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  ハワードは平日、馬車でファネル伯爵の屋敷へと赴く。ファネル伯爵から、領主としての仕事を学ぶためだ。

 朝、出かける時間は常に同じだが、帰宅する時間はあまりに幅広い。今日は仕事が忙しかったからと、深夜に帰宅することすらあった。父であるファネル伯爵に訊ねればすぐにばれる嘘。

 けれど、リネットがそれをしないという確信があるからか。ハワードは毎回、同じ言い訳をする。朝とは違う、甘い匂いをまとわせて。

 もはや屋敷内で、その言い訳を信じる者はいなかった。ハワードがそれに気付いているのかいないのかはわからなかったが、とにかく、外から帰宅したハワードはいつも、上機嫌だった。

 リネットが妊娠する前、休日にはたいてい、二人でデートをしていた。でも、もう何カ月も二人で出掛けていない。きみの身体が心配だからと言い、ハワードは一人、休日の街に出かける。

 寂しくて寂しくて。リネットはたまらなかった。でも、わがままを言えば嫌われてしまう。なによりまた、お腹のことを言われるのが怖くて、我慢した。

(子どもが生まれたら、きっと元通り。ううん。きっとそれ以上に、わたしたちを愛してくれるはず)

「ね? あなたもそう思うわよね」

 お腹に一人、語りかけた。




 出産日より少しだけ早く、ようやく生まれてきてくれた男の子。両親は、よくやった、頑張ったわね、と涙を流し、喜んでくれた。ハワードも、お疲れさま、と顔をくしゃくしゃにして喜んでくれていたのを見て、リネットは泣いてしまった。

 ──ああ、ほら。信じて良かった。

 もういい。戻ってきてくれるなら。一番に愛してくれているのなら。

 知っていた。見ないふりをしていただけ。でも、許すから。

 これからは、傍にいて。




「──なんか、こうして改めて見ると猿みたいだし、不細工だなあ。本当に、ぼくときみの子?」

 ようやく子どもとハワードの、三人になれた子ども部屋で、ハワードがすやすやと眠る我が子──ルシアンをじっと見詰めながらぼやいた。

 リネットは、驚愕の双眸をハワードに向けた。それをどう受け取ったのか、ハワードはケラケラと笑い出した。

「違う、違う。きみの浮気を疑ってるわけじゃないよ。リネットは、ぼくが大好きだもんね。ただ純粋に、そう思っただけ」

「……あ、ああ。生まれたばかりの赤ちゃんに、そう感想を抱く人もいるみたい、よ。もう少し経てば、とても可愛く思えてくるはずだから」

 なんとか笑みを浮かべ、言葉を絞り出す。

「そうなんだね。楽しみだなあ」

「……そうね」

「元気ないよ? 大丈夫?」

「……うん」

「まあ、仕方ないか。出産してから数日しか経ってないし。それにしても、髪もバサバサだし、肌もカサカサだよ? なんだか、一気に老け込んだみたいだ」

「……え、あ」

「気をつけてね。それじゃあ、ぼくはもう休ませてもらうから」

 リネットは慌てて、時計を見た。

「ま、まだ八時……」

「眠いんだ。きみと違って、ぼくは朝から仕事があるし」
 
「……わ、かった。おやすみなさい」

「うん、おやすみ。明日も帰りは遅くなるかもしれないから、先に寝てていいよ」

「……え?」

 目を丸くするリネットに、ハワードが苦笑する。

「なに、その顔。仕方ないじゃないか。仕事なんだから」 

 ──ハワードには基本、午後五時には帰るように指示している。

 いつだったか。ファネル伯爵が事もなげにそう告げたことがある。

 ファネル伯爵の屋敷から、リネットたちが住まう屋敷まで、馬車で十分ほど。普通なら、午後五時過ぎには、ハワードは帰宅できる──ことを、リネットは随分前から知っていた。

 子どもが生まれるまでと必死に耐えていた想いが、溢れそうになる。

「……ハワードっ」

「ん? なに?」

 優しく甘い口調に、リネットの決意が折れる。嫌われるのが怖くて、なんでもない、とまた、笑ってしまった。

 見送り、ぱたんと閉まる扉。リネットは一人、我が子の元に戻る。

「……こんなに可愛いのに」

 伸ばした人差し指を、ルシアンが弱々しく掴んできた。リネットの心が、表情が、ぱあっと明るくなる。

「……あ、ああああ」

 悶え、身体を震わす。

 ──天使?

 愛おし過ぎて、リネットは心で静かに呟いてしまっていた。




 はたと目覚めれば、午前九時を過ぎていた。嘘。リネットが驚く。

 どんなにつわりが酷くても、病気でも、父の屋敷に向かうハワードを見送ることだけは、一度もかかしたことはなかった。なのにその時間からもう、一時間以上は経っていた。

 屋敷には、乳母がいる。赤ちゃんがいるからと、リネットが一晩中見ている必要はないのだが、どうしても離れがたく。ハワードが部屋から出て行った後にやってきた乳母と共に、リネットは自ら授乳したり、寝かしつけたりしていたのだが、いつの間にか眠っていて。

 気付けば、朝。

「リネット様、おはようございます」

「……お、はよう。ハワードは?」

「出掛けられましたよ」

「……そう」

 乳母と、眠る我が子を起こさないように小声で話す。

 コンコン。コンコン。
 ノックの後に入ってきたのは、マドリンだった。

「お嬢様、起きられたのですね」

「……マドリン。どうして起こしてくれなかったの? おかげで、ハワードを見送ることができなかったわ」

「とても気持ちよさうに眠っていらしたので、起こすのはしのびなく。それにハワード様も、特に気にされた様子もなかったので」

「…………」

 嘘よ。とは言えなかった。身体が不調でも無理して見送るリネットに、ハワードは「そんな顔色で見送られても」と、若干引き気味だったこともあったから。

 沈み込みそうになったが、ふと視界にルシアンが入ったことで、考えが変わった。

(疲れた顔で見送っても、ハワードは嬉しくなかっただろうし、かえって良かったかも)

 頬を緩ませるリネットに、マドリンが目を丸くする。

「怒らないのですか?」

「誰を?」

「私を。どうして起こさなかったのと」

「さっき言ったわ」

「てっきり、もっと泣き叫ぶものとばかり」

「……わたしのイメージ、そんななの?」

 今さら、とばかりにマドリンは肩を竦めた。

「他のことはともかく、ハワード様のことになると、周りのことは一切耳にも目にも入らないではないですか」

「……そう、だったかしら」

 ふぎゃあ。泣き出したルシアンに、駆け寄る乳母。それをやんわり止め「わたしが」と、リネットはルシアンを抱き上げた。愛おしそうに見詰め、軽く左右に揺れるリネット。

「可愛いですねえ」

 乳母がほんわか微笑むと、リネットは、勢いよく顔を上げた。

「本当?」

「え?」

「わたしの子、可愛いと思う?」

 乳母はマドリンと顔を見合わせてから、どうしてそんなことを聞くのかという風に、もちろんですよ、と首を捻った。

「マドリンも?」

「? 当たり前じゃないですか。そもそも畏れ多いことではありますが、私、お嬢様のことは妹のように想っているんです。そんなお嬢様の子どもですよ? 可愛く思わないわけないじゃないですか」

「…………っ」

 胸が詰まり、リネットはボロボロと泣き出した。驚くマドリンと乳母に、大丈夫、となんとか伝える。

『──なんか、こうして改めて見ると猿みたいだし、不細工だなあ。本当に、ぼくときみの子?』
 
 なんだろう。この気持ちは。

 今までなにを言われても、わたしが悪いんだと、彼は嘘がつけない純粋無垢だから仕方ないのだと、諦めにも似たかたちで思うことしかできなかったのに。

 ──ねえ、ハワード。ルシアンは他でもない、あなたのわたしの子なのよ?

 なのに、猿? 不細工?

 ピシッ。
 ハワードへの絶対的な愛情に、僅かに傷が入る音がした。
 
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