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貴族御用達の、王都にある喫茶店。出迎える見慣れたスタッフに、ベイジルが「クラリッサはもう来ているかい?」と訊ねると、男性スタッフは、はい、と優雅に笑った。
「まだ約束の時間には早いのに。本当にクラリッサは、ぼくのことが好きなようだ」
そうですね。答え、男性スタッフはこちらです、と二階の個室にベイジルを案内する。
別の男性スタッフによって開かれた扉をくぐると、椅子に座るクラリッサが視界に入った。
「待たせてしまったかな」
「いいえ。わたしが早く来すぎてしまっただけですので」
「ぼくに一刻も早く会いたくてかい? しかし、待ち合わせが夕刻とは珍しいね」
「少し用がありまして。それより、座ってくださいな」
「うん」
ベイジルは席に着くと、正面に座るクラリッサをじっと見た。
「なんだか、いつもより機嫌がいいみたいだ」
クラリッサは、僅かに目を丸くした。
「わかりますか?」
「わかるよ。大事な婚約者のことだもの」
「そうですか」
照れているな。思いながらも、ベイジルは「まだなにも注文してないの?」と、わざと話題を変えた。クラリッサは揶揄うと、すぐに不機嫌になってしまうから。
「はい」
「ぼくを待っていてくれてたのか。先に注文してくれてもよかったのに。さて、なんにする? 少し早いけど、夕食もここですまそうか」
「いえ、飲み物だけで」
「どこか、おすすめのレストランでもあるのかい? なら、待ち合わせ場所はここじゃなくてもよかったんじゃ」
「個室でゆっくりと、お話がしたかったので」
「? それなら、互いの屋敷でもできるよ? それこそ二人きりになりたかったのなら、ここよりも、人目を気にする必要もないし。ぼくたちの親は、王都より離れた領地にいるから、屋敷にいるのは使用人たちだけだしね」
ウインクするベイジルに、クラリッサが軽く頬を緩ませ、男性スタッフに「紅茶を」と告げた。いつもそうやって誤魔化すんだからと笑んでから、ベイジルは「ぼくはコーヒーを」と、続けた。
かしこまりました。腰を折り、個室から去って行く男性スタッフを目で追ってから、ベイジルはクラリッサに向き直った。
「──お茶をしたあとは、どうする? もう間もなく、日が沈んでしまうけど」
「先ほども申し上げましたが、大事な話がしたくて」
「大事な話? なんだろう……ぼくの誕生日は、まだ先だし」
顎に手を当てるベイジル。閉じられた扉が再び開いたのは、そのときだった。
「──ベイジル様!」
響いたのは、若い女性のもの。視線の先にいる人物を認識したベイジルは、目を見開いた。
「……え?」
なんでここに。心の疑問に、まるで聞こえていたかのように答えたのは、クラリッサだった。
「わたしがお呼びしました。ね、ネリーさん」
穏やかに名を呼ばれたネリーは、はい、と元気よく答えた。男性スタッフが、ベイジルの横の椅子をすっと引く。ネリーと呼ばれた女性が、当然のようにそこに座る。
一連の流れを、ぽかんと見詰めるベイジル。
「ネリーさん。わたしたち、とりあえず先に飲み物だけ頼みましたの。ネリーさんはどうします?」
「んー。少しお腹が空いているので、あたしはケーキも頼みます!」
「そうですか」
鼻歌でも歌いだしそうな雰囲気で男性スタッフに注文するネリー。ベイジルはまだ、固まっている。男性スタッフが下がり、部屋に三人きりになったところで、ネリーはベイジルに、にっこりと笑いかけてきた。
「ベイジル様。あたし、クラリッサ様のこと、誤解してました」
「…………へ?」
「ベイジル様から聞いてた話だと、クラリッサ様はベイジル様が大好きだから、絶対に、なにがなんでも別れてくれない、分からず屋だと思ってたんです。でも、違ってたんですね」
ネリーはベイジルの腕に絡みつくと、へへ、と頬を赤く染めた。
「あたしたちがどれだけ愛し合っているか、クラリッサ様はちゃんと聞いてくれて。その上で、納得してくれたんです。愛し合う者たちが結ばれるべきだって。そのためたら、潔く身を引くって」
「…………っ」
顔色をさっと青くしたベイジルは、クラリッサに勢いよく視線を向けた。クラリッサは、穏やかに微笑んでいた。
「わたしたちは所詮、親同士が決めた婚約関係ですもの。愛し合っていたわけではありません。あなたに愛する人ができたというなら、哀しいですが、わたしは潔く、身を引くことにします」
「いや、待ってくれないか。確かにこの令嬢に言い寄られて、何度か話はしたが、それだけだ」
ネリーが、こてんと首を傾げる。
「どうしたのですか、ベイジル様。あたしたち、何度も愛を囁き合いましたよね。親が決めたから仕方なくクラリッサ様と付き合っているだけで、本当に愛しているのはあたしだけだと、これまで三度、身体まで重ね合った仲ではないですか」
ベイジルはネリーの手を振り払い、ギロッと睨み付けた。
「それはきみの勝手な妄想だ。きみがあまりにしつこいから、仕方なく会話の相手になってあげていただけなのに、そのような嘘をつくなんて思わなかったよ。精神科にかかった方がいいんじゃないかい?」
あまりの言われように、ネリーはなにを言われたのかすぐには理解できなかったようで、目を大きく見開き、口を半開きにしていた。そんなネリーに構うことなく、ベイジルはクラリッサに向き直った。
「ぼくが魅力的過ぎるせいで、きみを不安にさせてしまったようだ。心から謝罪するよ。でも安心して。すべては彼女の妄想で、ぼくが愛しているのは、きみだけだ」
数秒の沈黙の後、クラリッサは「あなたはとても優しいですね」と、薄く笑った。
「まだ約束の時間には早いのに。本当にクラリッサは、ぼくのことが好きなようだ」
そうですね。答え、男性スタッフはこちらです、と二階の個室にベイジルを案内する。
別の男性スタッフによって開かれた扉をくぐると、椅子に座るクラリッサが視界に入った。
「待たせてしまったかな」
「いいえ。わたしが早く来すぎてしまっただけですので」
「ぼくに一刻も早く会いたくてかい? しかし、待ち合わせが夕刻とは珍しいね」
「少し用がありまして。それより、座ってくださいな」
「うん」
ベイジルは席に着くと、正面に座るクラリッサをじっと見た。
「なんだか、いつもより機嫌がいいみたいだ」
クラリッサは、僅かに目を丸くした。
「わかりますか?」
「わかるよ。大事な婚約者のことだもの」
「そうですか」
照れているな。思いながらも、ベイジルは「まだなにも注文してないの?」と、わざと話題を変えた。クラリッサは揶揄うと、すぐに不機嫌になってしまうから。
「はい」
「ぼくを待っていてくれてたのか。先に注文してくれてもよかったのに。さて、なんにする? 少し早いけど、夕食もここですまそうか」
「いえ、飲み物だけで」
「どこか、おすすめのレストランでもあるのかい? なら、待ち合わせ場所はここじゃなくてもよかったんじゃ」
「個室でゆっくりと、お話がしたかったので」
「? それなら、互いの屋敷でもできるよ? それこそ二人きりになりたかったのなら、ここよりも、人目を気にする必要もないし。ぼくたちの親は、王都より離れた領地にいるから、屋敷にいるのは使用人たちだけだしね」
ウインクするベイジルに、クラリッサが軽く頬を緩ませ、男性スタッフに「紅茶を」と告げた。いつもそうやって誤魔化すんだからと笑んでから、ベイジルは「ぼくはコーヒーを」と、続けた。
かしこまりました。腰を折り、個室から去って行く男性スタッフを目で追ってから、ベイジルはクラリッサに向き直った。
「──お茶をしたあとは、どうする? もう間もなく、日が沈んでしまうけど」
「先ほども申し上げましたが、大事な話がしたくて」
「大事な話? なんだろう……ぼくの誕生日は、まだ先だし」
顎に手を当てるベイジル。閉じられた扉が再び開いたのは、そのときだった。
「──ベイジル様!」
響いたのは、若い女性のもの。視線の先にいる人物を認識したベイジルは、目を見開いた。
「……え?」
なんでここに。心の疑問に、まるで聞こえていたかのように答えたのは、クラリッサだった。
「わたしがお呼びしました。ね、ネリーさん」
穏やかに名を呼ばれたネリーは、はい、と元気よく答えた。男性スタッフが、ベイジルの横の椅子をすっと引く。ネリーと呼ばれた女性が、当然のようにそこに座る。
一連の流れを、ぽかんと見詰めるベイジル。
「ネリーさん。わたしたち、とりあえず先に飲み物だけ頼みましたの。ネリーさんはどうします?」
「んー。少しお腹が空いているので、あたしはケーキも頼みます!」
「そうですか」
鼻歌でも歌いだしそうな雰囲気で男性スタッフに注文するネリー。ベイジルはまだ、固まっている。男性スタッフが下がり、部屋に三人きりになったところで、ネリーはベイジルに、にっこりと笑いかけてきた。
「ベイジル様。あたし、クラリッサ様のこと、誤解してました」
「…………へ?」
「ベイジル様から聞いてた話だと、クラリッサ様はベイジル様が大好きだから、絶対に、なにがなんでも別れてくれない、分からず屋だと思ってたんです。でも、違ってたんですね」
ネリーはベイジルの腕に絡みつくと、へへ、と頬を赤く染めた。
「あたしたちがどれだけ愛し合っているか、クラリッサ様はちゃんと聞いてくれて。その上で、納得してくれたんです。愛し合う者たちが結ばれるべきだって。そのためたら、潔く身を引くって」
「…………っ」
顔色をさっと青くしたベイジルは、クラリッサに勢いよく視線を向けた。クラリッサは、穏やかに微笑んでいた。
「わたしたちは所詮、親同士が決めた婚約関係ですもの。愛し合っていたわけではありません。あなたに愛する人ができたというなら、哀しいですが、わたしは潔く、身を引くことにします」
「いや、待ってくれないか。確かにこの令嬢に言い寄られて、何度か話はしたが、それだけだ」
ネリーが、こてんと首を傾げる。
「どうしたのですか、ベイジル様。あたしたち、何度も愛を囁き合いましたよね。親が決めたから仕方なくクラリッサ様と付き合っているだけで、本当に愛しているのはあたしだけだと、これまで三度、身体まで重ね合った仲ではないですか」
ベイジルはネリーの手を振り払い、ギロッと睨み付けた。
「それはきみの勝手な妄想だ。きみがあまりにしつこいから、仕方なく会話の相手になってあげていただけなのに、そのような嘘をつくなんて思わなかったよ。精神科にかかった方がいいんじゃないかい?」
あまりの言われように、ネリーはなにを言われたのかすぐには理解できなかったようで、目を大きく見開き、口を半開きにしていた。そんなネリーに構うことなく、ベイジルはクラリッサに向き直った。
「ぼくが魅力的過ぎるせいで、きみを不安にさせてしまったようだ。心から謝罪するよ。でも安心して。すべては彼女の妄想で、ぼくが愛しているのは、きみだけだ」
数秒の沈黙の後、クラリッサは「あなたはとても優しいですね」と、薄く笑った。
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