奴隷医の奴隷。

隠岐 旅雨

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専属奴隷契約

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 東京都渋谷区、宇田川町うだがわちょう。スペイン坂と呼称する通りの地下に、その店はあった。
 照明の抑えられた店内は、シックな内装だ。選曲はジャズピアノがメインだった。アップテンポの曲もバラード調の曲も流れる。
 客層は若いが騒がしいということはなく、密やかな会話には向いていた。

 最奥さいおうのテーブル席には男女が二人。
 男はグレーのスーツ姿だった。着座するなり、ネクタイを緩める。
 女は黒のパンツスーツ。アップにまとめた髪は、フチなしのメガネとも相俟あいまってキャリア女性のイメージを演出する。

 女は髪を解き、メガネを外した。そうするとイメージは一変して、赤みの強い長めのボブが印象的な美女になる。
女はロングアイランド・アイスティーを、男はウォッカ・トニックをオーダーした。
 それからたがいにグラスを軽くあて、乾杯を告げる。
「学会帰りにわざわざ悪いわねー、タカ」
「いや、おまえも仕事帰りだろ。お疲れ」
 一宮いちのみや高弘たかひろにとって三滝みたき令子れいこは高校時代からの縁だ──腐れ縁だと、互いは呼ぶが。
 お互いに現役で衛律えいりつ医科大学に入学して、同期の医師として同じ職場で働いている。

「で、どうなの。泌尿器科ウロの調子」
 高弘は泌尿器科ひにょうきかの医師である。
「ああ、ここんとこ平和だったんだけど。また准教授と三年目の女医がめてんな」
「軽く見られんのよ」
 令子は、ドリンクに唇をつけた。
「女医はどうしたってね。麻酔科ですらそうだもん、外科系なんて特になんじゃないの?」
「そうなんだろう、な」
 泌尿器科病棟の看護師は准教授を敵視している。部下になにも任せられない、器の小さな男として蔑視していた。
嫌われている本人も、それを自覚しているらしかった。だが准教授は自分にとっても上司にあたるのだ。
 自然と、看護師と准教授の対立を取りもつ緩衝材クッションのような格好になるので余計にストレスがたまる。

 その女医・・・・に落ち度はなかった。ただ運が悪かった、とはいえるだろう。
 容態ようだいの急変した患者を准教授は極力、自分の管理下に置きたがった。主治医である女医の判断が正しかったとしても、処置には逐一ちくいちの報告が求められたのだそうだ。
 だが患者本人が准教授を遠ざけた。主治医である担当女医の判断に従う義務はあるが、あなたの判断に従う義務はないでしょうと突っぱねたのである。

 そして准教授不在時、麻酔科医の立会いで行われた抜管ばっかんに、准教授は激怒した。
 主治医、麻酔科医が立ち会っているのだ。気管内挿管を抜管するのに、体制的にはなんの問題もない。
 ちなみに麻酔科の当直医は、運が悪いと数件の緊急手術を掛け持つことになる。
「もう肌年齢もおとろえるばっかりだわ。そういえば秋は休み、取れそうなの──?」
「ああ、たぶん大丈夫だ」
「うらやましい。あたしもどっか南の島で現実逃避しないとマジで死ねるわ。まあ、仮に行けるとしても女医仲間で、になるけどね」
 それには苦く笑って答えない高弘の顔に、令子は指を突きつけた。
「で。アンタはやっぱりあのコと旅行か」
「いや。たぶん、どこも行かんな」
「なんでよ」
「アイツの受験もあるからな」
「楽しめるうちに楽しんどきなさいよー」
 いつ死んでも悔いのないようにすんのよ、と令子はテーブルにつっぷした。
「おまえピッチ早すぎ。疲れてんだろ」
「そうよう。だから送ってってねー」
 高弘は額に手をあてた。

「それで。五味ごみ勝司かつじクンだっけ、あのコはどうなの。ウチの病院に勤めてるんでしょ。神経太くないと、すぐに潰されちゃうわよう?」
「ああ、そのへんは大丈夫そうだ。それなりに体力もあるし、もともと物覚えも悪くない。患者にも看護師にもかわいがられてるそうだ」
「地獄のような三次医療圏の現場を見ておくのもある意味、勉強といえば勉強よね」
 令子は勢いよくカクテルを飲み干し、次はブルー・ラグーンをオーダーした。
「思い出すわねえ。もうすぐ一年だっけ」
「ああ。そんな時期になるな、もう」
 一年前の年末。深夜だった。高弘は勝司を文字通り「拾った」のだ。
 最初はウリ専のトラブルかと思った。場所は新宿三丁目から二丁目への路地裏あたり──だったか。そういう・・・・界隈かいわいにごく近い場所だったから。
 浮浪者にしては、若すぎた。
 泥酔者にしては譫言うわごとをつぶやくでもなくアルコールの臭気もなかった。暴行沙汰ざたに巻き込まれたにしては身なりが整いすぎている。
 ただ行き倒れたようにしか見えなかった。
 ひどく痩せた首筋と手首、血色の悪い肌。少なくとも健康とは、ほど遠い印象。捨て置くわけにもいかなかった。
「おい、大丈夫か!?」
 声をかけるが、返答はなかった。
 ようやく開けた目は胡乱うろんで、焦点をうまく結べない。なにか言葉を口にしようとしたが、そのまま頭を垂れて緘黙かんもくしてしまう。
 譫妄せんもう状態だ。薬物の過量摂取オーバードーズと思われた──予断は許されない。
 携帯電話を取り出し119番をコールした。すると不意に足元を掴まれて、バランスを崩しそうになる。
「おい──!?」
「ゴメン。もう大丈夫だから」
 すっと立ち上がり、チェーンの提げられたカーゴパンツを手で払った。しかし足元は定まらず、すぐにふらついてしまう。
「大丈夫じゃないだろ。救急車は呼ばないが、病院には行けよ。タクシー呼ぶか?」
 薬物の種類は特定できないが、覚醒剤など禁止薬物である可能性も否定できない。
 だが、そこから先は警察の領分だろう。医師とはいえ他人である高弘がどうこうすることではなかった。
「カネ、ないんだ」
「タクシー代くらい、貸してやる」
「そうじゃなくてさ」
 舌足らずな口調。サロンの機械で焼いたのだろう人工的な日焼けは血色の悪さのせいで、どす黒く見えた。
 髪色はアッシュグレー、サイドが長めのエアリーレイヤー。
「オレを、買ってよ・・・・
 高弘は思わず息を呑んだ。正面から見た容貌ようぼうは、こうして見るとひどく整っていた。
「そうか、──条件がひとつ、ある」

 シティホテルの一室。抑えられた照明を強くして、高弘は手渡された薬物のシートを検分した。
「トリアゾラムに、フルニトラゼパムか」
 わりとよく処方される睡眠薬だった。ただし両者とも、乱用問題で悪名が高い。特に若年層での、家出同然で繁華街に集まるなかでのオーバードーズが有名だ。
「確認だが当然、これは処方薬なんだよな」
「アンタ、ナニ。医者か警察か、そういうひと──?」
 その質問に、高弘は答えない。
「保険証を持ってるか」
 若者は財布から一枚のカードを取り出す。
 派遣労働者の健康保険証だった。氏名欄には「五味 勝司」とある。
「五味クン。今どこに住んでいる?」
「トモダチんとこ」
「それじゃ聞くが、どうしてあんなところで倒れてたんだ──?」
 勝司は下を向いて黙し、何も口にはしない。
「飲んでただろう」
 何を、とはあえていわない。
「眠れないのか──?」
「うん。クスリがないと」
「見たところ、そのクスリも余剰がない。それで手っ取り早く金が欲しくて、身体を売ろうとした──そんなところか?」
「悪ィかよ……」
 切れ長の奥二重おくぶたえ。こちらをにらむ双眸そうぼうは青白く光っていた。
「悪いとはいわないが、ずいぶん損な・・生き方だな」
「なんだそれ。他人の生き方に文句つけんな」
「たかがクスリのために俺みたいな中年に身体売って──それで、それ・・をくりかえすのか?」
「アンタ、まだ若いだろ」
「二十代の終わり。若いともいえないな」
「でも、たぶんアンタ医者なんだろ。カネ持ってんだろ」
 高弘は勝司の襟元えりもとを掴む。身体は簡単に浮いてしまった──それほどまでに、軽い。
「そういう区分けでヒトを判断するんじゃねえよ──ガキが」

 そうして浮いた身体をベッドに突き放す。
「それ飲んで、寝ちまえ──量は守れよ」
 高弘はジャケットをハンガーにかけ、下着一枚の姿になると浴室に姿を消した。
 この間に、あえて作った隙はもちろん「故意わざと」だった。
 シャワーを浴びている間に、財布から金を抜いて逃げる程度のヤツならそれでよし。カードまで抜くようなら対応を考える。
 保険証が偽造でもない限りは、あれがあの男の本名で間違いないはずだ。追跡は容易だろう。
 湯を浴びてさっぱりしたところで部屋に戻ると、勝司は着衣もそのままに、ベッドで静かに寝息をたてていた。
 サイドテーブルには、クスリの空シート。どうやら用量は守ったらしい。
 高弘は相好そうごうを崩し、苦く笑って溜息ためいきをつくと勝司に布団をかけてやった。
 そうして自分はガウン姿のまま、ベッドのすみに所在なく身を縮めて眠った。

 翌朝は、揺すられて目を覚ました。
 充分に眠れたのか、昨晩よりは血色のよくなった顔が高弘を迎える。居心地の悪そうな頬がやや紅潮していた。
「ああ、おはよう」
「……うん」
 照れたような表情だった。何か言いたそうだったので言葉をうながすと、やっとの口調で『ありがとう』と言う。
何が、と問うのは無粋だろう。だから高弘は何も言わなかった。
「ハラ減ったろ。朝メシ食いに行こうか」
 高弘の正装に対し、勝司はストリート系のルーズなファッションだ。そう高くもないホテルの朝食になぜか緊張した面持ちが、どこか可笑おかしかった。
「あのさ、名前……」
「ん?」
「名前、教えてくれよ」
 そういえば、こちらは名乗っていなかったのだったか。
「一宮高弘だ。キミは──五味勝司クンだったな」
「名字で呼ばれんの、キライなんだ」
「じゃあ、勝司。これから、どうする?」
「そのハナシなんだけどさ……」
 勝司はキレイに整えられた眉を寄せた。
「シゴトが決まるまでタカヒロさんとこに置いてくれない──かな?」
 唐突な申し出に、高弘は絶句する。
「ダメか。無理ないよな」
 ホテルでベッドをともにするのとはワケが違うだろう、と高弘は心で叫ぶ。
「何でもするよ、オレ」
 その言葉に、高弘の性癖が急に首をもたげた。嗜虐心しぎゃくしん──あるいは、サディズムという。

「そんでアンタんちに住み込みで家事全般やらせて。さらに性処理・・・までさせた、と」
「まあ、そういうことになるのかな──?」
「そこで居直るんじゃないわよ、このクソ外道が!」
 令子はわざとらしく涙を拭いた。もちろん涙など、出ていないが。
「この男のするコトだもの。もうこれ以上ないってくらい、余さず開発され尽くしてしまったに決まってるわ。まだ若いのに──!」
「大声でアホなこと言うんじゃねぇ──!」
 何でもやるというから、家事全般を任せてみたのは事実だった。
 そして仕事が──衛律医科大学の看護助手業務──決まった後も、当然のように勝司は高弘の部屋に居座り続けている。性処理をさせた──というのも間違ってはいないが、正しくもないとも思う。

 当初、あまりに女気ない生活を送る高弘に勝司は、彼女はいないのかと訊いてきた。高弘はゲイで、タチだ。少なくとも女と寝たことはない。高校時代から性的対象は男だけで、しかも長続きしないから自分は特定の恋人とは付き合っていけないタイプの人種なのだと最近では悟り済ましていた。
 だからハッキリ告げた。襲われたくなかったら、早いうちに仕事を見つけて出て行くんだな、と。
 その晩には勝司にキスを求められ、高弘の理性は限界を超えた。ただしごきあうだけという子供じみた行為にも、高弘は我を忘れた。おそらく勝司がそうであるように、高弘もまた、いつしか本気になっていたのだろう。
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