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第10話 後悔はしてません
しおりを挟む❋❋❋❋
その日、私の目の前に現れた“その人”は大きなため息を吐きながら言った。
「…………驚いたよ。ブレイズリ伯爵家を訪ねて来たら、まさかこんな事になっているとは」
「えっと、すみません……」
驚かせてしまった事は事実なので、私は素直に頭を下げる。
「クロエ嬢……謹慎中ってなんなんだ! 謹慎中って!」
「……お父様を怒らせてしまいまして」
「“アビゲイル”の名前を使ったから、どうにか面会が許されたものの……」
「お父様は権力の強い者には媚びへつらう人なので」
私がそう説明すると、「確かにそんな匂いがプンプンした」と目の前の人は言った。
「……ですが、今はそれよりも私からも聞きたいですわ!」
「うん?」
私は目の前の彼の目を見つめながら訊ねた。
「───なぜ、わざわざ変装して、アビゲイル様の……セグラー公爵家の使いの者のフリをしてまで私を訪ねて来たのですか? …………グレイソン殿下」
───────
───……
今から三日前。
私は、固く握り締めた拳で婚約者のジョバンニ様の頬を思いっきり殴った。
さすがに一発だけなのでボコボコにするまでには至らなかったものの、それはいい感じに彼の左頬に入ってくれた。
(前世も含めて人を殴ったのなんて初めてだわ……)
「ぐほっ!」
まさか、殴られるとは思っていなかったのだろう。そんな変な声を上げて軽く吹き飛んだジョバンニ様。
(……間抜けな顔で倒れ込んだわ)
私の頭の中では、やってやったわ! というスッキリした気持ちが強かった。
けれど、同時にこれはきっと後で面倒なことにもなるわね……という気持ちもほんの少し生まれた。
(…………でも、後悔は無いわ)
この三年間、私はずっとずっと訴え続けてきた。
でも、お父様は決して頷かなかったし、ジョバンニ様が浮気を止める事は無かった。
ジョバンニ様には浮気について話す時、一緒に婚約解消の話だって何度もした。でも、その度にジョバンニ様はヤキモチだのなんだのと言ってまともに聞こうともしてくれなかった。
(あの間抜けな顔……スッキリしたわ! もっと早くこうしていれば良かったのかしら)
そんな事を思いながら、殴った後の自分の拳を見つめていたら、倒れ込んでいたジョバンニ様がムクっと起き上がる。
そして、しばらく左頬を押さえてポカンとした表情で宙を見て固まっていた。けれど、やがて何が起きたのかを理解したのか見る見るうちに顔が赤くなり怒り狂ったような表情に変わっていく。
(────来る!)
そして、ジョバンニ様はキッと私を睨むと怒鳴り始めた。
「───クロエ! 貴様! 今、殴った……僕を殴ったな!?」
なんて予想通りな言葉!
あまりにも想像通りだったので、思わず笑みが溢れる。
「……ええ。生意気な女が許せないと聞きましたので……つい?」
「なっ! つい、だと!? しかも笑っ……き、貴様……! ふざけるな!」
「ふざけてなどいません。それで、どうですか? ジョバンニ様。あなたの嫌いな生意気な女に殴られた気分は」
「くっ! ……クロエ!」
更にカッと顔が赤くなったジョバンニ様が、再び怒鳴り声を上げて私に掴みかかろうとする。
「何でお前なんかに、この僕が殴られなくちゃいけないんだぁぁ!」
「……本当にお分かりにならないのですね…………惨めな人」
「なっ! き、貴様! 今、この僕をバカにしたな!?」
「本当の事を言っただけです…………私を殴りますか? それならどうぞお好きに?」
「なっ!」
開き直ったかのような私の態度にジョバンニ様はたじろぐと、殴ろうとしていたその手を引っ込める。
「あら? よろしいのですか? せっかくジョバンニ様に殴られたと言って回るつもりでしたのに……」
「っっっ! クロエ! お前……お前が先に僕に手を……!」
「ふふ、そうですね、どうぞお好きに言いふらして下さいませ? 私なんかに殴られた間抜けな男です……と宣伝出来るのなら、ですけど」
「───くっっ」
ジョバンニ様がガクッと膝をつく。
言いふらしたい……でも、女性に……しかもバカにしていた私に殴られた間抜けだとは宣伝したくない……そんな葛藤が見て取れた。
「────クソッ……帰る!」
「あら? ご用事はよろしいのですか?」
「……くっ! うるさいっ!」
ジョバンニ様はキッと私をひと睨みして何も言わずにバンッと音を立てて部屋を出て行った。
「…………ふぅ」
気の抜けた私はヘナヘナとその場に座り込む。
(残念……こんな暴力女とは婚約破棄だーー! とまでは言ってくれなかった)
「……お父様も怒り狂うでしょうねぇ……でも、やっぱり後悔は無いわ。胸がスっとしたもの」
そんな事を呟いていたら、
「お、お嬢様ーー!?」
「お、大声とすごい音がしましたが……」
「ハウンド侯爵令息様がすごい形相で帰られましたが?」
(随分とのんびりね……)
ようやく異変を察したらしい我が家の使用人達もやって来た。
そしてその夜───……
───パシンッ
「この愚かな娘が! なんてバカな事をしたんだ!」
「───っ!」
(痛っ……)
話を聞いたお父様は、私とは違い、拳ではなく平手打ちにした。
別にこうして叩かれるのは初めてでは無いし慣れたものだけれど、今日のはこれまでの中でも一番力が込められていた気がする。
「お前は、この結婚が破談になってもいいのか!?」
「構いません! ───ずっと嫌だと言い続けているではありませんか!」
「いい加減にしろ! また、それか? 浮気だのなんだのと!」
「嫌なものは嫌なんです!」
私は叩かれた頬を押さえながらそう訴えるけれど、やっぱりお父様には全く響かない。
そんなお父様は使用人たちから話を聞いて邸に戻って来たと思ったら、慌ててハウンド侯爵家に向かっていた。謝罪だと思われる。
「我儘を言うなと言っているだろ! 侯爵家とジョバンニ殿にはなんとか謝り倒してどうにか許しを貰ったんだぞ! だが、もう次は無いと思え!」
「……いえ、またあの人の顔を見たら、次も私は殴らないでいられる自信がありません」
(ジョバンニ様だって、あんなに怒っていたわ。次に会ったら私に何をしてくるやら……)
「クロエーーーー!」
でも、その言葉はお父様を激怒させるのに充分だったらしい。
キレたお父様は私に謹慎を言い渡した。
そうして、それから三日後。
何故か私の目の前に(変装した)グレイソン殿下が現れた。
───
───────……
「もちろん、君に会いに来たんだ、クロエ嬢」
「で、ですから、いったい何の用事で……?」
グレイソン殿下は変装だけでなく、アビゲイル様の家の人間の名を騙って訪ねて来た。
公爵家……しかも新しい王太子殿下の婚約者の家からの客人ともなれば、お父様も謹慎中だから会わせんとは言わなかった。
「あれからも、アビゲイルが君の事をかなり思い悩んでいてね」
「アビゲイル様が……」
なんて、悪役令嬢らしくない方なの。やはり本当にヒロインなのでは……?
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「それで、何か君に出来ることは無いだろうかと私達は考えた」
「ええ!?」
モブの私が……こんな偉い人達を悩ませるって……何様なの。
モブ……私はモブなのよね?
モブの概念が分からなくなって来た。
「だが、各家で決められた婚約の話にはいくら王族でも我々が口を出すことは出来ない」
「存じております」
私はしっかりと頷く。
当然よ、王家が婚約にあれやこれやと口出ししたら大変なことになってしまう。
「だが、クロエ嬢はジョバンニとの婚約を解消したいと言っていた。それも以前から」
「……何度、話をしてもお父様とジョバンニ様は頷いてくれませんが」
私が目を伏せて答えると、グレイソン殿下は分かっていると言いたげに頷いた。
「だったらどうか、と思って持ってきた話があったんだけど……」
「?」
そこまで言いかけた殿下の視線がチラッと私の頬に向かう。
「……肝心の話をする前に、クロエ嬢。伯爵を怒らせたと言っていたがその頬は……?」
「…………申し訳ございません殿下。せっかくの言葉を頂きましたが……私、我慢が出来ませんでした」
「我慢?」
殿下が首を傾げる。
でも、そのすぐ後になんの事か思い至ったようでハッとした顔になる。
「……まさか、クロエ嬢……ジョバンニを……」
「はい。その通りです…………我慢が出来ず、その…………彼を殴りました。申し訳ございません。殿下のことは呼ぶ暇もありませんでした」
「~~~!!」
私の告白に、グレイソン殿下は見たことのない顔をして宙を仰いだ。
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