35 / 39
第31話 ②
しおりを挟むノートヴォルトは返事もせず演奏を始めてしまった。
背中にチェロの膨らみのある音を受けつつ、努めて冷静に、何事もなかったかのように、静かに扉を開け、外に出るとそっと閉めた。
数歩だけ冷静を装い続け歩いた後、トイレまで全力疾走した。
コンサートホールの控室など誰も来ないだろうが、廊下の先にあるトイレの個室に駆け込むと、深呼吸する。
反則だ。あの顔は反則。どうしよう、だめだ、かっこいい、顔だけはかっこいい。
落ち着け。6年間気にしたこともなかったじゃない。
吸って、吐いて、はいゆっくりー
なんで今になって。
なんで今更こんなことに!?
待って、落ち着け、先生のデスクを思い出すんだ。あのだらしなさ。
ローブだってよれよれだし、いつ洗ってるかわかんないし。
シャツも不思議なにおいしたし。
シャツ…先生のシャツを着てしまったんだ。
ちがうちがうちがう、おちつけーー。
カチャリ。
個室の鍵を開け、誰もいないとわかっているトイレの様子を隙間から伺う。
よし、誰もいない。
無駄に手を洗い、無駄に顔を洗うと、ポケットのハンカチはびしょびしょになってしまった。
「いいのは顔だけ。そう、他はダメ。日常生活が壊滅的すぎる。大丈夫。練習に集中しよう、集中」
そもそも顔がいいからって急になんなんだ。
私も頭が緩いな。
宮廷魔術師にキャーキャー言ってる最前列女子と変わらないじゃない。
あの女子たち、あの魔術師並に先生が整ってると知ったら……
廊下を歩いて戻り控室の扉を開けると、教授は演奏の終わり部分を弾いていた。
邪魔しないようにグラスハープに戻り、びしょびしょのハンカチは鞄の上に広げた。
練習しよう。
指先に魔力を巡らし、自分の動揺が流れていないか確認する。
よし、大丈夫そう。
乱れた魔力で演奏なんかしたら何言われるか分からない。
真ん中のグラスの淵に指を置き、すっと撫でると透明な音が鳴った。
そのまま譜面の初めから弾き始める。
比較的軽快に始まったのも束の間、メロディは急に不穏になる。
悲し気な響きが続き、こと切れてしまいそうな高音が続いた後、長い低音が命の灯を消してしまうように余韻を響かせ終わる。
「ラストの高音、全く出来ていない」
「わあぁっいつの間に前に!?」
(目は暗い緑だったんだ)
「…ラストの高音」
「はい、すみません。これ3和音じゃないですか。左手はずっと低音だし、親指がうまく当たらないんです」
「配置を変えるんだ。使う和音ごとに並べておけば出来る」
「そんな簡単に言い切らないで下さいよ」
「出来る。出来ないと思われるからこそやる意味がある」
そう言うと教授は高音のいくつかのグラスの配置を変えた。
そしてコールディアの隣に立つと、弾いて見せる。
グラスが赤く光り、透明な音が重なった。
「これなら指も届く」
「あれ…どうして光り方が違うんですか」
コールディアがすっとグラスを撫でると、淡く青く光る。
だが今教授が鳴らした時は赤だった。
「マギアフルイドは保持する魔力量で発色が変わる」
「そうだったんですね。以前見た演奏は私の青に近い色だったんで、皆そういうものかと思ってました」
それからいつも通りの指導が始まった。
コールディアもいつしか没頭し、教授の表現を再現しようと夢中になった。
この無心に譜面にのめり込む時間は好きだった。
初見で音符を追うだけだった演奏に徐々に色が付き、情景が広がり、物語が膨らむ。
この楽しいだけではない苦悩する練習の先にある1つの世界を想像すると、興奮にも似たある種のゾーンに入る。その感覚がたまらなかった。
その世界に到達するために、ノートヴォルトからの厳しい指導が入る。
――違う、丁寧に繋ぐんだ。音を1個ずつブツ切れで並べるんじゃない。
――スタッカートはもっと切って。君のはターアータンタン。欲しいのはターアータッタ。コモンには無理でも魔奏なら出来る。違いを魅せるところだ。
――まだ弱い、もっと強くていい。流す魔力を少しだけ上げて…やりすぎだ、魔律が変わってしまう。
指摘される度に魔力量、指の動き、グラスへの当て方…それらを調節し応えようとする。
時間はあっという間に1時間を過ぎ、小休憩を挟んで1度合わせることにした。
椅子に座って、指を閉じたり開いたりして動かす。
魔力をずっと纏わせていると熱を持ったような感覚になるので、手をひらひら振って冷ますようにするのが休憩時の癖だった。
パタパタしながら、チェロを鳴らす教授を眺めそうになり、やっぱり目を逸らした。
「先生、なんで髪を結ったんですか」
「髪? 弦に挟まる」
「…なるほど」
結局チェロを準備する教授をちらちら眺めつつ、短い休憩を終えるとまたグラスハープの前に立つ。
(いつも猫背なのに、チェロの時は姿勢いいんだ)
猫背は伸ばしても猫背だろうと思っていたが、思いのほか伸ばした背筋はまっすぐで、チェロを構えた様子は優美と言えた。
そしてそのまま視線は自然と弦を押さえる左手にいってしまう。
ピアノの時にもつい見てしまうこの手元が、実は彼女は昔から好きだった。
男性の手なのにすらっと伸びていて指先が美しい。
それこそ魔法のように動くあの指先で生み出される音が好きで、その音を生む手も好きなのだ。
83
お気に入りに追加
4,811
あなたにおすすめの小説
いつか彼女を手に入れる日まで
月山 歩
恋愛
伯爵令嬢の私は、婚約者の邸に馬車で向かっている途中で、馬車が転倒する事故に遭い、治療院に運ばれる。医師に良くなったとしても、足を引きずるようになると言われてしまい、傷物になったからと、格下の私は一方的に婚約破棄される。私はこの先誰かと結婚できるのだろうか?
とまどいの花嫁は、夫から逃げられない
椎名さえら
恋愛
エラは、親が決めた婚約者からずっと冷淡に扱われ
初夜、夫は愛人の家へと行った。
戦争が起こり、夫は戦地へと赴いた。
「無事に戻ってきたら、お前とは離婚する」
と言い置いて。
やっと戦争が終わった後、エラのもとへ戻ってきた夫に
彼女は強い違和感を感じる。
夫はすっかり改心し、エラとは離婚しないと言い張り
突然彼女を溺愛し始めたからだ
______________________
✴︎舞台のイメージはイギリス近代(ゆるゆる設定)
✴︎誤字脱字は優しくスルーしていただけると幸いです
✴︎なろうさんにも投稿しています
私の勝手なBGMは、懐かしすぎるけど鬼束ちひろ『月光』←名曲すぎ
踏み台令嬢はへこたれない
IchikoMiyagi
恋愛
「婚約破棄してくれ!」
公爵令嬢のメルティアーラは婚約者からの何度目かの申し出を受けていたーー。
春、学院に入学しいつしかついたあだ名は踏み台令嬢。……幸せを運んでいますのに、その名付けはあんまりでは……。
そう思いつつも学院生活を満喫していたら、噂を聞きつけた第三王子がチラチラこっちを見ている。しかもうっかり婚約者になってしまったわ……?!?
これは無自覚に他人の踏み台になって引っ張り上げる主人公が、たまにしょげては踏ん張りながらやっぱり周りを幸せにしたりやっと自分も幸せになったりするかもしれない物語。
「わたくし、甘い砂を吐くのには慣れておりますの」
ーー踏み台令嬢は今日も誰かを幸せにする。
なろうでも投稿しています。

愛人をつくればと夫に言われたので。
まめまめ
恋愛
"氷の宝石”と呼ばれる美しい侯爵家嫡男シルヴェスターに嫁いだメルヴィーナは3年間夫と寝室が別なことに悩んでいる。
初夜で彼女の背中の傷跡に触れた夫は、それ以降別室で寝ているのだ。
仮面夫婦として過ごす中、ついには夫の愛人が選んだ宝石を誕生日プレゼントに渡される始末。
傷つきながらも何とか気丈に振る舞う彼女に、シルヴェスターはとどめの一言を突き刺す。
「君も愛人をつくればいい。」
…ええ!もう分かりました!私だって愛人の一人や二人!
あなたのことなんてちっとも愛しておりません!
横暴で冷たい夫と結婚して以降散々な目に遭うメルヴィーナは素敵な愛人をゲットできるのか!?それとも…?なすれ違い恋愛小説です。
※感想欄では読者様がせっかく気を遣ってネタバレ抑えてくれているのに、作者がネタバレ返信しているので閲覧注意でお願いします…

人の顔色ばかり気にしていた私はもういません
風見ゆうみ
恋愛
伯爵家の次女であるリネ・ティファスには眉目秀麗な婚約者がいる。
私の婚約者である侯爵令息のデイリ・シンス様は、未亡人になって実家に帰ってきた私の姉をいつだって優先する。
彼の姉でなく、私の姉なのにだ。
両親も姉を溺愛して、姉を優先させる。
そんなある日、デイリ様は彼の友人が主催する個人的なパーティーで私に婚約破棄を申し出てきた。
寄り添うデイリ様とお姉様。
幸せそうな二人を見た私は、涙をこらえて笑顔で婚約破棄を受け入れた。
その日から、学園では馬鹿にされ悪口を言われるようになる。
そんな私を助けてくれたのは、ティファス家やシンス家の商売上の得意先でもあるニーソン公爵家の嫡男、エディ様だった。
※マイナス思考のヒロインが周りの優しさに触れて少しずつ強くなっていくお話です。
※相変わらず設定ゆるゆるのご都合主義です。
※誤字脱字、気を付けているつもりですが、やはりございます。申し訳ございません!
どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。

完】異端の治癒能力を持つ令嬢は婚約破棄をされ、王宮の侍女として静かに暮らす事を望んだ。なのに!王子、私は侍女ですよ!言い寄られたら困ります!
仰木 あん
恋愛
マリアはエネローワ王国のライオネル伯爵の長女である。
ある日、婚約者のハルト=リッチに呼び出され、婚約破棄を告げられる。
理由はマリアの義理の妹、ソフィアに心変わりしたからだそうだ。
ハルトとソフィアは互いに惹かれ、『真実の愛』に気付いたとのこと…。
マリアは色々な物を継母の連れ子である、ソフィアに奪われてきたが、今度は婚約者か…と、気落ちをして、実家に帰る。
自室にて、過去の母の言葉を思い出す。
マリアには、王国において、異端とされるドルイダスの異能があり、強力な治癒能力で、人を癒すことが出来る事を…
しかしそれは、この国では迫害される恐れがあるため、内緒にするようにと強く言われていた。
そんな母が亡くなり、継母がソフィアを連れて屋敷に入ると、マリアの生活は一変した。
ハルトという婚約者を得て、家を折角出たのに、この始末……。
マリアは父親に願い出る。
家族に邪魔されず、一人で静かに王宮の侍女として働いて生きるため、再び家を出るのだが………
この話はフィクションです。
名前等は実際のものとなんら関係はありません。
【完結】愛を知らない伯爵令嬢は執着激重王太子の愛を一身に受ける。
扇 レンナ
恋愛
スパダリ系執着王太子×愛を知らない純情令嬢――婚約破棄から始まる、極上の恋
伯爵令嬢テレジアは小さな頃から両親に《次期公爵閣下の婚約者》という価値しか見出してもらえなかった。
それでもその利用価値に縋っていたテレジアだが、努力も虚しく婚約破棄を突きつけられる。
途方に暮れるテレジアを助けたのは、留学中だったはずの王太子ラインヴァルト。彼は何故かテレジアに「好きだ」と告げて、熱烈に愛してくれる。
その真意が、テレジアにはわからなくて……。
*hotランキング 最高68位ありがとうございます♡
▼掲載先→ベリーズカフェ、エブリスタ、アルファポリス
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる