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急変
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十二月四日──手術日だ。
いつものように朝食を準備してから高弘を目覚めさせ、勝司は職場へと──病棟へと向かった。
その日の手術件数はかなり多かった。だが師長、看護主任ほか病棟のスタッフは動じることもない。年末はこんなものだと経験上、知っているのだ。
いつも通りに目まぐるしい一日が過ぎて、最後の手術患者が病棟に戻ってきた。
勝司の業務は、そこで終了である。なにも変わらない日常だった。
帰宅すると夕食の準備を済ませておく。
手術日の高弘の帰りは遅いものと決まっているが、勝司は受験勉強をしながら一応、九時までは待つことにした。
中学と高校には、ほとんど通っていなかった。
だから勝司には机に向かって勉強するという、あたり前の習慣が備わっていない。
いや──正確には幼児のころからずっと、何かに向かって落ち着いて取組む環境など与えられてはいなかった。
高弘にはいくら感謝しても、しきれない。家庭教師としても高弘は、抜群に優秀だ。
義務教育レベルの基礎から土台がすこしもできあがっていない勝司に辟易することもなく、むしろ楽しそうに鍛えてくれた。
九時を過ぎて、携帯に何の連絡もないのを確認してから勝司はひとり食卓に向かう。
ここまでの経過は、順調だった。
数学Ⅱと数学Bの全範囲をカバーしたので勝司は、受験科目の全体像を把握できた。
「微分」には何度も頭を抱えさせられたものの、高弘が教科書的ではない自分流の解釈と解法を叩き込んでくれたおかげで、今ではむしろ得意ジャンルとなっている。
年末と年始、模擬試験はあと二回。
模試が楽しみになっている自分を感じて、勝司は誇らしいような、不思議な心持ちがしていた。
順調であること。それはかつて体験したことのない感慨であるだけに、実は怖い。
それでも背中を押してくれる存在があって勝司は、ようやくここまでこれたのだ。
だけど勝司は、高弘にいったい何を返してやれるというのだろう。
高弘は、そんなことは気にするなという。
奴隷奉仕してくれれば充分、と笑うのだ。だけど痛いほど気を遣われていたことを、勝司だって自覚している。
奴隷扱いどころか、初めて自分を人間扱いしてくれた人物。
不意にあの時かわした約束が胸に去来して勝司は、泣き出しそうになる。
そのとき、玄関の鉄扉が開いた。
「よう。ただいまー」
いつものように自信に満ちた、その笑顔。それだけで勝司の不安は影をひそめる。
「おかえりー。メシは?」
「おう、まだだ」
ジャケットを脱いでハンガーにかけようとする──その瞬間、高弘の鞄から甲高い着信音が鳴り響いた。勝司の鼓動が跳ね上がる。この着信音は──何らかの緊急事態を告げることが大半だった。
高弘は眉根を寄せ、携帯電話を手にする。コールしているのは医局か、病棟か。
「ああ、俺だ──そう、今日の高瀬さんの執刀なら自分だが、それが」
高弘の全身から、痛いほどの緊張感が見て取れるようだった。
「DIC兆候──尿路感染か⁉」
その緊張しきった声音に、勝司の肩までが震えた。
「わかった。とにかく、すぐに行く」
高弘は勝司を振り返る。初めて見る蒼白な、その容貌。
「急変だ──たぶん、今日は帰らない」
帰宅した直後に、慌しくドアを押し開いて外へ出る高弘を、勝司は呆然と見送った。
先に寝ていろといわれたが──鼓動がうるさいほど耳にまで響いた。
勝司はリビングのノートパソコンを起動する。立ちあがりの遅さに、すこしイラつきながらも考える。
今日は、長時間のオペは一件もなかった。年末が近くて多少は件数が多かったとはいえ、遅滞なくすべての術式を終えられたと聞いていた。
ようやく立ち上がったPCのブラウザで、勝司は検索する。
『DIC(播種性血管内凝固症候群)』
全身血管内における著しい凝固の賦活。それによる血栓の多発と、凝固因子である血小板の消耗にともなう易出血傾向。尿路感染が原因というのならおそらくは、敗血症によるものだろうか。
勝司は『敗血症』と『DIC』をキーワードに再検索する──表示された情報に眉根を寄せた。
その転帰は敗血症性ショック。
最悪のケースではMOF(多臓器不全)へと陥り死亡するという。
「死」という一文字が、脳裏で忌まわしく躍った──手先が冷え、イヤな汗をかいているのを自覚する。
医療事故という最悪の想像を振り払うようにして、勝司はひとり呟く。
「……大丈夫だ」
高弘なら、何とかするはず。そうは思うがもう勉強は手につかなかった。
自分がこんなことをしたところで、なんの役にも立たないことはわかっている。それでも勝司は高弘の医学書を持ち出し、関連項目をわからないなりに読んでいた。
その行為に没頭することで、少しでも安心しようとしている自分が浅ましいと思う。
だが「先に寝ていろ」といわれて、眠れるものではないという確信があった。
だったら、すこしでも高弘の置かれている状況に近づき、知っておきたい。無論、力になれるはずもなかった。
それでも勝司は、そのほかに早まる鼓動と痛むほど尖る神経を宥める手段を、ほかに持たなかった。
いつものように朝食を準備してから高弘を目覚めさせ、勝司は職場へと──病棟へと向かった。
その日の手術件数はかなり多かった。だが師長、看護主任ほか病棟のスタッフは動じることもない。年末はこんなものだと経験上、知っているのだ。
いつも通りに目まぐるしい一日が過ぎて、最後の手術患者が病棟に戻ってきた。
勝司の業務は、そこで終了である。なにも変わらない日常だった。
帰宅すると夕食の準備を済ませておく。
手術日の高弘の帰りは遅いものと決まっているが、勝司は受験勉強をしながら一応、九時までは待つことにした。
中学と高校には、ほとんど通っていなかった。
だから勝司には机に向かって勉強するという、あたり前の習慣が備わっていない。
いや──正確には幼児のころからずっと、何かに向かって落ち着いて取組む環境など与えられてはいなかった。
高弘にはいくら感謝しても、しきれない。家庭教師としても高弘は、抜群に優秀だ。
義務教育レベルの基礎から土台がすこしもできあがっていない勝司に辟易することもなく、むしろ楽しそうに鍛えてくれた。
九時を過ぎて、携帯に何の連絡もないのを確認してから勝司はひとり食卓に向かう。
ここまでの経過は、順調だった。
数学Ⅱと数学Bの全範囲をカバーしたので勝司は、受験科目の全体像を把握できた。
「微分」には何度も頭を抱えさせられたものの、高弘が教科書的ではない自分流の解釈と解法を叩き込んでくれたおかげで、今ではむしろ得意ジャンルとなっている。
年末と年始、模擬試験はあと二回。
模試が楽しみになっている自分を感じて、勝司は誇らしいような、不思議な心持ちがしていた。
順調であること。それはかつて体験したことのない感慨であるだけに、実は怖い。
それでも背中を押してくれる存在があって勝司は、ようやくここまでこれたのだ。
だけど勝司は、高弘にいったい何を返してやれるというのだろう。
高弘は、そんなことは気にするなという。
奴隷奉仕してくれれば充分、と笑うのだ。だけど痛いほど気を遣われていたことを、勝司だって自覚している。
奴隷扱いどころか、初めて自分を人間扱いしてくれた人物。
不意にあの時かわした約束が胸に去来して勝司は、泣き出しそうになる。
そのとき、玄関の鉄扉が開いた。
「よう。ただいまー」
いつものように自信に満ちた、その笑顔。それだけで勝司の不安は影をひそめる。
「おかえりー。メシは?」
「おう、まだだ」
ジャケットを脱いでハンガーにかけようとする──その瞬間、高弘の鞄から甲高い着信音が鳴り響いた。勝司の鼓動が跳ね上がる。この着信音は──何らかの緊急事態を告げることが大半だった。
高弘は眉根を寄せ、携帯電話を手にする。コールしているのは医局か、病棟か。
「ああ、俺だ──そう、今日の高瀬さんの執刀なら自分だが、それが」
高弘の全身から、痛いほどの緊張感が見て取れるようだった。
「DIC兆候──尿路感染か⁉」
その緊張しきった声音に、勝司の肩までが震えた。
「わかった。とにかく、すぐに行く」
高弘は勝司を振り返る。初めて見る蒼白な、その容貌。
「急変だ──たぶん、今日は帰らない」
帰宅した直後に、慌しくドアを押し開いて外へ出る高弘を、勝司は呆然と見送った。
先に寝ていろといわれたが──鼓動がうるさいほど耳にまで響いた。
勝司はリビングのノートパソコンを起動する。立ちあがりの遅さに、すこしイラつきながらも考える。
今日は、長時間のオペは一件もなかった。年末が近くて多少は件数が多かったとはいえ、遅滞なくすべての術式を終えられたと聞いていた。
ようやく立ち上がったPCのブラウザで、勝司は検索する。
『DIC(播種性血管内凝固症候群)』
全身血管内における著しい凝固の賦活。それによる血栓の多発と、凝固因子である血小板の消耗にともなう易出血傾向。尿路感染が原因というのならおそらくは、敗血症によるものだろうか。
勝司は『敗血症』と『DIC』をキーワードに再検索する──表示された情報に眉根を寄せた。
その転帰は敗血症性ショック。
最悪のケースではMOF(多臓器不全)へと陥り死亡するという。
「死」という一文字が、脳裏で忌まわしく躍った──手先が冷え、イヤな汗をかいているのを自覚する。
医療事故という最悪の想像を振り払うようにして、勝司はひとり呟く。
「……大丈夫だ」
高弘なら、何とかするはず。そうは思うがもう勉強は手につかなかった。
自分がこんなことをしたところで、なんの役にも立たないことはわかっている。それでも勝司は高弘の医学書を持ち出し、関連項目をわからないなりに読んでいた。
その行為に没頭することで、少しでも安心しようとしている自分が浅ましいと思う。
だが「先に寝ていろ」といわれて、眠れるものではないという確信があった。
だったら、すこしでも高弘の置かれている状況に近づき、知っておきたい。無論、力になれるはずもなかった。
それでも勝司は、そのほかに早まる鼓動と痛むほど尖る神経を宥める手段を、ほかに持たなかった。
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