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過去と約束
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衛律医科大学、泌尿器科医局。
大学三号館の三階に位置するその医局には、准教授の六波羅承と、女医で三年目の二橋美夏、そして高弘が残っていた。
非常にマズい組み合わせだった。高弘は、苦悩する。
「二橋先生、今日は上がりましょうか!」
「え、あ──はい!」
そそくさと荷をまとめる二人に承は口許をゆがめ、意味深な表情をした。
「一宮センセイ。最近はずいぶん、お早いですね」
特にするべきこともなければ帰るのが普通だろう、と高弘は内心で思う。
「准教授は、お帰りにならないので?」
「ちょっと気になる症例があって、ね」
ウソをつけ、と高弘は心の中で苦笑した。
「それでは、お先に失礼します」
美夏が機先をきかせ、先手を打った。
「おや。おふたりとも今日は、デートですか──?」
美夏が殺気を放つが、高弘が一瞥してなんとか場を収めようとする。
「ちょっと友人と飲み会で。それじゃ失礼します」
医局を出ると高弘は声なき溜息をついた。
「ありがとうございます、一宮先生!」
妙に華やいだ声を上げる美夏──無理もない、犬猿の仲とされる二人だ。医局に二人が残されることを思うだけで、胃が痛みそうだった。
「わたし、アイツと二人きりにされるかと内心ビクビクしてたんですよー。ホントに!」
「ははは……」
我ながら、乾いた笑いだと思う。
「早く一宮先生も准教授に昇進しちゃってくださいよ。応援してますから」
「二橋先生は──?」
「……わたしは、たぶんその前に他所に行きますから」
高弘も、その選択を考えたことならある。だが今は違った。
医局の体制に不満があって他所へ移るのはプライドに障るし、それに今は。
──今は、アイツもいるから。
「センセイ。聞いてます、わたしの話?」
「ああ、スミマセン」
「ジョーが残ってたのって、やっぱりアレですよね、きっと」
六波羅は自ら「呼びにくいだろう」という理由で部下に「承先生」と呼ぶことを許していたが、だれも呼ぼうとはしなかった。どうやら、そのことも彼にとっては不満のひとつらしいのだが。
看護師などは影でジョーと呼び捨てたり、ロッキーなどと好き勝手なアダ名をつけて楽しんでいる。
「たぶん『アレ』でしょうね、きっと」
「オカシイですよね、絶対。あのヒト」
承には妻子がある。高弘の記憶では、確かまだ一歳になろうかという女の子だった。
だが、オペ室の看護師に手をつけているという噂は院内では有名だ──つまりは院内不倫である。
「お子さんもまだ小さいのに」
「奥さんは、気づいてないんでしょうね」
「何が『デートですか』だっての、それはアンタだろってハナシですよ。アホか!」
激昂する美夏をなだめつつも、高弘は内心では深く同意していた。
じつは高弘と勝司の関係もまた、院内では有名な噂だった。おそらく泌尿器科スタッフで知らない者は、医局に所属する二名のみ。ひとりは泌尿器科トップである部長。そしてもうひとりは准教授である承だ。
部長が知らないのは、地位や年齢が離れすぎているから、まあ当然といえば当然だろう。だが高弘は、承の直属の部下である。
上の機嫌ばかりを窺って下を見ようとしないから嫌われる──そこに同情の余地はなかった。
「一宮先生は本当にデートなんですか?」
「まさか。まっすぐ帰りますよ」
さすがに同棲しているとまでは知られていなかった。それで困るわけでもないが。
「なんだぁ。ちょっとだけグチにつきあってもらおうかと思ったんだけどな。残念!」
二橋のいいところは、サバサバしたところにあると高弘は思っている。
「よかったら今度、麻酔科の三滝と一緒に飲みに行きませんか──?」
「ああ、一宮先生と同期の。喜んで!」
二橋は心底、嬉しそうに笑った。気丈に見えても、承と一触即発だった時は涙を見せることすらあったから安堵する。
「じゃあ。わたし地下鉄なので、ここで」
「ああ。お疲れ、また明日な」
高弘は手を振って見送ると、歩きだした。勝司と暮らすマンションは徒歩圏内だ。
そうして歩きながら、思い出す。勝司との関係が病棟内で噂になったのは、ちょっとした事故のようなものだった。
勝司が入職して、三ヵ月目くらいだった。
朝の回診で各病室をまわっていた高弘は、とある一室のカーテンの向こうで、二人の影がもつれあうのを見た。
「どうしました──!」
ひと声かけてカーテンを開けると、中年の患者が、勝司を組み伏せようとしていた。
「おはようございます有田さん、元気そうですね。なんなら退院しちゃいますか?」
「いや、はは……」
有田は笑顔を引きつらせる。勝司の顔色は、青褪めていた。
「現状、特にお変わりないですね。抗生剤はちゃんと飲んでおいてくださいよ」
そういって勝司の腕を引き、退室した。
「なにやってんだよ、おまえは……」
勝司は俯いたままだった。
「ゴメン。重症だったら困る、と思って」
「思って──?」
「抵抗、できなかったんだ」
高弘は重い溜息をついた。
「言葉でも制止くらいできるだろ。ヘタに興奮して動かれちゃ、むしろ危ないんだが」
「……スミマセン」
「何にしろ、オマエが無事でよかったよ」
そうして高弘が勝司の頭に手を置くまでを物陰から見守る影があった──看護主任、瀧澤である。
この噂はその日のうちに、病棟内にあまねく広まったのだった。
「帰ったぞー」
「あれ。えらい早いね、どーしたの」
リビングでテーブルに向かっていた勝司が立ち上がろうとするのを、手で制する。
「いいから、続けてろ。三角比までは問題なさそうだな。数学Aは──?」
「きのう終わらせた」
「やればできるじゃねーの。今日中には、なんとか数学Ⅱに入れるな」
勝司は天を仰ぐと、深く息を吐いて瞑目した。
「ペース、はやくね……?」
「アホか。もう十月も終わるんだぞ」
本命校の受験日は、二月中旬だ。
「専門学校なら数学Ⅰができれば問題ないが。受けるんだろ、ウチの大学」
「うん──なんか、無謀な気がしてきた。っていうか、最初から無謀だった」
「大丈夫だろオマエなら」
なにも気休めで言っているのではない。
「英語の方は、進んでるのか──?」
「まあね。休憩中も英単語、覚えてるよ」
「なら次の模試は両教科、偏差値55以上でな」
「なんのハナシ──?」
「とぼけるな。それ以下なら罰ゲームだ」
マジかよ、と途方に暮れる勝司。だが実際のところ、偏差値55でも微妙だ。
模試で衛律医科大学、看護学部のA判定をとるには最低でも偏差値61が必要だった。
「前回より過激なヤツを考えとくからな。覚悟しておけ」
「ホント、変態ドクターだよな。タカは」
「そんなこと言ってよ、実は期待してんだろオマエ」
「してねーよ!」
「わざと間違ったりすんなよ」
「だから、しねーわ!」
こうして勝司をからかっている時、高弘は満たされた気分になる──確かに変態の亜種なのかもしれない。
「メシ食ったら、すぐ始めるぞー」
「了解、お願いしゃーす」
時間は、まだ午後八時。今日はたっぷりと付き合ってやれる。
入試直前まで勝司の勉強を見てやれるとは限らない──仕事の性質上、いつ激務になるともわからないから。
だから時間があるうちに勝司をできるだけ見てやりたかった。
「メシ、できたよー」
「ああ。いま行く」
おまえは大丈夫だ──と。安心させてやると「約束した」のだから。
勝司が、指数関数と対数関数の基礎問題を解いているのを、背後から見守っている。
困ったとき髪に手をやるのは、どうもクセらしい。その分かりやすさが微笑ましかった。
こうやって背後にいるのを許されるようになったのは、いつ頃からだっただろう。
この部屋に住むようになった初めのころ、勝司は終始、緊張していたように思う。
それも「尋常なレベルの緊張」ではなかった。
大学三号館の三階に位置するその医局には、准教授の六波羅承と、女医で三年目の二橋美夏、そして高弘が残っていた。
非常にマズい組み合わせだった。高弘は、苦悩する。
「二橋先生、今日は上がりましょうか!」
「え、あ──はい!」
そそくさと荷をまとめる二人に承は口許をゆがめ、意味深な表情をした。
「一宮センセイ。最近はずいぶん、お早いですね」
特にするべきこともなければ帰るのが普通だろう、と高弘は内心で思う。
「准教授は、お帰りにならないので?」
「ちょっと気になる症例があって、ね」
ウソをつけ、と高弘は心の中で苦笑した。
「それでは、お先に失礼します」
美夏が機先をきかせ、先手を打った。
「おや。おふたりとも今日は、デートですか──?」
美夏が殺気を放つが、高弘が一瞥してなんとか場を収めようとする。
「ちょっと友人と飲み会で。それじゃ失礼します」
医局を出ると高弘は声なき溜息をついた。
「ありがとうございます、一宮先生!」
妙に華やいだ声を上げる美夏──無理もない、犬猿の仲とされる二人だ。医局に二人が残されることを思うだけで、胃が痛みそうだった。
「わたし、アイツと二人きりにされるかと内心ビクビクしてたんですよー。ホントに!」
「ははは……」
我ながら、乾いた笑いだと思う。
「早く一宮先生も准教授に昇進しちゃってくださいよ。応援してますから」
「二橋先生は──?」
「……わたしは、たぶんその前に他所に行きますから」
高弘も、その選択を考えたことならある。だが今は違った。
医局の体制に不満があって他所へ移るのはプライドに障るし、それに今は。
──今は、アイツもいるから。
「センセイ。聞いてます、わたしの話?」
「ああ、スミマセン」
「ジョーが残ってたのって、やっぱりアレですよね、きっと」
六波羅は自ら「呼びにくいだろう」という理由で部下に「承先生」と呼ぶことを許していたが、だれも呼ぼうとはしなかった。どうやら、そのことも彼にとっては不満のひとつらしいのだが。
看護師などは影でジョーと呼び捨てたり、ロッキーなどと好き勝手なアダ名をつけて楽しんでいる。
「たぶん『アレ』でしょうね、きっと」
「オカシイですよね、絶対。あのヒト」
承には妻子がある。高弘の記憶では、確かまだ一歳になろうかという女の子だった。
だが、オペ室の看護師に手をつけているという噂は院内では有名だ──つまりは院内不倫である。
「お子さんもまだ小さいのに」
「奥さんは、気づいてないんでしょうね」
「何が『デートですか』だっての、それはアンタだろってハナシですよ。アホか!」
激昂する美夏をなだめつつも、高弘は内心では深く同意していた。
じつは高弘と勝司の関係もまた、院内では有名な噂だった。おそらく泌尿器科スタッフで知らない者は、医局に所属する二名のみ。ひとりは泌尿器科トップである部長。そしてもうひとりは准教授である承だ。
部長が知らないのは、地位や年齢が離れすぎているから、まあ当然といえば当然だろう。だが高弘は、承の直属の部下である。
上の機嫌ばかりを窺って下を見ようとしないから嫌われる──そこに同情の余地はなかった。
「一宮先生は本当にデートなんですか?」
「まさか。まっすぐ帰りますよ」
さすがに同棲しているとまでは知られていなかった。それで困るわけでもないが。
「なんだぁ。ちょっとだけグチにつきあってもらおうかと思ったんだけどな。残念!」
二橋のいいところは、サバサバしたところにあると高弘は思っている。
「よかったら今度、麻酔科の三滝と一緒に飲みに行きませんか──?」
「ああ、一宮先生と同期の。喜んで!」
二橋は心底、嬉しそうに笑った。気丈に見えても、承と一触即発だった時は涙を見せることすらあったから安堵する。
「じゃあ。わたし地下鉄なので、ここで」
「ああ。お疲れ、また明日な」
高弘は手を振って見送ると、歩きだした。勝司と暮らすマンションは徒歩圏内だ。
そうして歩きながら、思い出す。勝司との関係が病棟内で噂になったのは、ちょっとした事故のようなものだった。
勝司が入職して、三ヵ月目くらいだった。
朝の回診で各病室をまわっていた高弘は、とある一室のカーテンの向こうで、二人の影がもつれあうのを見た。
「どうしました──!」
ひと声かけてカーテンを開けると、中年の患者が、勝司を組み伏せようとしていた。
「おはようございます有田さん、元気そうですね。なんなら退院しちゃいますか?」
「いや、はは……」
有田は笑顔を引きつらせる。勝司の顔色は、青褪めていた。
「現状、特にお変わりないですね。抗生剤はちゃんと飲んでおいてくださいよ」
そういって勝司の腕を引き、退室した。
「なにやってんだよ、おまえは……」
勝司は俯いたままだった。
「ゴメン。重症だったら困る、と思って」
「思って──?」
「抵抗、できなかったんだ」
高弘は重い溜息をついた。
「言葉でも制止くらいできるだろ。ヘタに興奮して動かれちゃ、むしろ危ないんだが」
「……スミマセン」
「何にしろ、オマエが無事でよかったよ」
そうして高弘が勝司の頭に手を置くまでを物陰から見守る影があった──看護主任、瀧澤である。
この噂はその日のうちに、病棟内にあまねく広まったのだった。
「帰ったぞー」
「あれ。えらい早いね、どーしたの」
リビングでテーブルに向かっていた勝司が立ち上がろうとするのを、手で制する。
「いいから、続けてろ。三角比までは問題なさそうだな。数学Aは──?」
「きのう終わらせた」
「やればできるじゃねーの。今日中には、なんとか数学Ⅱに入れるな」
勝司は天を仰ぐと、深く息を吐いて瞑目した。
「ペース、はやくね……?」
「アホか。もう十月も終わるんだぞ」
本命校の受験日は、二月中旬だ。
「専門学校なら数学Ⅰができれば問題ないが。受けるんだろ、ウチの大学」
「うん──なんか、無謀な気がしてきた。っていうか、最初から無謀だった」
「大丈夫だろオマエなら」
なにも気休めで言っているのではない。
「英語の方は、進んでるのか──?」
「まあね。休憩中も英単語、覚えてるよ」
「なら次の模試は両教科、偏差値55以上でな」
「なんのハナシ──?」
「とぼけるな。それ以下なら罰ゲームだ」
マジかよ、と途方に暮れる勝司。だが実際のところ、偏差値55でも微妙だ。
模試で衛律医科大学、看護学部のA判定をとるには最低でも偏差値61が必要だった。
「前回より過激なヤツを考えとくからな。覚悟しておけ」
「ホント、変態ドクターだよな。タカは」
「そんなこと言ってよ、実は期待してんだろオマエ」
「してねーよ!」
「わざと間違ったりすんなよ」
「だから、しねーわ!」
こうして勝司をからかっている時、高弘は満たされた気分になる──確かに変態の亜種なのかもしれない。
「メシ食ったら、すぐ始めるぞー」
「了解、お願いしゃーす」
時間は、まだ午後八時。今日はたっぷりと付き合ってやれる。
入試直前まで勝司の勉強を見てやれるとは限らない──仕事の性質上、いつ激務になるともわからないから。
だから時間があるうちに勝司をできるだけ見てやりたかった。
「メシ、できたよー」
「ああ。いま行く」
おまえは大丈夫だ──と。安心させてやると「約束した」のだから。
勝司が、指数関数と対数関数の基礎問題を解いているのを、背後から見守っている。
困ったとき髪に手をやるのは、どうもクセらしい。その分かりやすさが微笑ましかった。
こうやって背後にいるのを許されるようになったのは、いつ頃からだっただろう。
この部屋に住むようになった初めのころ、勝司は終始、緊張していたように思う。
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