上 下
13 / 35

13

しおりを挟む
 エミリアは、小さなころから刺繍が大好きだった。はじめて親に褒めてもらえたのも刺繍だったし、勉強やダンスなどはあまり好きにはなれなかったが、刺繍だけは別で、唯一の特技でもあった。 

 結婚して、しばらく経ったころ。アンガスの給金だけでは生活に手一杯で、貯金は難しいと感じはじめたエミリアは、アンガスと同期の騎士の妻にすすめられ、刺繍の内職をはじめた。

 仕事をくれていたのは、チェルシーという女性だ。女性一人で切り盛りする、刺繍が施された品物が扱う、小さなお店を経営している。他にも依頼があれば、どんなものでも刺繍を施してくれる店だ。

 もう何年も前に夫を亡くしてしまい、女手一つで、二人の子どもを立派に育て上げた人である。

 子どもは独立し、チェルシーは現在、自宅兼店である家で、一人暮らしをしている。

 最初に、実力はいかほどかと、ハンカチに施した刺繍をチェルシーさんに見てもらったとき「まあ、素敵!」と褒めてもらえたことはいまでも覚えている。

 それから少しずつ、仕事をもらうようになった。時間さえあれば刺繍を施したものを店に並べされてもらい、ひと月経ったころに「あなたにぜひにと、指名があったわ」と、チェルシーに言われたときは、なんともいえない幸福感を覚えた。

 このことは、アンガスには知らせていなかった。内職をしているのを、給金が少ないせいだと思わせたくなかったから。エミリアは稼いだお金はすべて貯金にまわし、いつなにがあってもいいように、そのお金に手をつけることはなかった。

 このお金がなければ、ああも思い切った決断はできなかっただろうと、エミリアは振り返る。





 アンガスがようやく遠征に行ってくれたその日に、エミリアはチェルシーを訪ねていた。

「あの、前に店番の人を雇うか迷っていらしたのを思い出して……もしよかったら、わたしを雇ってもらえないでしょうか」

「あら、でも。あなたへの指名の依頼も増えてきているし、これ以上は大変じゃあ」

 エミリアは恥を忍んで、アンガスと離縁する経緯を告げた。これまで耐えてきたことを人に打ち明けるのは、これがはじめてだったから、エミリアの身体は、少しだけ震えていた。

「まあ……まあ……っ」

 チェルシーはエミリアを、優しく抱き締めてくれた。可哀想に。辛かったでしょうと。聞けばエミリアは、チェルシーの娘と同じ年だそうで。

 想像の何倍も同情し、寄り添ってくれたチェルシーは「なら、住むところが決まるまで、家にいたらどうかしら」とまで提案してくれた。

「い、いえ。流石にそこまでお世話になるわけには」

「遠慮しないで。子どもも独立してしまって、部屋は空いているのよ。使わないと、もったいないじゃない?」

「で、では家賃を払わせてください」

「いいのよ。ひと月しか時間がないのなら、他にもやらなければならないことがたくさんあるんじゃないかしら。お部屋は、落ち着いてからじっくり探しなさいな。ね?」

「……チェルシーさん」

 刺繍の仕事だけでは、収入が心許ない。もしここが駄目なら次。それでも駄目なら、と覚悟はしていたものの、もし仕事が見つからなければという不安は拭えずにいた。

 もし一人で生きていく道が見つけられなければ、実家に帰るしか選択肢が残されていなかったから。

 それでも両親は助けてくれたかもしれないが、エミリアは自身でお金を稼ぎ、自立したかった。

 たとえば親の紹介で再婚したとして、アンガスと同じようなことを言われたら?

 養ってやっているのに。一人じゃ生きていけないくせに。

 今度こそ逃げられず、あの苦しい日々にたえることしかできなくなるかもしれない。

 それがとても恐ろしかったから。

 エミリアは深く、深く頭を下げた。


「……ありがとうございます。ご厚意に、甘えさせてもらいます」


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

うーん、別に……

柑橘 橙
恋愛
「婚約者はお忙しいのですね、今日もお一人ですか?」  と、言われても。  「忙しい」「後にしてくれ」って言うのは、むこうなんだけど……  あれ?婚約者、要る?  とりあえず、長編にしてみました。  結末にもやっとされたら、申し訳ありません。  お読みくださっている皆様、ありがとうございます。 誤字を訂正しました。 現在、番外編を掲載しています。 仲良くとのメッセージが多かったので、まずはこのようにしてみました。 後々第二王子が苦労する話も書いてみたいと思います。 ☆☆辺境合宿編をはじめました。  ゆっくりゆっくり更新になると思いますが、お読みくださると、嬉しいです。  辺境合宿編は、王子視点が増える予定です。イラっとされたら、申し訳ありません。 ☆☆☆誤字脱字をおしえてくださる方、ありがとうございます! ☆☆☆☆感想をくださってありがとうございます。公開したくない感想は、承認不要とお書きください。  よろしくお願いいたします。

アリシアの恋は終わったのです【完結】

ことりちゃん
恋愛
昼休みの廊下で、アリシアはずっとずっと大好きだったマークから、いきなり頬を引っ叩かれた。 その瞬間、アリシアの恋は終わりを迎えた。 そこから長年の虚しい片想いに別れを告げ、新しい道へと歩き出すアリシア。 反対に、後になってアリシアの想いに触れ、遅すぎる行動に出るマーク。 案外吹っ切れて楽しく過ごす女子と、どうしようもなく後悔する残念な男子のお話です。 ーーーーー 12話で完結します。 よろしくお願いします(´∀`)

そんなにその方が気になるなら、どうぞずっと一緒にいて下さい。私は二度とあなたとは関わりませんので……。

しげむろ ゆうき
恋愛
 男爵令嬢と仲良くする婚約者に、何度注意しても聞いてくれない  そして、ある日、婚約者のある言葉を聞き、私はつい言ってしまうのだった 全五話 ※ホラー無し

【完結】愛したあなたは本当に愛する人と幸せになって下さい

高瀬船
恋愛
伯爵家のティアーリア・クランディアは公爵家嫡男、クライヴ・ディー・アウサンドラと婚約秒読みの段階であった。 だが、ティアーリアはある日クライヴと彼の従者二人が話している所に出くわし、聞いてしまう。 クライヴが本当に婚約したかったのはティアーリアの妹のラティリナであったと。 ショックを受けるティアーリアだったが、愛する彼の為自分は身を引く事を決意した。 【誤字脱字のご報告ありがとうございます!小っ恥ずかしい誤字のご報告ありがとうございます!個別にご返信出来ておらず申し訳ございません( •́ •̀ )】

私を侮辱する婚約者は早急に婚約破棄をしましょう。

しげむろ ゆうき
恋愛
私の婚約者は編入してきた男爵令嬢とあっという間に仲良くなり、私を侮辱しはじめたのだ。 だから、私は両親に相談して婚約を解消しようとしたのだが……。

「君の為の時間は取れない」と告げた旦那様の意図を私はちゃんと理解しています。

あおくん
恋愛
憧れの人であった旦那様は初夜が終わったあと私にこう告げた。 「君の為の時間は取れない」と。 それでも私は幸せだった。だから、旦那様を支えられるような妻になりたいと願った。 そして騎士団長でもある旦那様は次の日から家を空け、旦那様と入れ違いにやって来たのは旦那様の母親と見知らぬ女性。 旦那様の告げた「君の為の時間は取れない」という言葉はお二人には別の意味で伝わったようだ。 あなたは愛されていない。愛してもらうためには必要なことだと過度な労働を強いた結果、過労で倒れた私は記憶喪失になる。 そして帰ってきた旦那様は、全てを忘れていた私に困惑する。 ※35〜37話くらいで終わります。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

あなたに嘘を一つ、つきました

小蝶
恋愛
 ユカリナは夫ディランと政略結婚して5年がたつ。まだまだ戦乱の世にあるこの国の騎士である夫は、今日も戦地で命をかけて戦っているはずだった。彼が戦地に赴いて3年。まだ戦争は終わっていないが、勝利と言う戦況が見えてきたと噂される頃、夫は帰って来た。隣に可愛らしい女性をつれて。そして私には何も告げぬまま、3日後には結婚式を挙げた。第2夫人となったシェリーを寵愛する夫。だから、私は愛するあなたに嘘を一つ、つきました…  最後の方にしか主人公目線がない迷作となりました。読みづらかったらご指摘ください。今さらどうにもなりませんが、努力します(`・ω・́)ゞ

処理中です...