10 / 44
9. 泣いていい
しおりを挟む振り返った先にいたのは間違いなくリヒャルト様その人。
肩で息をしているので、走ってここに来たのかもしれないと思った。
「リヒャルト様? どうしてこちらに?」
「──ナターリエが一家揃って王宮に来ていると聞いて……それで、多分ナターリエはここに寄っているだろう、と思っ……」
「……え?」
息を切らしながらのその言葉に驚いた私は、目を大きく見開いてリヒャルト様を見つめる。
(どうしてそう思ったの?)
すると、リヒャルト様は私に向かって勢いよく頭を下げた。
「それと……父上から話を聞いてしまった! 勝手にすまない」
「え?」
「ナターリエとハインリヒの……婚約について、の話だ」
一瞬なんのことかと思ったけれど、私はあぁ……と納得した。
「いえ……そのことは大丈夫ですから、頭を上げてください」
婚約破棄に向けていずれ協力をお願いするかもしれないから、それは全く問題ない。
それでも勝手に聞いてしまった申し訳ない……と頭を下げてしまうのが彼、リヒャルト様だ。
(本当にこの方は)
リヒャルト様は私に促されてどうにか頭は上げてくれたけれど、まだその表情は固かった。
「……」
「リヒャルト様?」
「それだけじゃない。俺は先日、ハインリヒが街で女性と密会している所を……その……」
「あ……」
見かけて知っていた。
でもそのことを言わずに黙っていたことを謝りたいのだと分かった。
(あなたが気に病む必要なんかないのに……)
「いいえ! 実はそのことはすでにマリーアンネ様から話を聞いてしまっていたのです」
「話してしまっていたのか?」
「はい。ですが、マリーアンネ様を責めないでくださいね? リヒャルト様が憶測で話をして私を傷付けないようにと注意してくれた、とも聞いています。お気遣いありがとうございました」
私が深々と頭を下げるとリヒャルト様が慌て出す。
「いや、それは──……だ、だが、結果的に……こんなことになってしまった」
「いいえ。私自身もその現場を目撃してしまいまして、それで出した結論ですから」
「ナターリエ……」
「……」
どうしてなの? なぜリヒャルト様の方がそんなに辛そうな顔をするの?
私にはリヒャルト様が辛そうな表情になる理由が分からなくて戸惑ってしまった。
「…………しかし、ハインリヒは婚約の破棄に同意していないのだろう?」
「はい。間近に迫っていた結婚式のキャンセルだけはどうにか頷かせたのですが……それもあくまで“延期”だと言い張られています」
もちろん、私は白紙にしたかった。
けれど、やっぱりそこは三人とも頑なで……頑として譲らなかった。
延期だとしてもとりあえず、今すぐの結婚は避けられそうだったのでそこはこちらが受け入れるしかなかった。
だから、その間になんとしても婚約破棄に同意させなくてはならない。
「なんの力にもなれず……すまない」
「リヒャルト様……」
「おそらく、俺が口を出してもハインリヒは頷かないだろう。むしろ、もっと拗れる可能性だってある」
そう口にするリヒャルト様はやっぱり辛そうな顔をしている。
「俺とマリーアンネが見かけた時のハインリヒと相手の女性は、随分と親密そうだった」
「……やっぱり、そうなんですね」
「ナターリエ。もし、俺の証言が必要ならいつでも言ってくれ。必ず君の力になると約束する」
「リヒャルト様……」
その気持ちが嬉しかった。
リヒャルト様とハインリヒ様も長い付き合いの友人同士。
その友人の起こした不貞を私に、仕方のないことだから黙って受け入れろ、ではなく必要なら味方になってくれると言ってくれたことが嬉しい。
「その時は……よろしくお願いします」
「ああ」
私が頭を下げると優しく微笑まれた気配がした。
そして、頭を上げると何故かじっと顔を見つめられた。
(な、なに……?)
そんな風にじっと見つめられるとさすがに胸がドキッとする。
思わず胸を押さえた。
すごく心臓の鼓動が早い。そのせいで私の声も上擦ってしまう。
「わ、私の顔に、な、何か付いていますか?」
「……ナターリエ。君のその顔、一度も泣いていないだろう?」
「え?」
リヒャルト様の言葉の意味が分からずポカン……としてしまう。
一度も泣いていない?
誰が? 私が……?
そんなポカン顔の私に向かってリヒャルト様は言う。
その顔は少し怒っているようにも見えた。
「……君は信頼していたはずの男にこんな形で裏切られたんだぞ?」
「は、はい」
「悲しくて泣きたいのを我慢して、とにかくがむしゃらに今日まで過ごして来たんじゃないのか?」
「……!」
確かに言われた通り、今日まで全然、泣いている暇なんてなかった。
ハインリヒ様に裏切られたことを知ってからはすぐに侯爵家に乗り込んで……婚約破棄に向けて動き出して……
「ナターリエ。泣いていいんだ」
「え? な、く?」
「そうだ……悔しい、ふざけるな、バカヤロー、なんでもいい。ハインリヒを思いっ切り罵りながら我慢しないで泣いてもいいんだよ」
「……泣いても……いい」
どうしてリヒャルト様はそんなことを言うのだろう?
私は別に泣くのを我慢してなんか……
そう思ったのだけど、リヒャルト様が私の眉間に指をさしながら言った。
「ナターリエは昔から辛くて泣きたいのを我慢している時、眉間に深い皺が寄る───今みたいにね?」
「え!?」
私は慌てて自分の額……眉間の辺りを押さえて隠そうとする。
多分、今更そんなことをしても無意味なのだろうけれど。
「そうだな。最近では、君の祖母……おばあさんが亡くなられた時もそうだっただろう?」
「!」
「葬儀でナターリエは必死に泣かないようにと明るく振舞っていた。そんな君を見て随分と冷たいんだね、とハインリヒは非難していたけれど、本当はずっと眉間に皺を寄せて涙を堪えていたじゃないか」
「……ど、して……」
最期は笑顔で見送る───
私の笑顔が好きだからって。それがおばあ様と私の約束だった。
病気が分かってもう長くは持たないと判明した時、そう二人で約束した。
「分かるよ。君は……昔から本当に強がってばかりだから」
「……」
その言葉に胸がギュッと締め付けられた。
「泣き顔を見られるのが嫌だと言うならここであれば誰も見ていない。だから泣いても……って俺がいたらダメか……」
「……リヒャルト様」
リヒャルト様はうーんと悩んだ顔をしたあと、いきなり上着を脱ぎ始めた。
いったい何をしているの? と、と驚いていたらその脱いだ上着を私の頭に被せた。
おかげで視界が真っ暗で何も見えなくなってしまう。
「えっと、な、何を……?」
「どうだ? これなら思いっ切り泣いてもナターリエの泣き顔は誰にも……俺にも見えない!」
どうだ? 名案だろう? と、言わんばかりの発言に思わず笑いが込み上げてくる。
(それなら私を置いて立ち去る……ではなく、隠すって何それ……)
「なんで笑う!?」
泣くどころかクスクスと笑いだした私に、リヒャルト様の戸惑いの声が降って来た。
その声を聞いていたら、更なる笑いと共に私の目からは涙がポロッと溢れた。
(あ……)
“泣いてもいい”
リヒャルト様のその言葉が私の胸に染み渡っていく。
「……っ」
嘘をつかれて悲しかった。
話を聞こうとしてくれなくて悔しかった。
───ふざけるな! 最低! 浮気男! 時間を返せ!
そんな思いと共に涙がどんどん溢れて来る。
そのまま私はリヒャルト様の上着の中で泣いた。
こんなに、泣いたのはいつ以来だろうってくらい泣いた。
その間もリヒャルト様は何も言わずにただ静かに私を見守ってくれていて。
下手な慰めなんかよりも私にはそれがたまらなく心に響く。
(リヒャルト様は昔から私には触れない……)
今だってそう。私に指一本触れようとしない。
だからなのか上着から感じるほのかなリヒャルト様の温もりが今はとても心地よく感じて安心出来た。
(不思議ね? 触れられたことなんてないはずなのに、どこか懐かしいと感じてしまうなんて……)
まだまだ、この先は前途多難だけれどリヒャルト様がこうして今、隣に寄り添ってくれたことが、ただひたすら嬉しかった。
そして、それから数日後。
ついに問題のヴァネッサ嬢と会う機会が私に訪れることに───……
167
お気に入りに追加
5,883
あなたにおすすめの小説
婚約者が他の女性に興味がある様なので旅に出たら彼が豹変しました
Karamimi
恋愛
9歳の時お互いの両親が仲良しという理由から、幼馴染で同じ年の侯爵令息、オスカーと婚約した伯爵令嬢のアメリア。容姿端麗、強くて優しいオスカーが大好きなアメリアは、この婚約を心から喜んだ。
順風満帆に見えた2人だったが、婚約から5年後、貴族学院に入学してから状況は少しずつ変化する。元々容姿端麗、騎士団でも一目置かれ勉学にも優れたオスカーを他の令嬢たちが放っておく訳もなく、毎日たくさんの令嬢に囲まれるオスカー。
特に最近は、侯爵令嬢のミアと一緒に居る事も多くなった。自分より身分が高く美しいミアと幸せそうに微笑むオスカーの姿を見たアメリアは、ある決意をする。
そんなアメリアに対し、オスカーは…
とても残念なヒーローと、行動派だが周りに流されやすいヒロインのお話です。
【完結】仰る通り、貴方の子ではありません
ユユ
恋愛
辛い悪阻と難産を経て産まれたのは
私に似た待望の男児だった。
なのに認められず、
不貞の濡れ衣を着せられ、
追い出されてしまった。
実家からも勘当され
息子と2人で生きていくことにした。
* 作り話です
* 暇つぶしにどうぞ
* 4万文字未満
* 完結保証付き
* 少し大人表現あり
【完結】側妃は愛されるのをやめました
なか
恋愛
「君ではなく、彼女を正妃とする」
私は、貴方のためにこの国へと貢献してきた自負がある。
なのに……彼は。
「だが僕は、ラテシアを見捨てはしない。これから君には側妃になってもらうよ」
私のため。
そんな建前で……側妃へと下げる宣言をするのだ。
このような侮辱、恥を受けてなお……正妃を求めて抗議するか?
否。
そのような恥を晒す気は無い。
「承知いたしました。セリム陛下……私は側妃を受け入れます」
側妃を受けいれた私は、呼吸を挟まずに言葉を続ける。
今しがた決めた、たった一つの決意を込めて。
「ですが陛下。私はもう貴方を支える気はありません」
これから私は、『捨てられた妃』という汚名でなく、彼を『捨てた妃』となるために。
華々しく、私の人生を謳歌しよう。
全ては、廃妃となるために。
◇◇◇
設定はゆるめです。
読んでくださると嬉しいです!
彼を追いかける事に疲れたので、諦める事にしました
Karamimi
恋愛
貴族学院2年、伯爵令嬢のアンリには、大好きな人がいる。それは1学年上の侯爵令息、エディソン様だ。そんな彼に振り向いて欲しくて、必死に努力してきたけれど、一向に振り向いてくれない。
どれどころか、最近では迷惑そうにあしらわれる始末。さらに同じ侯爵令嬢、ネリア様との婚約も、近々結ぶとの噂も…
これはもうダメね、ここらが潮時なのかもしれない…
そんな思いから彼を諦める事を決意したのだが…
5万文字ちょっとの短めのお話で、テンポも早めです。
よろしくお願いしますm(__)m
私が愛する王子様は、幼馴染を側妃に迎えるそうです
こことっと
恋愛
それは奇跡のような告白でした。
まさか王子様が、社交会から逃げ出した私を探しだし妃に選んでくれたのです。
幸せな結婚生活を迎え3年、私は幸せなのに不安から逃れられずにいました。
「子供が欲しいの」
「ごめんね。 もう少しだけ待って。 今は仕事が凄く楽しいんだ」
それから間もなく……彼は、彼の幼馴染を側妃に迎えると告げたのです。
【完結】私、殺されちゃったの? 婚約者に懸想した王女に殺された侯爵令嬢は巻き戻った世界で殺されないように策を練る
金峯蓮華
恋愛
侯爵令嬢のベルティーユは婚約者に懸想した王女に嫌がらせをされたあげく殺された。
ちょっと待ってよ。なんで私が殺されなきゃならないの?
お父様、ジェフリー様、私は死にたくないから婚約を解消してって言ったよね。
ジェフリー様、必ず守るから少し待ってほしいって言ったよね。
少し待っている間に殺されちゃったじゃないの。
どうしてくれるのよ。
ちょっと神様! やり直させなさいよ! 何で私が殺されなきゃならないのよ!
腹立つわ〜。
舞台は独自の世界です。
ご都合主義です。
緩いお話なので気楽にお読みいただけると嬉しいです。
【完結】初恋相手に失恋したので社交から距離を置いて、慎ましく観察眼を磨いていたのですが
藍生蕗
恋愛
子供の頃、一目惚れした相手から素気無い態度で振られてしまったリエラは、異性に好意を寄せる自信を無くしてしまっていた。
しかし貴族令嬢として十八歳は適齢期。
いつまでも家でくすぶっている妹へと、兄が持ち込んだお見合いに応じる事にした。しかしその相手には既に非公式ながらも恋人がいたようで、リエラは衆目の場で醜聞に巻き込まれてしまう。
※ 本編は4万字くらいのお話です
※ 他のサイトでも公開してます
※ 女性の立場が弱い世界観です。苦手な方はご注意下さい。
※ ご都合主義
※ 性格の悪い腹黒王子が出ます(不快注意!)
※ 6/19 HOTランキング7位! 10位以内初めてなので嬉しいです、ありがとうございます。゚(゚´ω`゚)゚。
→同日2位! 書いてて良かった! ありがとうございます(´°̥̥̥̥̥̥̥̥ω°̥̥̥̥̥̥̥̥`)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる