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「…………っ」

 予想はしていた。していた上での質問だった。でもそれは、エミリアの中ではありえないものだった。

 口元を両手でおさえるエミリアに、アンガスは大きく息を吐いた。

「なに、その傷付いた顔。いっておくけど、ぼくも彼女も既婚者だってことは理解しているから、ぼくは彼女になんのアプローチもしてないよ。たださ、同じ女性なのに、どうしてぼくの妻はシンディーさんに比べて、こんなに魅力がないのかって、ふと空しくなってしまって」

 淡々と語られる真実があまりにも過ぎて、エミリアの顔が絶望に染まる。

「…………酷い」

 やっと出した台詞に、アンガスがさらに、ずっと我慢していたかのように、追い詰めるようにたたみかける。

「酷いのはきみだよ。シンディーさんと比べて、なにもかも劣っている。せめて、シンディーさんに近付く努力だけでもしてほしいってお願いしているだけなのに……被害者ぶっていつもめそめそと。こんなんじゃ、家に帰る気も失せてしまうよ」

 エミリアは愕然とした。知っていたんだ。泣いていたこと。知っていて、なにも声をかけず。さらにはそんな風に考えていたなんて。

 一筋の涙が頬をつたい、寝台に落ちた。身体中から力が抜け、エミリアが目を見開いまま項垂れる。

「……なら、シンディーさんと結婚すればいいじゃない」

 思わず吐いた台詞に、アンガスは呆れたようにため息をついた。

「倫理観ってものがないのかい? さっきも言ったけど、シンディーさんには夫がいるんだ。そんなことできないよ。ぼくにも一応、きみっていう妻がいるしね。つまらない嫉妬はもういいから、少し反省したら?」

 アンガスは寝台からおり、とっとと着替えをすませると、寝室の扉の取っ手に手をかけた。その体勢のまま、項垂れるエミリアの方へ顔だけを向けた。

「今日の朝食は、外ですませるよ。その様子じゃ、いつもよりもっと不味いものを食べさせられるかもしれないし。夕食は──仕方がないから家で食べてあげる。ぼくの食欲がわくようなもの、頑張って作ってね。材料だって、ただじゃないんだから、無駄にしないで。それじゃ」

 ぱたん。
 エミリアは俯いたまま動けずに、無情に閉じられた扉の音をどこか遠くで聞いていた。

(……わたし、なにを言われた? アンガスは、なんて言ったの?)

 頭の中で反芻する。いまだけじゃなく、これまでに言われたこと、全部。できるだけ正確に。

(……わたし? わたしが悪いの?)

 確かにシンディーは魅力的な女性だ。でも、だからなんだ。勝手に比べて、勝手に空しくなって。

 あげく。

「……シンディーさんに近付けるように努力しろ……?」

 なんだそれは。馬鹿馬鹿しくて、さらに泣けてきた。アンガスの変化は、なんとも身勝手な理由からだと知ったエミリアは、涙を流しながら笑った。

 シンディーと出会ってから、どうやらアンガスの中で、理想の妻はシンディーそのものとなってしまったようだ。でも、シンディーとは結婚できないから、せめてエミリアに、シンディーに近付けと。そんな思惑から、見た目や料理に文句をつけるようになっていったらしい。

「……ふっ」

 しばらくして。
 エミリアの中で、哀しみより怒りが勝り、同時に、アンガスへの愛情が醒めていくのがわかった。そうなると不思議なもので、心と身体が一気に軽くなったような気分になった。

「……なんでわたし、あんな男のために頑張って努力して、泣いていたのかしら」

 ほんの少し前まで、確かに傷付いていた。哀しかった。こちらを向いて、褒めてほしかった。愛していた。でももう、それは遠い過去の想いのようで。

 わからない。どうしてあんなに身勝手で酷い言葉を吐かれ続け、ろくに言い返しもせず、黙って泣いていたのだろう。悔しくて、情けなくて、恥ずかしさすら感じはじめてきていた。

「いますぐにここを出て、実家に……いえ」

 それじゃ駄目な気がした。そもそも、わがままを通してアンガスと結婚させてもらった身だ。アンガスと別れたいからと、簡単に実家に逃げ帰るなんてできない。あくまでそれは、最終手段だ。

 顎に手をあて、黙考する。やがてエミリアは小さく、そうだわ、と目に光を宿した。

「確か、一週間後に二回目の遠征に行く予定だったはず……期間は、ひと月。素敵な日程だわ」

 はじめての遠征のときは、それを知った日から不安でいっぱいだった。怪我をしたりしないか。ちゃんと無事に帰ってきてくれるのか。そんな心配ばかりしていたから、忘れるなんてこと、したくてもできなかった。

 でも、遠征のことなんてすっかり頭から抜けていた。どころか、このタイミングでの遠征に、神に感謝したくなった。

 頬に残る涙を拭い、エミリアは寝台を颯爽とおりた。





 ──夕刻。

 やれやれと。いかにも仕方なくといった様子で帰宅してきたアンガスの顔を、エミリアは久しぶりにじっと見た。

(この人、こんな顔をしていたのね)

 隠そうともしない、不機嫌な表情。雰囲気。その理由は、あまりに身勝手なもの。

 イラッ。
 湧き上がる怒りをおさえ、隠す。

(いつも通り、いつも通りに)
 
 台所に立ち、深呼吸をする。部屋着に着替え、テーブルの前にある椅子にどかっと腰掛けたアンガスの前に、エミリアはテキパキと夕食を並べた。今日の献立は、具沢山の肉入りシチューと、パン。そして、デザートの林檎だった。

「また似たようなメニューを……」

 じろりと料理を見渡し、ぶつぶつと文句をたれるアンガスに、ごめんなさい、と俯きながら小声で謝罪するエミリア。

 その心の中は、今朝までとは比べものにならないほど、凪いでいた。

 どころか。

 ちらっと見詰め、心から不思議に思ってしまった。

 ──わたし、どうしてこの人を愛していたのかしら。

 しかめっ面で料理──むろん、手抜きなどしていない、一生懸命に作ったもの──を、むさぼる姿になんだか鳥肌が立った。


(……気持ち悪い)


「……え?」

 自身の感情に驚いて、自然と声が出ていた。気に入らなかったのか、アンガスが「なに」と、ぎろりと睨み付けてくる。

 それは特に怖くなかったものの、気持ち悪い、と、無意識に口に出してしまったのではないかと、エミリアは一瞬ぎくりとしてしまった。

「な、にも。今日の料理は、どう……?」

「変わりばえしない、地味な料理だね。特に美味しくもないし、ぼくじゃなかったら、きっと一口も食べてもらえず、全部残されているんじゃないかな」

 そう。控え目に答えながら、エミリアは、じゃあ一切、手を付けずに残してくれないかしら。なんてことを考えていた。そうすれば、わたしがすべて食べられるのに、なんて。

(……アンガスが一度でも口をつけたものなんて、とてもじゃないけど、もう食べられそうにない)

 昨日までの自分が信じられなかった。食べている姿ですら不快で、エミリアは「寝室を整えてくるわね」と、台所から出ようとした。

「は? この不味い料理、ぼく一人で食べろっていうの?」

 嫌味しか吐かない口に、ゴミでも詰め込んでやりたくなったが、ぐっと堪え、エミリアは背を向けたまま口を開いた。

「……ごめんなさい。わたし、恥ずかしくて……シンディーさんみたいになれるまで、あなたと顔を合わせられなくなったみたいなの」

 しおらしく呟いてみる。アンガスは「へえ」と、いくぶんか満足したようにもらし、それ以上はなにも追求してこなかったので、エミリアはこれ幸いと台所を出た。

 涙は出ない。ただ身体中を駆けめぐるのは、怒りだけ。

「……本当にわたし、どうかしてたわ」

 昨日。いや、正確には今日の朝までの自分を、殴りたい気分だった。





 困ったことに、アンガスを気持ち悪いと思う感情は日を増すごとに強くなっていき、会話をすることはおろか、同じ空間で、同じ空気を吸うことすら苦痛になっていった。

 一緒に食事するのも、もちろん眠るのも嫌で、食事の時間をわざとずらし、寝台はアンガスに譲り、エミリアは居間で眠るようにした。


『……ごめんなさい。わたし、恥ずかしくて……シンディーさんみたいになれるまで、あなたと顔を合わせられなくなったみたいなの』


 あの台詞がよほど気に入ったのか。アンガスはこれらの行動について、特になにも言ってくることはなかった。

 ただ、毎朝。

 エミリアの顔を見ては「全然、まだまだ」と、日課のように言い捨てるようにはなった。



 優越感に浸りながら暴言を繰り返すアンガス。湧き上がる衝動を、気持ち悪さを、怒りを。あと何日の我慢と唇を噛み締め、耐えること、一週間。

 ようやく、アンガスが遠征に行く朝がやってきた。

「いいか。ひと月もあるんだから、少しはシンディーさんみたいに綺麗になって、ぼくを出迎えてくれよ」

 家を出る時間ギリギリまで嫌味をまき散らし、ようやっと玄関扉の外に姿を消したアンガスに心の底からほっとしながら、エミリアが感極まったように、胸の前で手を重ねた。

「……ああ、やっと」

 エミリアは逸る気持ちをおさえ、くるりと踵を返した。その目には、希望の光が満ちていた。


 
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