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9. 策略と誤算
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「さあ、改めてようこそ我が城へ、アルーシャ」
夜更けに、アルーシャはランヴェールと共に、首都へと戻ってきた。
逃げ出そうとすればいくらでも隙はあった。だが、アルーシャはそうしなかった。
それでは解決にならない。この男をそのものを、なんとかしなければ。
そのために、アルーシャはひたすら、耐えていた。
薄いカーテン越しに月明かりの差し込む室内に、音もなくぼうっと明かりが灯る。
だが、室内は明るくなったはずなのに、仄暗い陰気さは変わらなかった。
「ここが君の部屋だよ」
案内されたのは、豪奢な寝室だった。
この家のその他の部屋は基本的に全て魔術で動く仕組みが備わっているのに、この部屋だけは、手動で操作できる照明や調度品が揃えられている。
魔術を日常的に行使しない者の使用を想定してあつらえられたことが、ひと目で分かった。
——最初から、私をここに囲うつもりで……
反吐が出そうだった。だが、やるしかない。
開いたドアから、部屋の中へ一歩踏み入って、アルーシャはくるりと頭だけ振り返った。
「徴……つけるんだろう?」
徴(しるし)。それは、魔術師の中でも賛否が分かれる、「相手を“つなぐ”もの」。
もともとは、使い魔などに施し、居場所や見えているものを共有することができる術として浸透していったものだった。
だがある時から、それを、人間相手に施す魔術師が現れ始めた。
徴をつけられたものは、いついかなる場合でも、主人たる魔術師から逃れることはできない。
心を寄せた相手を我がものにしたい、支配したいという歪んだ欲望に負けた魔術師たちは、好んで自分の情人に徴をつけた。だが、そんな一方的な力関係が健全に長続きしようもなく、その情人とのトラブルが無視できない規模になってきたことを受けて、とうとう魔術師協会が事の収拾に乗り出す事態になった。
この一連の騒動の終着点として、徴自体の禁止にこそ至らなかったものの、それを人間に施すことは倫理的に道を外れたも同然と見なされるようになったのである。
だからこそ、この男は絶対に自分に徴をつけるだろうと、アルーシャは踏んでいたのだ。
情事に誘うような目つきで、ランヴェールを見上げる。魔術が使えないアルーシャにとって、勝算はほんのわずかしかなかった。
ランヴェールの目が情欲の火に揺らぐのを見て、アルーシャはにっこりと笑いかけた。
眼鏡を外し、口を薄く開いて、口づけをねだるような仕草をする。
後ろ手にドアを閉めたランヴェールのもう片方の手がアルーシャの後頭部にかかり、唇が重なった。
「……」
——今だ……
口づけに夢中になるふりをして、アルーシャはランヴェールの首に両手を回し、ぐっと頭を押さえこんだ。
「……」
「……っ?!」
おかしい。
何が起きているのか、一瞬アルーシャには飲み込めなかった。
確かに今、自分は口内に隠していた麻酔剤を、この男の口に押し込んだはず。
小さな錠剤であるそれは、口づけに紛れてほぼ気づかれないと踏んでいた。
そのまま、ランヴェールは錠剤を飲み込んだ……と思ったのだが、逆に自分の身に何か異変が起きていることを、アルーシャの全身が訴えている。
「ふふ、我が姫の考えることは、実に可愛らしい」
口を離したランヴェールの顔が卑しく歪む。
その手のひらには、今アルーシャが口に押し込んだはずの錠剤が乗っていた。
「な、っ……」
「もし君が、本当に僕の徴を受けようと思っていたのなら、手荒な真似はしなくて済んだのに……どうしてそんなに頑ななんだい?」
頭が割れるように痛い。
立っていることもかなわなくなり、アルーシャはよろよろと膝をつき、両手を床についた。
その時、アルーシャは自分の目を疑うような光景を目にした。
——手が……?!
自分の手が、手ではなくなっている。正確には、人間のそれではなくなっていた。
「……! ……!!」
——声も、出ない……!
一生懸命叫ぼうとするアルーシャの耳に、掠れた、しゃがれ声のような音が聞こえたような気がした。そう、まるで、獣のような。
「残念だな。できれば、美しい君のままで愛したかったのに……いや、この姿になっても君はなお美しいよ」
趣味の悪い指輪をいくつもはめた、ランヴェールの骨張った手が近づいてくる。
——私に、触るな……!!
アルーシャの中で、何かが弾けた。
どうやって動いたのかわからないが、無茶苦茶に暴れた。運よくランヴェールの急所に当たったのか、ランヴェールがよろけて片膝をつく。
とにかく追って来られないよう、魔術を使う隙を与えないよう、徹底的に踏みつけ、蹴り飛ばし、体当たりした。
骨が折れる嫌な音が耳にこびりつく。
だが、もう己の姿が人ではないと悟ったアルーシャは、自分がどうなろうが、この男を生かしておくつもりはなかった。
眼前に横たわる男が完全に動かなくなったのを見届け、アルーシャは四つ足で屋敷の扉を蹴破り、深夜の首都を後にした。
それきり、アルーシャの姿を見たものは誰もいなかった。
夜更けに、アルーシャはランヴェールと共に、首都へと戻ってきた。
逃げ出そうとすればいくらでも隙はあった。だが、アルーシャはそうしなかった。
それでは解決にならない。この男をそのものを、なんとかしなければ。
そのために、アルーシャはひたすら、耐えていた。
薄いカーテン越しに月明かりの差し込む室内に、音もなくぼうっと明かりが灯る。
だが、室内は明るくなったはずなのに、仄暗い陰気さは変わらなかった。
「ここが君の部屋だよ」
案内されたのは、豪奢な寝室だった。
この家のその他の部屋は基本的に全て魔術で動く仕組みが備わっているのに、この部屋だけは、手動で操作できる照明や調度品が揃えられている。
魔術を日常的に行使しない者の使用を想定してあつらえられたことが、ひと目で分かった。
——最初から、私をここに囲うつもりで……
反吐が出そうだった。だが、やるしかない。
開いたドアから、部屋の中へ一歩踏み入って、アルーシャはくるりと頭だけ振り返った。
「徴……つけるんだろう?」
徴(しるし)。それは、魔術師の中でも賛否が分かれる、「相手を“つなぐ”もの」。
もともとは、使い魔などに施し、居場所や見えているものを共有することができる術として浸透していったものだった。
だがある時から、それを、人間相手に施す魔術師が現れ始めた。
徴をつけられたものは、いついかなる場合でも、主人たる魔術師から逃れることはできない。
心を寄せた相手を我がものにしたい、支配したいという歪んだ欲望に負けた魔術師たちは、好んで自分の情人に徴をつけた。だが、そんな一方的な力関係が健全に長続きしようもなく、その情人とのトラブルが無視できない規模になってきたことを受けて、とうとう魔術師協会が事の収拾に乗り出す事態になった。
この一連の騒動の終着点として、徴自体の禁止にこそ至らなかったものの、それを人間に施すことは倫理的に道を外れたも同然と見なされるようになったのである。
だからこそ、この男は絶対に自分に徴をつけるだろうと、アルーシャは踏んでいたのだ。
情事に誘うような目つきで、ランヴェールを見上げる。魔術が使えないアルーシャにとって、勝算はほんのわずかしかなかった。
ランヴェールの目が情欲の火に揺らぐのを見て、アルーシャはにっこりと笑いかけた。
眼鏡を外し、口を薄く開いて、口づけをねだるような仕草をする。
後ろ手にドアを閉めたランヴェールのもう片方の手がアルーシャの後頭部にかかり、唇が重なった。
「……」
——今だ……
口づけに夢中になるふりをして、アルーシャはランヴェールの首に両手を回し、ぐっと頭を押さえこんだ。
「……」
「……っ?!」
おかしい。
何が起きているのか、一瞬アルーシャには飲み込めなかった。
確かに今、自分は口内に隠していた麻酔剤を、この男の口に押し込んだはず。
小さな錠剤であるそれは、口づけに紛れてほぼ気づかれないと踏んでいた。
そのまま、ランヴェールは錠剤を飲み込んだ……と思ったのだが、逆に自分の身に何か異変が起きていることを、アルーシャの全身が訴えている。
「ふふ、我が姫の考えることは、実に可愛らしい」
口を離したランヴェールの顔が卑しく歪む。
その手のひらには、今アルーシャが口に押し込んだはずの錠剤が乗っていた。
「な、っ……」
「もし君が、本当に僕の徴を受けようと思っていたのなら、手荒な真似はしなくて済んだのに……どうしてそんなに頑ななんだい?」
頭が割れるように痛い。
立っていることもかなわなくなり、アルーシャはよろよろと膝をつき、両手を床についた。
その時、アルーシャは自分の目を疑うような光景を目にした。
——手が……?!
自分の手が、手ではなくなっている。正確には、人間のそれではなくなっていた。
「……! ……!!」
——声も、出ない……!
一生懸命叫ぼうとするアルーシャの耳に、掠れた、しゃがれ声のような音が聞こえたような気がした。そう、まるで、獣のような。
「残念だな。できれば、美しい君のままで愛したかったのに……いや、この姿になっても君はなお美しいよ」
趣味の悪い指輪をいくつもはめた、ランヴェールの骨張った手が近づいてくる。
——私に、触るな……!!
アルーシャの中で、何かが弾けた。
どうやって動いたのかわからないが、無茶苦茶に暴れた。運よくランヴェールの急所に当たったのか、ランヴェールがよろけて片膝をつく。
とにかく追って来られないよう、魔術を使う隙を与えないよう、徹底的に踏みつけ、蹴り飛ばし、体当たりした。
骨が折れる嫌な音が耳にこびりつく。
だが、もう己の姿が人ではないと悟ったアルーシャは、自分がどうなろうが、この男を生かしておくつもりはなかった。
眼前に横たわる男が完全に動かなくなったのを見届け、アルーシャは四つ足で屋敷の扉を蹴破り、深夜の首都を後にした。
それきり、アルーシャの姿を見たものは誰もいなかった。
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