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 王立学園、入学式の日。

 フェリシアはずっと、この日が来るのが恐ろしかった。でも、それでいて、早く来てほしいというちぐはぐな思いも抱えていた。

 あの乙女ゲームは、王立学園の入学式の日からはじまる。つまり今日、はじめて、ヒロインと対面することになる。

 いっそ憎らしいほどに綺麗で、澄み渡った青空。降り注ぐ、眩しい朝の光の中。ハウエルズ公爵の屋敷まで、わざわざ迎えに来てくれたクライブ、イアンと共に馬車に揺られるフェリシアの鼓動が、徐々に早まっていく。

「……フェリシア?」

「は、はい」

 クライブが「緊張しているの?」と訊ねてきた。少し、首を傾げながら。

 それはそうだろう。学園に向かうだけで、これほど緊張する意味は、普通ならない。

 ──普通、なら。

 今日から、世界が変わる。いまは優しいクライブも、イアンも。少しずつヒロインに惹かれていき、それに比例するように、フェリシアを嫌悪していく。

 こんな風に気遣われることも、もう、ないのかもしれない。

 馬車が緩やかに止まる。気付けばもう、王立学園の前だった。

 馭者によって扉が開かれ、イアンが最初に馬車をおりる。続いてクライブがおり、すっと手を差し出してきた。

「わたしたちがいるから、なにも怖くないよ」

 フェリシアの胸が、締め付けられたようにぎゅっと苦しくなる。

 ──なにより怖いのは、あなた。

 情けないことに、もう、そんな存在になってしまっていた。

「行こう」

 覚悟を決め、クライブの手を取る。
 
 大丈夫。そのために、今日まで必死に、勉学と剣術に励んできたんだもの。



 学園の敷地内に入る。とたんに、ざわっと空気が揺れた。

 クライブと──おそらくはイアンの、二人の姿を見つけた女子生徒たちが、頬を染め、けれどそこは流石の貴族令嬢たちとでもいおうか。大きな声で騒ぐことはなく、遠目から、並んで歩く三人に注目する。


 ──と、そこに。

「まあ、見て。あの子の制服だけ、みなと違うわ」

 黄色い声に混じる声に、フェリシアの耳がぴくりと動いた。

「ああ、三年ぶりの特待生でしょ?」

「特待生?」

「特待生制度で入った、特待生ってことよ。入学金、授業料が免除されるけど、その枠は毎年一人なのね。だから、平民がこぞって受けるらしいわ。すごーく優秀でないと、認められないみたいだけど」

「だから三年ぶり? じゃあ、とても優秀なのね」

「でもね。貴族の令息、令嬢ばかりだから、世界が違うことに耐えられず、辞める人もいるらしいわ」

「よく知ってるわね」

「私のお父様、学園の教師ですもの」

 知らず足を止め、必死に令嬢たちの会話に意識を集中するフェリシア。クライブ、イアンが同じように足を止め、俯くフェリシアを不思議そうに見詰める。

(……みんなと違う制服。特待生。間違いない)

 そんな令嬢たちの会話を、他にも聞いていた生徒がいたのだろう。

「あの子、平民らしいぜ」

「へえ、言われてみれば確かに。歩き方に、品がないかも」

 などの、揶揄する声がちらほら。

(……入学式の日。ヒロインはまわりの貴族の子たちから馬鹿にされ、それを、クライブ殿下が庇う。それが、物語のはじまり)

 どくん。どくん。
 鼓動が早鐘を打つ。ついにはじまる。逃げられない。

(ヒロインは……ヒロインは、どこに)

 顔を上げる。クライブたち以外に注目を集める視線を辿る。辿る。

 ──いた。

 こちらに背を向けているので、顔は見えない。腰まで伸びた黒髪が、風に揺れている。

(ヒロインは黒髪、だったっけ……?)

 覚えがない。そういえば、名も。そこでようやく、名前は自分でつけたこと。そして、ヒロインのギャラデザがなかったことに気付いた。

 ──え?

 ヒロインが。黒髪の女性が、囲う視線に気付いたように、くるりと制服をひるがえし、こちらを振り返った。


 その顔は。

「……佳奈?」

 呟いた声は、驚くほど掠れていた。


 凍り付いたように固まる。足が地面に張り付き、動けなくなる。

「……な、んで」

 驚愕の声はフェリシアではなく、なんとクライブのものだった。

 クライブの緑の瞳が、真っ直ぐに、ヒロイン──佳奈に注がれる。

「……い、いや」

 無意識に吐露し、クライブに手を伸ばす。クライブはその手をするりとかわし、佳奈に向かって走っていった。

 なんなんだろう、これは。どうして、ヒロインの顔が、佳奈そっくりなのか。

 あれは、佳奈自身?
 それとも、ただ似ているだけ?

(……また、佳奈に奪われる)

 ヒロインに、なにもかも奪われる。その覚悟はしていた。でも、よりによって佳奈に──なんて。

 フェリシアは伸ばした手を引っ込め、だらんと下げた。

「……イアン。わたしは先に行くと、クライブ殿下にお伝えください」

 もっとも。わたしのことなど、もはや頭にはないかもしれませんが。

 胸中で続け、ゆっくり歩き出した。そんなフェリシアの腕を、イアンが躊躇いがちに掴んできた。らしからぬ行動に「……どうしました?」と、僅かに目を丸くするフェリシア。

 イアンが、いえ、とさっと目を逸らし、手を離した。フェリシアが苦笑する。

「クライブ殿下はお優しいから、好奇の目にさらされているあの女性を助けに行っただけ。そうでしょう?」

 それがフェリシアの本音でないことぐらい、イアンは察するだろう。でも、そうですね、とイアンは肯定するはずだ。クライブのために。

 そう、思っていたのだが──。

「……いいえ。実は私も、驚いています。あの女性は、あの方に、とてもよく似ていたから」

「あの、方?」

「はい。クライブ殿下の、一人目の、婚約者だったお方です」

 まったくの初耳だったフェリシアが、言葉に詰まる。少し迷う素振りを見せながらも、イアンは続けた。

「リサ様は、陛下が決めたクライブ殿下の婚約者です。ですが、リサ様はクライブ殿下が十歳のときに亡くなられています」

「……そんな話、はじめて」

「ええ。公にはされていませんでしたから……リサ様は八歳のときに発症した病が原因で、大人にはなれないと医師に告げられていましたので」

 イアンが辛そうに顔を歪める。

「陛下は、別の婚約者をとクライブ殿下に申し出ましたが、リサ様が亡くなると決まったわけではないと。リサ様と想い合っていたクライブ殿下は、頑としてその提案を受け入れませんでした。リサ様亡き後も、その傷が癒えるのに、数年を要しました」

「……そう、でしたか」

 いろんなことが、同時に納得できた。どうして第一王子という立場の人が、十二歳になってから婚約者を探しはじめたのか。

 なにより。どうして会ったばかりのヒロインに、あれほど惹かれ、愛するようになったのかも。

(……思い出した。なんで忘れていたんだろう。はじめは、亡き婚約者に似ているからって、それでクライブ殿下は)

「……あ」

 声が、小さく漏れ出た。もう一つ、思い出してしまったからだ。

(……イアンも、クライブ殿下の一人目の婚約者を、密かに想っていたはず)

 だからイアンも、ヒロインを──。

(でもどうして、佳奈なの……?)

 駄目だ。もう、ぐちゃぐちゃだ。よりによってヒロインが。クライブやイアンから愛されるヒロインが、誰より嫌いな幼なじみの顔をしているなんて、絶望でしかなかった。

 またあの日々が繰り返される。好きな人が佳奈に奪われていくのを、ただ見ているしかない人生。

(……そうだ。彩香のときも、わたしが悪いってよくまわりから非難されてたっけ。なんだ。わたし、役回りは一緒なんだわ)

 ふっ。

 乾いた笑いが一つ、漏れ出た。


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