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王都にある王立学園を卒業してからすぐに、婚約者であるジャスパーと結婚してから半年経った、二月の寒い夜。
マリーは王都から馬車で三日ほどかかるところへ、友人と二泊三日の旅行に行くとジャスパーに告げた。けれどそれは嘘で、マリーは次の日、こっそりと屋敷に戻った。気配を消し、二階にある寝室に向かう。寝台には、裸で抱き合う夫と知らない女の姿があった。
寝室の扉の隙間からそれを見たマリーは、膝から崩れ落ちた。信じられない気持ちと、やっぱりという気持ちがない交ぜになる。静かに涙を流していると、目の前の扉が開いた。マリーが絶望の眼差しを夫に向ける。ジャスパーは真っ青な顔をしていた。
何か。何か言い訳をして。
胸中で叫ぶマリーの頭に、無言で花瓶が振り下ろされた。
目が覚めると、マリーは馬車の中にいた。手首は縄で縛られている。上半身を起こそうとしたが、頭がズキッと痛み、それは叶わなかった。身体を横たえたまま、ふと目線を上に向ける。正面に座るジャスパーと目が合い、マリーはぞっとした。いつもの優しい双眸は見る陰もなく。それは恐ろしいほどに吊り上がっていた。
「──お前のこと、本当はずっと嫌いだったよ」
「……ジャスパー?」
「いっつもいっつも。金魚の糞みたいにおれの後をついてきてさ。鬱陶しいったらなかった。お前が公爵令嬢じゃなかったら、おれが嫡男だったら、絶対に相手になんかしなかった」
マリーの目が絶望に見開かれる。ジャスパーとは小さな頃からの付き合いだったが、いつだってジャスパーは優しかった。なのに。
「楽な暮らしができるから、仕方なく優しくしてやってただけなのに。余計なことしやがって。おれの不貞行為をお前が親に言い付けでもしたら、どうなるか。ったく」
続けて吐かれた科白に、マリーは愕然とした。
「こうなった以上、殺すしかないじゃないか。面倒かけさせやがって」
ほとんど同時に、馬車が止まった。扉が開かれる。そこに立っていたのは、見たことのない屈強な男が二人。
「旦那。付きましたよ」
「ああ。まわりには誰もいないだろうな」
「もちろん。こんな山奥の崖があるところ、しかも深夜にくる奴なんてそうそういませんよ」
そうだな。
ジャスパーが笑う。マリーは上下の歯がガチガチと音がするほど小刻みに震えていた。寒いからではない。むろん、恐怖からだ。
「よし。じゃあ、こいつを崖に放り投げろ」
ジャスパーがマリーを指差す。男二人は、クックッと笑った。
「ひでえお人だな、あんた」
「うるさい。金は払ってるんだ。黙って仕事しろ」
「へーへー」
マリーは男の一人に、横抱きにされた。逃げなければ。頭ではわかっているのに、身体が動いてくれない。言葉も出せない。
「父上たちには、旅行先で行方不明になったとでも伝えておくよ──じゃあな」
ジャスパーが醜く歪んだ顔で笑い、マリーに手をふった。それが合図となり、マリーは男の手によって、崖の方へと投げられた。
底の見えない崖。暗闇へと、マリーの身体が吸い込まれていく。マリーはとめどない涙を流しながら、気を失う瞬間、首飾りを握った。
今は亡き、母親からもらったものだ。
『これはね。我が家に代々伝わるお守りなのよ。いつかきっと、あなたを守ってくれるわ』
最後に脳裏を過ったのは、母親の笑顔だった。
マリーは王都から馬車で三日ほどかかるところへ、友人と二泊三日の旅行に行くとジャスパーに告げた。けれどそれは嘘で、マリーは次の日、こっそりと屋敷に戻った。気配を消し、二階にある寝室に向かう。寝台には、裸で抱き合う夫と知らない女の姿があった。
寝室の扉の隙間からそれを見たマリーは、膝から崩れ落ちた。信じられない気持ちと、やっぱりという気持ちがない交ぜになる。静かに涙を流していると、目の前の扉が開いた。マリーが絶望の眼差しを夫に向ける。ジャスパーは真っ青な顔をしていた。
何か。何か言い訳をして。
胸中で叫ぶマリーの頭に、無言で花瓶が振り下ろされた。
目が覚めると、マリーは馬車の中にいた。手首は縄で縛られている。上半身を起こそうとしたが、頭がズキッと痛み、それは叶わなかった。身体を横たえたまま、ふと目線を上に向ける。正面に座るジャスパーと目が合い、マリーはぞっとした。いつもの優しい双眸は見る陰もなく。それは恐ろしいほどに吊り上がっていた。
「──お前のこと、本当はずっと嫌いだったよ」
「……ジャスパー?」
「いっつもいっつも。金魚の糞みたいにおれの後をついてきてさ。鬱陶しいったらなかった。お前が公爵令嬢じゃなかったら、おれが嫡男だったら、絶対に相手になんかしなかった」
マリーの目が絶望に見開かれる。ジャスパーとは小さな頃からの付き合いだったが、いつだってジャスパーは優しかった。なのに。
「楽な暮らしができるから、仕方なく優しくしてやってただけなのに。余計なことしやがって。おれの不貞行為をお前が親に言い付けでもしたら、どうなるか。ったく」
続けて吐かれた科白に、マリーは愕然とした。
「こうなった以上、殺すしかないじゃないか。面倒かけさせやがって」
ほとんど同時に、馬車が止まった。扉が開かれる。そこに立っていたのは、見たことのない屈強な男が二人。
「旦那。付きましたよ」
「ああ。まわりには誰もいないだろうな」
「もちろん。こんな山奥の崖があるところ、しかも深夜にくる奴なんてそうそういませんよ」
そうだな。
ジャスパーが笑う。マリーは上下の歯がガチガチと音がするほど小刻みに震えていた。寒いからではない。むろん、恐怖からだ。
「よし。じゃあ、こいつを崖に放り投げろ」
ジャスパーがマリーを指差す。男二人は、クックッと笑った。
「ひでえお人だな、あんた」
「うるさい。金は払ってるんだ。黙って仕事しろ」
「へーへー」
マリーは男の一人に、横抱きにされた。逃げなければ。頭ではわかっているのに、身体が動いてくれない。言葉も出せない。
「父上たちには、旅行先で行方不明になったとでも伝えておくよ──じゃあな」
ジャスパーが醜く歪んだ顔で笑い、マリーに手をふった。それが合図となり、マリーは男の手によって、崖の方へと投げられた。
底の見えない崖。暗闇へと、マリーの身体が吸い込まれていく。マリーはとめどない涙を流しながら、気を失う瞬間、首飾りを握った。
今は亡き、母親からもらったものだ。
『これはね。我が家に代々伝わるお守りなのよ。いつかきっと、あなたを守ってくれるわ』
最後に脳裏を過ったのは、母親の笑顔だった。
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