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「行ってくるよ」
「い、行ってらっしゃいませ」
玄関ホールにて。見送るエミリアを抱き寄せ、流れるように額に口付けするアシュリー。
「おとうさま、マリアンにもしてください!」
「いいよ」
アシュリーが屈み、マリアンの額に、同じように口付けを落とす。それじゃあ。王宮へ出勤するため、アシュリーは扉の向こうへと姿を消した。
もう何度か繰り返したはずのこの一連の流れに、エミリアだけがいまだに慣れておらず。
「おかあさま、かお、まっかー」
マリアンに揶揄われ、エミリアが、うう、と顔を両手で覆う。
──想像と違うし、前の結婚生活ともまるで違う。
アシュリーは、恋愛に積極的なタイプではないと本人も言っていたし、付き合ってからも、その印象はあまり変わらなかった。
なのに。結婚して、一緒に暮らしはじめてから、アシュリーの距離がやたら近くなった。外出時は必ず手を繋ぐし、抱き締められたり口付けされたりは、ほとんど毎日のこと。とにかくスキンシップが多く、そのときのエミリアの心臓は、常に早鐘を打っている状態だった。
「おとうさま、いつもえがお。マリアンはとてもうれしいです」
アシュリーが大好きなマリアン。結婚したとたんに嫌われることも覚悟していたエミリアは、変わらず慕ってくれる娘を、心から愛おしく想っていた。
マリアンの頭を撫で「あなたが笑顔で、わたしも嬉しいです」と、エミリアが頬を緩める。
「これだけは忘れないでください。お父様もわたしも、一番大切なのは、マリアンですからね」
えへへ。
マリアンが口元を手で覆い、照れくさそうに笑う。
「マリアンお嬢様。もうすぐ家庭教師の方がいらっしゃるので、お部屋で準備をしましょうね」
すっと口を挟んできたのは、この屋敷で住み込みで働く、二十六歳のメイドのノーラだった。
「さあ、行きましょう」
手を伸ばすノーラと、エミリアを交互に見詰めるマリアン。一人で置いていかれるかたちになってしまうことを気遣ってくれているのだろうと考えたエミリアは、そっとマリアンの背を押した。
「頑張ってお勉強してきてください。昼食は、一緒に食べましょうね」
「はい、おかあさま」
結婚したその日から、マリアンはエミリアのことを、おかあさまと呼んでくれた。それがどれほど嬉しかったか。
微笑ましくマリアンを見詰めていると、刺さるような視線を感じたエミリアは、ふっと顔を上げた。
向けられる冷たい双眸に、驚きはしなかった。彼女──ノーラが自分を嫌って、どころか憎んでいるのは、この屋敷に来てから割と早い段階で知らされたからだ。
いつもニコニコとしているノーラだが、アシュリーとマリアンがいないときのエミリアへの接し方は、まるで別人のように変化する。それをはじめて目の当たりにしたのは、エミリアが嫁いできて、数日後のこと。
アシュリーは仕事。マリアンは家庭教師と部屋で勉強中。このときを待っていたかのように、二階の自室で刺繍をしていたエミリアの元に、彼女は静かにやってきた。
『私はもう何年もアシュリー様にお仕えしています。あの方のことも、マリアンお嬢様のことも、あなたなんかよりずっと知っていますし、愛の深さも、あなたなんかとは比べものになりません。シンディー様のお気に入りだかなんだか知りませんが、あまり調子にのらないでくださいね──もしかして、アシュリー様に告げ口しようとしてます? いいですよ。どちらがお二方にとって必要な存在か、思い知るだけかと存じますので』
忠告したいことがありますと告げてから、彼女は淡々と、一気に捲し立ててきた。呆気にとられるエミリアに一礼し、彼女はそのまま去って行った。
アシュリーから紹介されたときとはまるで別人の彼女の態度に、エミリアは最初、夢でも見たのかと錯覚したほどだった。
けれど、同じような状況になるたび、彼女はエミリアの部屋を訪れる。訪れては、なにかしら毒を吐いていく。
ただ、彼女は暴言を吐くだけで、暴力をふるったりもしなければ、なにか他の嫌がらせをしてくることもない。
──それに、気付いてしまったのだ。
彼女が、アシュリーを見詰めるその熱に。
(……そりゃあ、わたしのことが憎くて当然よね)
誰からも祝福されるのはとても幸福で嬉しいことだけれど、毒を吐かれることに、少しの安堵も覚えていた。
あまりに順風満帆なこの状況は、かえってエミリアを不安にさせていたから。
それに、どちらが二人に──アシュリーとマリアンにとって必要な存在か。その問いに、はっきりとわたしですなんて言えるわけもなく。
長年仕えてきた。見守ってきた。だからこそ、エミリアが知らない絆があるのだろう。選ばれるなんて、思ってない。捨てられるとしたら、わたし。でも、捨てられたくない。ずっと二人といたい。
掴んだ幸せを、手放したくなかった。
彼女の暴言を受け流すことなどなんでもなかったし、こうしたいくつもの理由から、エミリアは彼女のことを、アシュリーどころか、誰にも言わなかった。
エミリアはなにもしてこない。告げ口もしない。ノーラはそれがわかって、安心して暴言を吐き続けた。
なにもしないは、相手を増長させる。それはアンガスで学んでいたはずなのに、エミリアはそれを忘れていた。
忘れていたことにより。
この後、ちょっとした事件が起こることになる。
「い、行ってらっしゃいませ」
玄関ホールにて。見送るエミリアを抱き寄せ、流れるように額に口付けするアシュリー。
「おとうさま、マリアンにもしてください!」
「いいよ」
アシュリーが屈み、マリアンの額に、同じように口付けを落とす。それじゃあ。王宮へ出勤するため、アシュリーは扉の向こうへと姿を消した。
もう何度か繰り返したはずのこの一連の流れに、エミリアだけがいまだに慣れておらず。
「おかあさま、かお、まっかー」
マリアンに揶揄われ、エミリアが、うう、と顔を両手で覆う。
──想像と違うし、前の結婚生活ともまるで違う。
アシュリーは、恋愛に積極的なタイプではないと本人も言っていたし、付き合ってからも、その印象はあまり変わらなかった。
なのに。結婚して、一緒に暮らしはじめてから、アシュリーの距離がやたら近くなった。外出時は必ず手を繋ぐし、抱き締められたり口付けされたりは、ほとんど毎日のこと。とにかくスキンシップが多く、そのときのエミリアの心臓は、常に早鐘を打っている状態だった。
「おとうさま、いつもえがお。マリアンはとてもうれしいです」
アシュリーが大好きなマリアン。結婚したとたんに嫌われることも覚悟していたエミリアは、変わらず慕ってくれる娘を、心から愛おしく想っていた。
マリアンの頭を撫で「あなたが笑顔で、わたしも嬉しいです」と、エミリアが頬を緩める。
「これだけは忘れないでください。お父様もわたしも、一番大切なのは、マリアンですからね」
えへへ。
マリアンが口元を手で覆い、照れくさそうに笑う。
「マリアンお嬢様。もうすぐ家庭教師の方がいらっしゃるので、お部屋で準備をしましょうね」
すっと口を挟んできたのは、この屋敷で住み込みで働く、二十六歳のメイドのノーラだった。
「さあ、行きましょう」
手を伸ばすノーラと、エミリアを交互に見詰めるマリアン。一人で置いていかれるかたちになってしまうことを気遣ってくれているのだろうと考えたエミリアは、そっとマリアンの背を押した。
「頑張ってお勉強してきてください。昼食は、一緒に食べましょうね」
「はい、おかあさま」
結婚したその日から、マリアンはエミリアのことを、おかあさまと呼んでくれた。それがどれほど嬉しかったか。
微笑ましくマリアンを見詰めていると、刺さるような視線を感じたエミリアは、ふっと顔を上げた。
向けられる冷たい双眸に、驚きはしなかった。彼女──ノーラが自分を嫌って、どころか憎んでいるのは、この屋敷に来てから割と早い段階で知らされたからだ。
いつもニコニコとしているノーラだが、アシュリーとマリアンがいないときのエミリアへの接し方は、まるで別人のように変化する。それをはじめて目の当たりにしたのは、エミリアが嫁いできて、数日後のこと。
アシュリーは仕事。マリアンは家庭教師と部屋で勉強中。このときを待っていたかのように、二階の自室で刺繍をしていたエミリアの元に、彼女は静かにやってきた。
『私はもう何年もアシュリー様にお仕えしています。あの方のことも、マリアンお嬢様のことも、あなたなんかよりずっと知っていますし、愛の深さも、あなたなんかとは比べものになりません。シンディー様のお気に入りだかなんだか知りませんが、あまり調子にのらないでくださいね──もしかして、アシュリー様に告げ口しようとしてます? いいですよ。どちらがお二方にとって必要な存在か、思い知るだけかと存じますので』
忠告したいことがありますと告げてから、彼女は淡々と、一気に捲し立ててきた。呆気にとられるエミリアに一礼し、彼女はそのまま去って行った。
アシュリーから紹介されたときとはまるで別人の彼女の態度に、エミリアは最初、夢でも見たのかと錯覚したほどだった。
けれど、同じような状況になるたび、彼女はエミリアの部屋を訪れる。訪れては、なにかしら毒を吐いていく。
ただ、彼女は暴言を吐くだけで、暴力をふるったりもしなければ、なにか他の嫌がらせをしてくることもない。
──それに、気付いてしまったのだ。
彼女が、アシュリーを見詰めるその熱に。
(……そりゃあ、わたしのことが憎くて当然よね)
誰からも祝福されるのはとても幸福で嬉しいことだけれど、毒を吐かれることに、少しの安堵も覚えていた。
あまりに順風満帆なこの状況は、かえってエミリアを不安にさせていたから。
それに、どちらが二人に──アシュリーとマリアンにとって必要な存在か。その問いに、はっきりとわたしですなんて言えるわけもなく。
長年仕えてきた。見守ってきた。だからこそ、エミリアが知らない絆があるのだろう。選ばれるなんて、思ってない。捨てられるとしたら、わたし。でも、捨てられたくない。ずっと二人といたい。
掴んだ幸せを、手放したくなかった。
彼女の暴言を受け流すことなどなんでもなかったし、こうしたいくつもの理由から、エミリアは彼女のことを、アシュリーどころか、誰にも言わなかった。
エミリアはなにもしてこない。告げ口もしない。ノーラはそれがわかって、安心して暴言を吐き続けた。
なにもしないは、相手を増長させる。それはアンガスで学んでいたはずなのに、エミリアはそれを忘れていた。
忘れていたことにより。
この後、ちょっとした事件が起こることになる。
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