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第6章 自我の目覚め
2話 見えない物盗り*
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その後も発情は周期を乱すことなく訪れ、蘇芳の見つけた薬草の組み合わせで軽い発熱だけで抑えられるようになった。おかげで定期的な家移りをしなくても良くなり、今の町に住み始めて、もうすぐ一年にもなる。
今蘇芳が暮らしている部屋の家主である初老のおかみは独り身のようで、間借り賃さえ払っていればこちらの素性や暮らしぶりは一切詮索してこないのが蘇芳にはこの上なくありがたい。無愛想で無口な様子はかつての文吉を彷彿とさせ、蘇芳はこのおかみに対して勝手に親しみを覚えていた。
発情に怯えなくてもいいことがもたらす心の安定は計り知れず、蘇芳は心からこの町の人々に尽くし、人々も控えめながらも温かく蘇芳に接してくれていた。もう頭巾も被らなくていいし、晴弥に言われて身につけていた首の保護も外せる。
しかし、ようやく手に入れた安寧によって、一心不乱に薬草探しに奔走していた時には意識の隅に押しやられていた色々な記憶が、不意に蘇芳の脳裏に浮かび上がってくるようになってしまった。
——っだめ、思い出しちゃ、だめだ……!
眠りの淵から無防備な意識が浮上し、覚醒間近の夢現の境に揺蕩っている時に決まって浮かんでくる、むせかえるほどの晴弥の匂いに包まれた記憶。
全体はぼんやりとした輪郭しかないのに、あの時感じていた涙のこぼれそうな高揚感、胸が高鳴り、例えようもなく満たされ、ぞくぞくするような興奮に包まれたあの感覚が、時間が経つほど鮮明に蘇芳の心を侵食していた。
あれほど心が揺さぶられたのは、後にも先にもない。それが、第二性に引きずられて起こった出来事だというのが蘇芳を苦しめた。
——普通に出会って、普通に思うことを許されたかった……
同じ〝合いの子〟だからこそ出会えたのかもしれない。だとしても、整理のつかない感情を蘇芳は持て余し、抑え込むことでしかしのげなかった。
蘇芳も、〝合いの子〟であり癸である前に、ただの一人の年頃の青年だ。なのに、あまりに強烈な記憶は、そうした健全な衝動も蘇芳をあの日かき抱いたあの身体、あの匂い、あの眼に結びつけてしまう。持て余した熱を解放しようとする時、蘇芳は脳裏に己を貫く熱塊を思い起こし、切なく疼く腹の奥に泣きたくなった。
「ん……ッ、だめ、だめだ、って」
張り詰めた前に手を伸ばして触れると、発情がくる周期でもないのにぞくりと身体の内側が震え、とろりと後ろが濡れるのがわかる。
初めてそうなった時はこのまま発情してしまうのではないかと、恐怖に勃ち上がったものも一瞬萎えた。そうなることはないと分かっている今でも、抗い難い熱に押し流されそうになる感覚に、蘇芳は懸命に頭を振り乱す。
熱に浸りきらないうちに解放してしまいたくて、くちくちと音を立てて敏感な場所を擦りたて、追い上げていく。けれど、意識しないようにしていたどうしようもない物足りなさは、いっそうひどくなった。
「も……ぃやだ……っ」
頭を振りながら、それでも身体は高みを目指して貪欲に刺激を求める。胸の痛みを誤魔化すように、腫れ上がったものを乱暴に扱いて、無理やり精を吐き出した。
「は、ぁ……」
達すれば、物理的な疲労で昂りは落ち着く。
そのまま再び眠りに落ちそうだった蘇芳の耳に、突然、表通りをばたばたと慌ただしく駆けていく足音が複数聞こえてきた。
——あれ……またか?
蘇芳ははだけていた着物をかきあわせて起き上がるとそっと窓を開け、目だけ出して表の様子を伺う。早朝の白い光の中、町の男衆の一団が走っていく後ろ姿が見えた。
「やられた! まただ、同じやつにちげえねえ」
「追いかけろ! まだ遠くへは行ってねえはずだ!」
「でもよう、この前だって結局捕まえられなかったじゃねえか。きっと狐か狸のしわざ……」
「ばかやろう! お狐様が着物やら櫛やらを盗っていくわけねえだろうが! バチが当たっても知らねえぞ」
どくん、と蘇芳の心臓が音を立てた。
ここ最近、同じような物盗りが立て続けに起こっている。
盗られたものは地味な着物であったり作ってあった握り飯や髪飾りなど一貫性がなく、金目のものでもないのが共通していた。しかもそれは決まって朝や昼、人目につくところで行われているのに、誰も怪しいものを見ていない。狐の悪戯ということにでもしないと収まりがつかない程度には町の見回りの者たちも頭を痛めていた。
「そうは言っても、まるで揶揄われてるみたいでよう……」
追うのを諦めて戻ってきたらしい男衆の一人がポツリと漏らす。その言葉に並んで歩いていた者たちも黙って頷き、背を丸めながら一行は通りの向こう側へ去っていった。
——誰も姿を見ていない、大したものは盗っていかない、揶揄っている……。
蘇芳には、そういうことをする者に、一人だけ心当たりがあった。
今蘇芳が暮らしている部屋の家主である初老のおかみは独り身のようで、間借り賃さえ払っていればこちらの素性や暮らしぶりは一切詮索してこないのが蘇芳にはこの上なくありがたい。無愛想で無口な様子はかつての文吉を彷彿とさせ、蘇芳はこのおかみに対して勝手に親しみを覚えていた。
発情に怯えなくてもいいことがもたらす心の安定は計り知れず、蘇芳は心からこの町の人々に尽くし、人々も控えめながらも温かく蘇芳に接してくれていた。もう頭巾も被らなくていいし、晴弥に言われて身につけていた首の保護も外せる。
しかし、ようやく手に入れた安寧によって、一心不乱に薬草探しに奔走していた時には意識の隅に押しやられていた色々な記憶が、不意に蘇芳の脳裏に浮かび上がってくるようになってしまった。
——っだめ、思い出しちゃ、だめだ……!
眠りの淵から無防備な意識が浮上し、覚醒間近の夢現の境に揺蕩っている時に決まって浮かんでくる、むせかえるほどの晴弥の匂いに包まれた記憶。
全体はぼんやりとした輪郭しかないのに、あの時感じていた涙のこぼれそうな高揚感、胸が高鳴り、例えようもなく満たされ、ぞくぞくするような興奮に包まれたあの感覚が、時間が経つほど鮮明に蘇芳の心を侵食していた。
あれほど心が揺さぶられたのは、後にも先にもない。それが、第二性に引きずられて起こった出来事だというのが蘇芳を苦しめた。
——普通に出会って、普通に思うことを許されたかった……
同じ〝合いの子〟だからこそ出会えたのかもしれない。だとしても、整理のつかない感情を蘇芳は持て余し、抑え込むことでしかしのげなかった。
蘇芳も、〝合いの子〟であり癸である前に、ただの一人の年頃の青年だ。なのに、あまりに強烈な記憶は、そうした健全な衝動も蘇芳をあの日かき抱いたあの身体、あの匂い、あの眼に結びつけてしまう。持て余した熱を解放しようとする時、蘇芳は脳裏に己を貫く熱塊を思い起こし、切なく疼く腹の奥に泣きたくなった。
「ん……ッ、だめ、だめだ、って」
張り詰めた前に手を伸ばして触れると、発情がくる周期でもないのにぞくりと身体の内側が震え、とろりと後ろが濡れるのがわかる。
初めてそうなった時はこのまま発情してしまうのではないかと、恐怖に勃ち上がったものも一瞬萎えた。そうなることはないと分かっている今でも、抗い難い熱に押し流されそうになる感覚に、蘇芳は懸命に頭を振り乱す。
熱に浸りきらないうちに解放してしまいたくて、くちくちと音を立てて敏感な場所を擦りたて、追い上げていく。けれど、意識しないようにしていたどうしようもない物足りなさは、いっそうひどくなった。
「も……ぃやだ……っ」
頭を振りながら、それでも身体は高みを目指して貪欲に刺激を求める。胸の痛みを誤魔化すように、腫れ上がったものを乱暴に扱いて、無理やり精を吐き出した。
「は、ぁ……」
達すれば、物理的な疲労で昂りは落ち着く。
そのまま再び眠りに落ちそうだった蘇芳の耳に、突然、表通りをばたばたと慌ただしく駆けていく足音が複数聞こえてきた。
——あれ……またか?
蘇芳ははだけていた着物をかきあわせて起き上がるとそっと窓を開け、目だけ出して表の様子を伺う。早朝の白い光の中、町の男衆の一団が走っていく後ろ姿が見えた。
「やられた! まただ、同じやつにちげえねえ」
「追いかけろ! まだ遠くへは行ってねえはずだ!」
「でもよう、この前だって結局捕まえられなかったじゃねえか。きっと狐か狸のしわざ……」
「ばかやろう! お狐様が着物やら櫛やらを盗っていくわけねえだろうが! バチが当たっても知らねえぞ」
どくん、と蘇芳の心臓が音を立てた。
ここ最近、同じような物盗りが立て続けに起こっている。
盗られたものは地味な着物であったり作ってあった握り飯や髪飾りなど一貫性がなく、金目のものでもないのが共通していた。しかもそれは決まって朝や昼、人目につくところで行われているのに、誰も怪しいものを見ていない。狐の悪戯ということにでもしないと収まりがつかない程度には町の見回りの者たちも頭を痛めていた。
「そうは言っても、まるで揶揄われてるみたいでよう……」
追うのを諦めて戻ってきたらしい男衆の一人がポツリと漏らす。その言葉に並んで歩いていた者たちも黙って頷き、背を丸めながら一行は通りの向こう側へ去っていった。
——誰も姿を見ていない、大したものは盗っていかない、揶揄っている……。
蘇芳には、そういうことをする者に、一人だけ心当たりがあった。
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