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それは、数時間前のこと。
約束通りの時間に、エミリアがクリフトンとシンディーを訪ねてきた。
我が家の使用人たちが、アンガスとエミリアの会話を聞き、こうしてきちんと紙に記録してくれたことをクリフトンが伝えると、エミリアは心底ほっとしたように頬を緩めた。
「そうですか、よかったです。それで……どうでしょう。アンガスがシンディーさんに好意を抱いていること、少しは信じてもらえることができたでしょうか?」
焦ったように待ったをかけたのは、シンディーだった。
「エミリアさん。わたくしへの想いがどうこうより、アンガスさんがあなたに向けた言葉があまりに酷すぎると感じたのですが……もしや、普段からあんな……?」
エミリアは、言いにくそうに「そう、ですね」と、苦笑した。
「半年前から、あんな感じです。それ以前は本当に優しい人だったから……いつか元のアンガスに戻ってくれるんじゃないか、なんて希望を抱いたりしていたから、離縁に踏み切るまで半年もかかってしまいました」
「……以前に言っていた離縁の直接の要因とは、アンガスから受ける精神的苦痛に耐えられないから、だったのですね」
クリフトンの台詞に、エミリアは少し目を丸くしていた。
「……精神的苦痛、ですか。そんな風に考えたことはありませんでしたが、なんだか、その言葉が妙にしっくりきます」
「エミリアさん……」
「ああ、すみません。つい私事を話してしまいました。ええと、アンガスの本性を少しでも理解していただけたなら幸いです。あの人は、みなさんが思っているほど、善人ではありません。ですからどうか、お気をつけて。アンガスは、お二人が考えるよりずっと、シンディーさんに心酔しきっていますから──シンディーさん?」
シンディーは静かに立ち上がると、正面に座っていたエミリアの横に腰を落とし、エミリアの手をそっと握った。
「……ごめんなさい。わたくしは、あなたに憎まれても仕方のない立場だったのに、あなたはわたくしのために、わざわざ忠告をしにきてくれたのですね」
そんな。
エミリアは慌てて首を左右にふった。
「シンディーさんはなにも悪くないです。そんなこと、誰の目にも明らかです。それに、謝るのはこちらの方です。先ほど役所に離縁届を提出してきたので、もう元夫にはなりますが……元夫が本当に申し訳ありません。わたしの考えすぎならよいのですが……」
俯きかけたエミリアの名前を、シンディーが優しく呼びかけた。
「は、はい」
「もう遅いかもしれませんが。あなたがこれまでアンガスさんからどのような精神的苦痛を受けてきたのか、わたくしたちに吐き出してみませんか? 少しは気が楽になるかもしれません。むろん、無理にとは申しませんが……」
エミリアはしばらく黙考していたが、やがて覚悟を決めたように、口を小さく開いた。
「……とても情けない話ですが……居酒屋での会話だけでは、あの男がいかにシンディーさんに心酔してしまっているか、あまり理解してもらえないと思いますし……」
それから語られた内容は、シンディーの逆鱗に触れるものばかりだった。
シンディーのあまりの剣幕に、アンガスがたじろぐ。
「ぼ、暴言だなんて、大袈裟な……」
──この男は、わたくしを苛つかせる天才ね。
逆に感心しながら「では、同じ立場の奥様方にご意見をうかがってみましょうか」と、シンディーはまわりを見渡した。
騎士の妻たちが、何事かと互いに目を合わせる。シンディーは声を張り、騎士の妻たちに向かって語りかけた。
「この男は毎日家事を頑張っているエミリアさんに対し、荒れた手を心配するどころか、きちんと手入れをしろだの、女性としての自覚がないなどと罵っていたそうです。せっかく作ってもらっていたお弁当も、手抜きで貧相だと文句をつけていたのだとか」
真っ先に反応したのは、騎士団の男たちだった。
「……は? 嘘だろ?」
「お前、ぼくたちの前ではそんな素振り──」
が。一呼吸遅れて、騎士の妻たちが一斉に目を吊り上げた。怒りのオーラに、騎士たちは揃って言葉をなくした。
同じ仕事──家事をする、いわば苦労を知る仲間だからこその、心からの怒り。妻たちは見る間に顔を真っ赤にして、アンガスを射殺さんばかりに睨みつけてきた。
「家事をしていて、手が荒れていない人なんて見たことないわよ! あるならここに連れてきなさい! ほら、早く!」
誰より早くアンガスに掴み掛かってきたのは、同期の騎士の、顔見知りの妻だった。いつも穏やかな印象の彼女が、いまは見る影もない。
ぽかんとするアンガスに、次々に他の妻たちが詰め寄ってくる。
「きちんと手入れをしろ? ねえ、そんなもの追いつくひま、私たちにあると思う? 馬鹿じゃないの!?」
「女性としての自覚がない? はあ? そんな酷いこと、よく言えたわね!」
「掃除、洗濯、料理! これを毎日こなすことがどれほど大変か、あんたにわかる? わからないわよね。やったことないからこその発言だものねぇ!」
「冬なんかね、本当に、本当に辛いのよ! 一度もやったことがないからこそ、そんな身勝手なことが言えたんでしょうけど!」
「お弁当が手抜き? 貧相? なら自分で作りなさいよ。ていうか、作ったことある? 文句を言うだけなら、子どもでもできるわ」
たたみかけるような女たちの激高に、アンガスは耳を塞ぐこともできないまま、ただひたすらそれらが収まるのを待っていたが、恐ろしさからか、膝が笑いはじめた。
後方にいる騎士の仲間たちに縋るように視線を向けるが、当然のように、助けようとする者は一人もいず。どころか、その女性陣の夫である男たちも、自分の妻の激しすぎる勢いに、若干、青い顔をしていた。
約束通りの時間に、エミリアがクリフトンとシンディーを訪ねてきた。
我が家の使用人たちが、アンガスとエミリアの会話を聞き、こうしてきちんと紙に記録してくれたことをクリフトンが伝えると、エミリアは心底ほっとしたように頬を緩めた。
「そうですか、よかったです。それで……どうでしょう。アンガスがシンディーさんに好意を抱いていること、少しは信じてもらえることができたでしょうか?」
焦ったように待ったをかけたのは、シンディーだった。
「エミリアさん。わたくしへの想いがどうこうより、アンガスさんがあなたに向けた言葉があまりに酷すぎると感じたのですが……もしや、普段からあんな……?」
エミリアは、言いにくそうに「そう、ですね」と、苦笑した。
「半年前から、あんな感じです。それ以前は本当に優しい人だったから……いつか元のアンガスに戻ってくれるんじゃないか、なんて希望を抱いたりしていたから、離縁に踏み切るまで半年もかかってしまいました」
「……以前に言っていた離縁の直接の要因とは、アンガスから受ける精神的苦痛に耐えられないから、だったのですね」
クリフトンの台詞に、エミリアは少し目を丸くしていた。
「……精神的苦痛、ですか。そんな風に考えたことはありませんでしたが、なんだか、その言葉が妙にしっくりきます」
「エミリアさん……」
「ああ、すみません。つい私事を話してしまいました。ええと、アンガスの本性を少しでも理解していただけたなら幸いです。あの人は、みなさんが思っているほど、善人ではありません。ですからどうか、お気をつけて。アンガスは、お二人が考えるよりずっと、シンディーさんに心酔しきっていますから──シンディーさん?」
シンディーは静かに立ち上がると、正面に座っていたエミリアの横に腰を落とし、エミリアの手をそっと握った。
「……ごめんなさい。わたくしは、あなたに憎まれても仕方のない立場だったのに、あなたはわたくしのために、わざわざ忠告をしにきてくれたのですね」
そんな。
エミリアは慌てて首を左右にふった。
「シンディーさんはなにも悪くないです。そんなこと、誰の目にも明らかです。それに、謝るのはこちらの方です。先ほど役所に離縁届を提出してきたので、もう元夫にはなりますが……元夫が本当に申し訳ありません。わたしの考えすぎならよいのですが……」
俯きかけたエミリアの名前を、シンディーが優しく呼びかけた。
「は、はい」
「もう遅いかもしれませんが。あなたがこれまでアンガスさんからどのような精神的苦痛を受けてきたのか、わたくしたちに吐き出してみませんか? 少しは気が楽になるかもしれません。むろん、無理にとは申しませんが……」
エミリアはしばらく黙考していたが、やがて覚悟を決めたように、口を小さく開いた。
「……とても情けない話ですが……居酒屋での会話だけでは、あの男がいかにシンディーさんに心酔してしまっているか、あまり理解してもらえないと思いますし……」
それから語られた内容は、シンディーの逆鱗に触れるものばかりだった。
シンディーのあまりの剣幕に、アンガスがたじろぐ。
「ぼ、暴言だなんて、大袈裟な……」
──この男は、わたくしを苛つかせる天才ね。
逆に感心しながら「では、同じ立場の奥様方にご意見をうかがってみましょうか」と、シンディーはまわりを見渡した。
騎士の妻たちが、何事かと互いに目を合わせる。シンディーは声を張り、騎士の妻たちに向かって語りかけた。
「この男は毎日家事を頑張っているエミリアさんに対し、荒れた手を心配するどころか、きちんと手入れをしろだの、女性としての自覚がないなどと罵っていたそうです。せっかく作ってもらっていたお弁当も、手抜きで貧相だと文句をつけていたのだとか」
真っ先に反応したのは、騎士団の男たちだった。
「……は? 嘘だろ?」
「お前、ぼくたちの前ではそんな素振り──」
が。一呼吸遅れて、騎士の妻たちが一斉に目を吊り上げた。怒りのオーラに、騎士たちは揃って言葉をなくした。
同じ仕事──家事をする、いわば苦労を知る仲間だからこその、心からの怒り。妻たちは見る間に顔を真っ赤にして、アンガスを射殺さんばかりに睨みつけてきた。
「家事をしていて、手が荒れていない人なんて見たことないわよ! あるならここに連れてきなさい! ほら、早く!」
誰より早くアンガスに掴み掛かってきたのは、同期の騎士の、顔見知りの妻だった。いつも穏やかな印象の彼女が、いまは見る影もない。
ぽかんとするアンガスに、次々に他の妻たちが詰め寄ってくる。
「きちんと手入れをしろ? ねえ、そんなもの追いつくひま、私たちにあると思う? 馬鹿じゃないの!?」
「女性としての自覚がない? はあ? そんな酷いこと、よく言えたわね!」
「掃除、洗濯、料理! これを毎日こなすことがどれほど大変か、あんたにわかる? わからないわよね。やったことないからこその発言だものねぇ!」
「冬なんかね、本当に、本当に辛いのよ! 一度もやったことがないからこそ、そんな身勝手なことが言えたんでしょうけど!」
「お弁当が手抜き? 貧相? なら自分で作りなさいよ。ていうか、作ったことある? 文句を言うだけなら、子どもでもできるわ」
たたみかけるような女たちの激高に、アンガスは耳を塞ぐこともできないまま、ただひたすらそれらが収まるのを待っていたが、恐ろしさからか、膝が笑いはじめた。
後方にいる騎士の仲間たちに縋るように視線を向けるが、当然のように、助けようとする者は一人もいず。どころか、その女性陣の夫である男たちも、自分の妻の激しすぎる勢いに、若干、青い顔をしていた。
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