる。
今の自分には英語などの語学科目は、ただ素通りしていくばかりに思えた。
だから明確な解答の用意されている数学に、ただひたすらに没入する。気づけば時刻は深夜を過ぎていた。
今日は、眠れるだろうか。
仕事のため、受験勉強のための体調管理というのもあるが──ひどい顔色を、高弘に見せてしまいたくはない。
間違ってはいけない。闘っているのは患者であり、高弘だった。
ナースステーションにほど近い、広い個室。
高弘のほかに准教授である承と麻酔科医の令子、ME(臨床工学技師)が二名、そして看護主任が総動員されている。MEが二人も駆り出されている──容態はかなり、悪いのだろう。
ほぼICU(集中治療室)状態ね、と呟いたのは看護師長、武藤だった。
「高瀬さんの現状を、ほかの患者さんには絶対に悟らせないこと。あなたはそれだけ注意しながら、日常業務をこなしなさい」
師長の表情に、動揺は見えなかった。
手術の翌日は退院も多いものである。いわゆる「検査入院」の患者だった。個室方面の緊張した空気を気にしつつも、勝司は六件の退院の後処理を終えた。
そして昼食。
なんとなくひとり食堂の隅の席にぽつんと腰を落とした勝司の前に、人影が立った。
勝司と同年代のPT(理学療法士)で友人の守矢遼である。こうして一緒に食事することも普段から多かった。
いかにもスポーツ少年が、そのまま大きくなったとでもいうような素朴な風貌。黒い短髪に屈託ない爽やかな笑顔は、患者にもスタッフにも人気が高かった。
「朝、弁当つくる余裕なくてさ。一緒していいのかな、カツ」
「うん。でも、なんで──?」
いつもなら、あえて確認することなどなく昼食を共にしていたのに。
「いや、なんか不機嫌そうに見えたから」
「ゴメン。そんなんじゃねーんだ」
「じゃあ相当、忙しいんか?」
遼は大盛りのカレーを口に運んでいる。ちなみに食堂のメニューは一律、300円。
大盛りにしても値段は変わらない。味の方は、価格相応とでも言っておこう。
「うん、なんか慌しいかもな。でも忙しいのはオレじゃなくって、先生とかで……」
勝司は、遼の食事のペースにあわせようと必死だったが、食欲はあまりなかった。
それに怪訝な様子を見せながらも、あえて追求してこないのが遼の優しさか。
「そっか、あんま無理すんな。オマエさ、受験生なんだから──受かってくれよな」
遼には本命の志望校まで知らせてある。
それを口外するような男ではないと知っているからであり、同年代の気安さもある。
食事を終えると他愛もない会話をしながら遼はリハビリテーション科、勝司は病棟へと戻っていく。
ナースステーションの休憩室。半数ちかくの看護師が弁当をつつき、また茶を飲むなかで勝司は英単語帳を開いた。休憩時間までを勉強にあてる勝司は、最初こそ冷やかされたものの、今は応援する声の方が多かった。
だが今日、休憩室で看護師が口にする話題の多くは勝司にとって無視できるものではなく、英単語などほとんど頭に入ってくるはずもない。
「高弘先生、一睡もしてないわよね……」
ベテランで大柄のナースが嘆息する。
「TUL(経尿道的尿路結石破砕術)からの敗血症なんて、あんまり聞かないわよね」
「DICの寸前まで行ったんでしょう?」
寸前というか現状ほぼDICね、と言ったのは看護主任、瀧澤だった。
「高弘先生も災難だわね。ジョーが後ろでずっと監視してたんじゃ、余計に消耗するだけだと思うんだけど。しかも部長まで」
勝司の青褪めた表情に、瀧澤は気づいた。
「顔色、悪いわね──眠れてないでしょ」
勝司は、緩慢に首を横に振った。瀧澤は重く溜息をつく。
「アタシらを前にして、そういうごまかしはムダよ。せめて食事くらいちゃんとして、体調管理は徹底しなさい。余計な心配させないのがいまのあなたに唯一、今できることよ」
「──はい」
「高瀬さんはまだ若い、必ず持ち直すわ」
看護主任の心遣いが胸に苦しかった。勝司は、立ち上がる。
「オレちょっと外の空気、吸ってきます」
悄然とした様子が払拭された様子もない。
看護師たちは、一様に顔を見合わせた。
メッセージアプリの返信はなかった。
令子から言伝で「しばらくは帰れないはず」と教えられている。当面はいまの厳戒態勢が続くだろう、とのことだった。
夕食は、近所の牛丼屋で済ませた。
そうしてリビングのテーブルに向かって、数学の演習問題をひたすらに解いていた。
もちろん高弘が不在の夜など、これまでにいくらでもあった。
当直、オンコールでの夜間対応。医師というのはそういう職業だと頭ではわかっている。
だが、今回のケースは何か違う気がした。
病棟に張り詰めた緊張感は、どこか異質のものだ。本来あるはずのないことが起きてしまったとでもいうような、違和感。誰も、高弘を責めるわけではない。だがスタッフの表情には明らかに戸惑いが見て取れた。
もしかしたら高弘は今、窮地に立たされているのかも──だからといって自分に何ができるだろう。
勝司はテーブルに突っ伏した。
何かできるはずもない。自分は医師でも看護師でもMEでも、何でもないのだから。
だからといって己の無力に浸っている場合でもないだろう。
自分にできることを、やらなければ。
勝司はふたたび、目の前の無機的な数式の群れに挑みかかる。
今の自分には英語などの語学科目は、ただ素通りしていくばかりに思えた。
だから明確な解答の用意されている数学に、ただひたすらに没入する。気づけば時刻は深夜を過ぎていた。
今日は、眠れるだろうか。
仕事のため、受験勉強のための体調管理というのもあるが──ひどい顔色を、高弘に見せてしまいたくはない。
間違ってはいけない。闘っているのは患者であり、高弘だった。
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