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32. 忘れられない重みと体温
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ふわっ、と少し汗をまとった東堂の匂いが将吾の鼻を掠める。耳元の血管が音を立てて脈打った。それを悟られないよう、ゆっくりと東堂が体を起こすのを手伝った。
「お、お前もさ、ここのところの疲れが溜まってんじゃないのか? 俺はほら、体力バカだからいいけど」
言う必要もないことが次々と口をついて出る。一方将吾の頭の中は、今起きていることの意味を考えて高速でスピンしていた。
「……すまん、今ちょっとクラッとした」
顔を見れば、ただでさえ色の白い東堂の肌がやや蒼白気味だ。脳貧血を起こしたのだろうと見当がついた将吾は、とりあえず隣の椅子に東堂を座らせる。まだ少し心臓がバクバクしてはいるが、状況を考える冷静さは戻ってきた。
「お前はもう帰って、少しでも寝た方がいいよ。俺ももう終わったから、これ食ったら帰るし」
そう言いながら、将吾は東堂が買ってきてくれたビニール袋の中を覗き込んだ。
「お、牛丼じゃん! うまそう」
さっきまでは胃の感覚すらどこかへ行ってしまっていたが、現金なもので袋の中に充満する香りを吸い込んだ途端、激しい空腹感を覚える。そこへ、こちらも落ち着いてきたらしい東堂の声が割り込んできた。
「お前の分だけ買ってくるわけないだろう。俺のもある」
いつもの調子が戻ってきた東堂の口調に、将吾はホッとする。安堵を覚えるところがそこなのか、と自分で少しだけ可笑しかった。
「それだけ言えりゃ大丈夫そうだな。じゃ、とっとと食って帰ろうぜ」
そうして深夜の報道部フロアで、将吾と東堂はささやかな夜食を囲んだ。思えば東堂とまともに食事(これを食事と呼べるならば)をするのはこれが初めてだな、と思いながら食べる牛丼は、なぜかいつもよりも満ち足りる味わいだった。
「あー……だめだな、こりゃ……」
翌朝、と言っても家に帰れたのがすでに早朝三時近くで、なんとかシャワーだけ浴びてベッドに倒れ込んでから、数時間後のこと。将吾は床に這いつくばった体勢で、うめき声を上げていた。目が覚めたらどうも熱っぽく、体温計を取ろうとベッドから出たところで、世界がぐらっと傾いた。かろうじて派手に倒れるのは免れたが、これでは昨日の東堂のことを言えたもんじゃない。とりあえず視界が回るのが収まったところで、高山に改めて昨晩の報告と、現在の状況を伝えた。
「ああ、本当によくやった。今朝はうちの単独優勝だよ。……しかし、どうやら東堂も参っちゃってるみたいだし、今日は無理をしない方がいい。理事長の会見は他の班に行ってもらっても問題ないだろう」
高山の言葉に甘えよう、と将吾は通話を切ったあと、力無く社用携帯を投げ出した。
情けない、とは思う。無意識にずっと気持ちを張り詰めていたのが、ここへ来て切れてしまったのだろう。体の方もだいぶ酷使した自覚はある。
——まあ、もう若くないってことなんだろうなあ……。
あまり深く考えると余計に落ち込む気がしたので、将吾はそこで考えるのをやめてごろりと横になった。
熱っぽい頭はぼうっとかすみ、意識を手放す手前のまどろみの中で、脳裏に昨日の東堂の顔が浮かぶ。将吾は無意識に、掛け布団をぎゅっと握った。
昨晩確かにこの腕に感じた、重さと体温。自分を跳ね除けず、身を任せてくれたあの瞬間を思い出すと、どくりと血が沸騰しそうになる。
三ツ藤にも、ああやって身を委ねていたのだろうか。その時の東堂は、あの男にどんな顔を見せていたのか。不穏な気配のする想像が不意に将吾の頭をよぎった。鳩尾の辺りがきゅっと苦しくなって、動悸が痛い。もう一度触れて確かめたいという、衝動にも近い強い思いと、これ以上は東堂に近づきすぎて何かを壊してしまうのではないかという漠然とした不安とが、反発しあって揺れ動く。自分の感じているものがなんなのかさえ分からなくて、将吾は感情の激流に飲まれていった。
——何で、俺は……。
そこまで思ったところで、将吾の意識は途切れた。
「お、お前もさ、ここのところの疲れが溜まってんじゃないのか? 俺はほら、体力バカだからいいけど」
言う必要もないことが次々と口をついて出る。一方将吾の頭の中は、今起きていることの意味を考えて高速でスピンしていた。
「……すまん、今ちょっとクラッとした」
顔を見れば、ただでさえ色の白い東堂の肌がやや蒼白気味だ。脳貧血を起こしたのだろうと見当がついた将吾は、とりあえず隣の椅子に東堂を座らせる。まだ少し心臓がバクバクしてはいるが、状況を考える冷静さは戻ってきた。
「お前はもう帰って、少しでも寝た方がいいよ。俺ももう終わったから、これ食ったら帰るし」
そう言いながら、将吾は東堂が買ってきてくれたビニール袋の中を覗き込んだ。
「お、牛丼じゃん! うまそう」
さっきまでは胃の感覚すらどこかへ行ってしまっていたが、現金なもので袋の中に充満する香りを吸い込んだ途端、激しい空腹感を覚える。そこへ、こちらも落ち着いてきたらしい東堂の声が割り込んできた。
「お前の分だけ買ってくるわけないだろう。俺のもある」
いつもの調子が戻ってきた東堂の口調に、将吾はホッとする。安堵を覚えるところがそこなのか、と自分で少しだけ可笑しかった。
「それだけ言えりゃ大丈夫そうだな。じゃ、とっとと食って帰ろうぜ」
そうして深夜の報道部フロアで、将吾と東堂はささやかな夜食を囲んだ。思えば東堂とまともに食事(これを食事と呼べるならば)をするのはこれが初めてだな、と思いながら食べる牛丼は、なぜかいつもよりも満ち足りる味わいだった。
「あー……だめだな、こりゃ……」
翌朝、と言っても家に帰れたのがすでに早朝三時近くで、なんとかシャワーだけ浴びてベッドに倒れ込んでから、数時間後のこと。将吾は床に這いつくばった体勢で、うめき声を上げていた。目が覚めたらどうも熱っぽく、体温計を取ろうとベッドから出たところで、世界がぐらっと傾いた。かろうじて派手に倒れるのは免れたが、これでは昨日の東堂のことを言えたもんじゃない。とりあえず視界が回るのが収まったところで、高山に改めて昨晩の報告と、現在の状況を伝えた。
「ああ、本当によくやった。今朝はうちの単独優勝だよ。……しかし、どうやら東堂も参っちゃってるみたいだし、今日は無理をしない方がいい。理事長の会見は他の班に行ってもらっても問題ないだろう」
高山の言葉に甘えよう、と将吾は通話を切ったあと、力無く社用携帯を投げ出した。
情けない、とは思う。無意識にずっと気持ちを張り詰めていたのが、ここへ来て切れてしまったのだろう。体の方もだいぶ酷使した自覚はある。
——まあ、もう若くないってことなんだろうなあ……。
あまり深く考えると余計に落ち込む気がしたので、将吾はそこで考えるのをやめてごろりと横になった。
熱っぽい頭はぼうっとかすみ、意識を手放す手前のまどろみの中で、脳裏に昨日の東堂の顔が浮かぶ。将吾は無意識に、掛け布団をぎゅっと握った。
昨晩確かにこの腕に感じた、重さと体温。自分を跳ね除けず、身を任せてくれたあの瞬間を思い出すと、どくりと血が沸騰しそうになる。
三ツ藤にも、ああやって身を委ねていたのだろうか。その時の東堂は、あの男にどんな顔を見せていたのか。不穏な気配のする想像が不意に将吾の頭をよぎった。鳩尾の辺りがきゅっと苦しくなって、動悸が痛い。もう一度触れて確かめたいという、衝動にも近い強い思いと、これ以上は東堂に近づきすぎて何かを壊してしまうのではないかという漠然とした不安とが、反発しあって揺れ動く。自分の感じているものがなんなのかさえ分からなくて、将吾は感情の激流に飲まれていった。
——何で、俺は……。
そこまで思ったところで、将吾の意識は途切れた。
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