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第7章 本当の気持ち
1話 おかみの教えてくれたこと
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隣町までたどり着く前に晴弥に会うという目的を果たしてしまったので、蘇芳は来た道を引き返していた。もう戻らないかもしれないと半ば覚悟を決めていたこともあり、そのまま隣町に居を移すことも考えたけれど、慣れ親しんだ町を思うとそちらに気持ちが傾いた。
「あらあんた、帰ってきたのかい。なんだか物々しい置き手紙があったから、もう帰って来ないつもりかと思ってたよ」
「あはは、すみません」
朝を待って家主のおかみを訪ねると、相変わらずの無愛想な顔で出迎えられた。ちょっと格好が悪いが、引きはらった部屋は幸いまだ貸しに出されてはいなかったのでもう一度同じところに住まわせてもらうように頼む。
「しかし意外だったねえ。あんたにそんなに血相を変えて夜通しかけて会いに行くような人がいたなんて」
金さえきちんと払っていれば間借り人に対して一切興味を示さないおかみにしては珍しく、蘇芳にそんなことを言った。下世話な興味関心でそんな話を持ち出すような人柄ではないことを思うと、それほどに蘇芳の行動がらしからぬ、印象的なものだったのだろう。
しかし、その言い方は、どうも何かを誤解していそうな気がして、蘇芳は引き攣った愛想笑いを浮かべた。
「いやあ、久しぶりに便りをよこしたと思えば病に伏しているなんて言われたら、いてもたってもいられなくて。結局本人が悪く考え過ぎていて、すぐ良くなったので帰って来られました」
ふうん、と言いつつも、おかみはまだ何か言うことのある顔をしている。本当ならもう適当なことを言って部屋に引き上げたいのだが、世話になっている手前、あまり無愛想にもできない。
「そんなこと言って、たった一日で帰ってくるなんて、もう少しいてあげなくてよかったのかい?」
問われて、蘇芳は返事に迷った。
どう答えるべきなんだろうか。誰かに話すことになるとは思ってもいなかったので、口から出まかせで自警団の男に話したこと以上は何も考えていない。
黙り込んだ蘇芳に何を思ったか、おかみは続けた。
「いやね、勘違いしてもらったら嫌だから言っておくけどさ、何も冷やかそうってんじゃあない。あたしはあんたがずっと誰とも一緒にいるところを見たことがなかったからね、あんたにもそういう人がいるって分かって、ちょっと安心したのさ。別にそれが嫁さんになろうが、気の置けない友だろうがね。そういう人は、大事にするもんだ」
訥々と、まるで独り言のようにおかみが言う。冷やかしでないのは、その顔を見ればよく分かる。
ここに世話になるようになって、こんな会話をおかみとするのは初めてだった。「これ、今月の」「はいよ」くらいしか言葉を交わしたことのないおかみが、自分のことをまるで見守るようにして気にかけていてくれたことに、蘇芳は胸が詰まる。
この場にもし自分の母がいたら、父がいたら、今の自分にどう声をかけただろう。
ずっと心の奥底にしまって、思い出せば辛いだけの記憶だと、もう何もなかったのだと封じ込めていた記憶が、不意に緩んだ。蘇芳は溢れてくる涙を止めることもできず、里に降りてから初めて人前でぼろぼろと泣いた。
ずっと、拒まれることを恐れ、そこにいられなくなることを恐れるあまり、今日与えられるものが明日には無くなっているかもしれないと、それでも自分には仕方ないのだと思いながら生きてきた。
信じたいと思っていた。頑張れば人の間でも生きられると、こんな自分だって生きていく場所を得ることができると。
でも、自分自身が一番、信じていなかったのかもしれないと蘇芳は思った。誰かに受け入れてもらう、そこにいていいよと許してもらうことしか考えていなかった。誰かの役に立っていれば、生きていていい気がしていて、でもそれが明日には無くなっていても一つもおかしくないのだと、そうなってもすぐに手を離せるように生きていた。
自分から、誰かを必要とする。自分から求め、大事にする。自分がそうされたいと思うように。それは蘇芳にとってはなんだかとても恐ろしいような気もして、しかしどうして今まで思ったこともなかったのか不思議になるほど、大切なことに感じた。
おかみは蘇芳が呆然と涙を流し続けるのにも構わず、遠くを見るように続けた。
「誰かを大事に思うってのは、自分を大事に思うのと同じさ。その人が傷付けば、自分が傷ついたように感じる。その人が笑ってりゃ、自分まで幸せな気持ちになる。それは一人でいたら味わえない気持ちだ。そうやって、人は誰かと生きていくもんさね」
おかみはそこで口をつぐんで、ちょっと喋りすぎたね、と付け加えた。
おかみにもきっとその昔、そういう人がいたのだろう。そう思わせる口ぶりに、蘇芳は黙って頷いた。
「あらあんた、帰ってきたのかい。なんだか物々しい置き手紙があったから、もう帰って来ないつもりかと思ってたよ」
「あはは、すみません」
朝を待って家主のおかみを訪ねると、相変わらずの無愛想な顔で出迎えられた。ちょっと格好が悪いが、引きはらった部屋は幸いまだ貸しに出されてはいなかったのでもう一度同じところに住まわせてもらうように頼む。
「しかし意外だったねえ。あんたにそんなに血相を変えて夜通しかけて会いに行くような人がいたなんて」
金さえきちんと払っていれば間借り人に対して一切興味を示さないおかみにしては珍しく、蘇芳にそんなことを言った。下世話な興味関心でそんな話を持ち出すような人柄ではないことを思うと、それほどに蘇芳の行動がらしからぬ、印象的なものだったのだろう。
しかし、その言い方は、どうも何かを誤解していそうな気がして、蘇芳は引き攣った愛想笑いを浮かべた。
「いやあ、久しぶりに便りをよこしたと思えば病に伏しているなんて言われたら、いてもたってもいられなくて。結局本人が悪く考え過ぎていて、すぐ良くなったので帰って来られました」
ふうん、と言いつつも、おかみはまだ何か言うことのある顔をしている。本当ならもう適当なことを言って部屋に引き上げたいのだが、世話になっている手前、あまり無愛想にもできない。
「そんなこと言って、たった一日で帰ってくるなんて、もう少しいてあげなくてよかったのかい?」
問われて、蘇芳は返事に迷った。
どう答えるべきなんだろうか。誰かに話すことになるとは思ってもいなかったので、口から出まかせで自警団の男に話したこと以上は何も考えていない。
黙り込んだ蘇芳に何を思ったか、おかみは続けた。
「いやね、勘違いしてもらったら嫌だから言っておくけどさ、何も冷やかそうってんじゃあない。あたしはあんたがずっと誰とも一緒にいるところを見たことがなかったからね、あんたにもそういう人がいるって分かって、ちょっと安心したのさ。別にそれが嫁さんになろうが、気の置けない友だろうがね。そういう人は、大事にするもんだ」
訥々と、まるで独り言のようにおかみが言う。冷やかしでないのは、その顔を見ればよく分かる。
ここに世話になるようになって、こんな会話をおかみとするのは初めてだった。「これ、今月の」「はいよ」くらいしか言葉を交わしたことのないおかみが、自分のことをまるで見守るようにして気にかけていてくれたことに、蘇芳は胸が詰まる。
この場にもし自分の母がいたら、父がいたら、今の自分にどう声をかけただろう。
ずっと心の奥底にしまって、思い出せば辛いだけの記憶だと、もう何もなかったのだと封じ込めていた記憶が、不意に緩んだ。蘇芳は溢れてくる涙を止めることもできず、里に降りてから初めて人前でぼろぼろと泣いた。
ずっと、拒まれることを恐れ、そこにいられなくなることを恐れるあまり、今日与えられるものが明日には無くなっているかもしれないと、それでも自分には仕方ないのだと思いながら生きてきた。
信じたいと思っていた。頑張れば人の間でも生きられると、こんな自分だって生きていく場所を得ることができると。
でも、自分自身が一番、信じていなかったのかもしれないと蘇芳は思った。誰かに受け入れてもらう、そこにいていいよと許してもらうことしか考えていなかった。誰かの役に立っていれば、生きていていい気がしていて、でもそれが明日には無くなっていても一つもおかしくないのだと、そうなってもすぐに手を離せるように生きていた。
自分から、誰かを必要とする。自分から求め、大事にする。自分がそうされたいと思うように。それは蘇芳にとってはなんだかとても恐ろしいような気もして、しかしどうして今まで思ったこともなかったのか不思議になるほど、大切なことに感じた。
おかみは蘇芳が呆然と涙を流し続けるのにも構わず、遠くを見るように続けた。
「誰かを大事に思うってのは、自分を大事に思うのと同じさ。その人が傷付けば、自分が傷ついたように感じる。その人が笑ってりゃ、自分まで幸せな気持ちになる。それは一人でいたら味わえない気持ちだ。そうやって、人は誰かと生きていくもんさね」
おかみはそこで口をつぐんで、ちょっと喋りすぎたね、と付け加えた。
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