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9. 泣いていい
しおりを挟む振り返った先にいたのは間違いなくリヒャルト様その人。
肩で息をしているので、走ってここに来たのかもしれないと思った。
「リヒャルト様? どうしてこちらに?」
「──ナターリエが一家揃って王宮に来ていると聞いて……それで、多分ナターリエはここに寄っているだろう、と思っ……」
「……え?」
息を切らしながらのその言葉に驚いた私は、目を大きく見開いてリヒャルト様を見つめる。
(どうしてそう思ったの?)
すると、リヒャルト様は私に向かって勢いよく頭を下げた。
「それと……父上から話を聞いてしまった! 勝手にすまない」
「え?」
「ナターリエとハインリヒの……婚約について、の話だ」
一瞬なんのことかと思ったけれど、私はあぁ……と納得した。
「いえ……そのことは大丈夫ですから、頭を上げてください」
婚約破棄に向けていずれ協力をお願いするかもしれないから、それは全く問題ない。
それでも勝手に聞いてしまった申し訳ない……と頭を下げてしまうのが彼、リヒャルト様だ。
(本当にこの方は)
リヒャルト様は私に促されてどうにか頭は上げてくれたけれど、まだその表情は固かった。
「……」
「リヒャルト様?」
「それだけじゃない。俺は先日、ハインリヒが街で女性と密会している所を……その……」
「あ……」
見かけて知っていた。
でもそのことを言わずに黙っていたことを謝りたいのだと分かった。
(あなたが気に病む必要なんかないのに……)
「いいえ! 実はそのことはすでにマリーアンネ様から話を聞いてしまっていたのです」
「話してしまっていたのか?」
「はい。ですが、マリーアンネ様を責めないでくださいね? リヒャルト様が憶測で話をして私を傷付けないようにと注意してくれた、とも聞いています。お気遣いありがとうございました」
私が深々と頭を下げるとリヒャルト様が慌て出す。
「いや、それは──……だ、だが、結果的に……こんなことになってしまった」
「いいえ。私自身もその現場を目撃してしまいまして、それで出した結論ですから」
「ナターリエ……」
「……」
どうしてなの? なぜリヒャルト様の方がそんなに辛そうな顔をするの?
私にはリヒャルト様が辛そうな表情になる理由が分からなくて戸惑ってしまった。
「…………しかし、ハインリヒは婚約の破棄に同意していないのだろう?」
「はい。間近に迫っていた結婚式のキャンセルだけはどうにか頷かせたのですが……それもあくまで“延期”だと言い張られています」
もちろん、私は白紙にしたかった。
けれど、やっぱりそこは三人とも頑なで……頑として譲らなかった。
延期だとしてもとりあえず、今すぐの結婚は避けられそうだったのでそこはこちらが受け入れるしかなかった。
だから、その間になんとしても婚約破棄に同意させなくてはならない。
「なんの力にもなれず……すまない」
「リヒャルト様……」
「おそらく、俺が口を出してもハインリヒは頷かないだろう。むしろ、もっと拗れる可能性だってある」
そう口にするリヒャルト様はやっぱり辛そうな顔をしている。
「俺とマリーアンネが見かけた時のハインリヒと相手の女性は、随分と親密そうだった」
「……やっぱり、そうなんですね」
「ナターリエ。もし、俺の証言が必要ならいつでも言ってくれ。必ず君の力になると約束する」
「リヒャルト様……」
その気持ちが嬉しかった。
リヒャルト様とハインリヒ様も長い付き合いの友人同士。
その友人の起こした不貞を私に、仕方のないことだから黙って受け入れろ、ではなく必要なら味方になってくれると言ってくれたことが嬉しい。
「その時は……よろしくお願いします」
「ああ」
私が頭を下げると優しく微笑まれた気配がした。
そして、頭を上げると何故かじっと顔を見つめられた。
(な、なに……?)
そんな風にじっと見つめられるとさすがに胸がドキッとする。
思わず胸を押さえた。
すごく心臓の鼓動が早い。そのせいで私の声も上擦ってしまう。
「わ、私の顔に、な、何か付いていますか?」
「……ナターリエ。君のその顔、一度も泣いていないだろう?」
「え?」
リヒャルト様の言葉の意味が分からずポカン……としてしまう。
一度も泣いていない?
誰が? 私が……?
そんなポカン顔の私に向かってリヒャルト様は言う。
その顔は少し怒っているようにも見えた。
「……君は信頼していたはずの男にこんな形で裏切られたんだぞ?」
「は、はい」
「悲しくて泣きたいのを我慢して、とにかくがむしゃらに今日まで過ごして来たんじゃないのか?」
「……!」
確かに言われた通り、今日まで全然、泣いている暇なんてなかった。
ハインリヒ様に裏切られたことを知ってからはすぐに侯爵家に乗り込んで……婚約破棄に向けて動き出して……
「ナターリエ。泣いていいんだ」
「え? な、く?」
「そうだ……悔しい、ふざけるな、バカヤロー、なんでもいい。ハインリヒを思いっ切り罵りながら我慢しないで泣いてもいいんだよ」
「……泣いても……いい」
どうしてリヒャルト様はそんなことを言うのだろう?
私は別に泣くのを我慢してなんか……
そう思ったのだけど、リヒャルト様が私の眉間に指をさしながら言った。
「ナターリエは昔から辛くて泣きたいのを我慢している時、眉間に深い皺が寄る───今みたいにね?」
「え!?」
私は慌てて自分の額……眉間の辺りを押さえて隠そうとする。
多分、今更そんなことをしても無意味なのだろうけれど。
「そうだな。最近では、君の祖母……おばあさんが亡くなられた時もそうだっただろう?」
「!」
「葬儀でナターリエは必死に泣かないようにと明るく振舞っていた。そんな君を見て随分と冷たいんだね、とハインリヒは非難していたけれど、本当はずっと眉間に皺を寄せて涙を堪えていたじゃないか」
「……ど、して……」
最期は笑顔で見送る───
私の笑顔が好きだからって。それがおばあ様と私の約束だった。
病気が分かってもう長くは持たないと判明した時、そう二人で約束した。
「分かるよ。君は……昔から本当に強がってばかりだから」
「……」
その言葉に胸がギュッと締め付けられた。
「泣き顔を見られるのが嫌だと言うならここであれば誰も見ていない。だから泣いても……って俺がいたらダメか……」
「……リヒャルト様」
リヒャルト様はうーんと悩んだ顔をしたあと、いきなり上着を脱ぎ始めた。
いったい何をしているの? と、と驚いていたらその脱いだ上着を私の頭に被せた。
おかげで視界が真っ暗で何も見えなくなってしまう。
「えっと、な、何を……?」
「どうだ? これなら思いっ切り泣いてもナターリエの泣き顔は誰にも……俺にも見えない!」
どうだ? 名案だろう? と、言わんばかりの発言に思わず笑いが込み上げてくる。
(それなら私を置いて立ち去る……ではなく、隠すって何それ……)
「なんで笑う!?」
泣くどころかクスクスと笑いだした私に、リヒャルト様の戸惑いの声が降って来た。
その声を聞いていたら、更なる笑いと共に私の目からは涙がポロッと溢れた。
(あ……)
“泣いてもいい”
リヒャルト様のその言葉が私の胸に染み渡っていく。
「……っ」
嘘をつかれて悲しかった。
話を聞こうとしてくれなくて悔しかった。
───ふざけるな! 最低! 浮気男! 時間を返せ!
そんな思いと共に涙がどんどん溢れて来る。
そのまま私はリヒャルト様の上着の中で泣いた。
こんなに、泣いたのはいつ以来だろうってくらい泣いた。
その間もリヒャルト様は何も言わずにただ静かに私を見守ってくれていて。
下手な慰めなんかよりも私にはそれがたまらなく心に響く。
(リヒャルト様は昔から私には触れない……)
今だってそう。私に指一本触れようとしない。
だからなのか上着から感じるほのかなリヒャルト様の温もりが今はとても心地よく感じて安心出来た。
(不思議ね? 触れられたことなんてないはずなのに、どこか懐かしいと感じてしまうなんて……)
まだまだ、この先は前途多難だけれどリヒャルト様がこうして今、隣に寄り添ってくれたことが、ただひたすら嬉しかった。
そして、それから数日後。
ついに問題のヴァネッサ嬢と会う機会が私に訪れることに───……
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