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166. それはホラー

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「……お兄様、私は今、元気いっぱいに生きていますわ?」
「知っとるわ!  フルールは生命力の塊みたいなものじゃないか!」
「生命力のかたまり?」

 何故か怒られてしまったわ。
 では、その事件とやらはなんのこと?
 そんな物騒で大騒ぎになりそうなことあったかしら……?

 お兄様はやれやれと肩を竦める。
 そしてポツリと語り出した。

「初めての刺繍で俺のために“おにーさま”の刺繍をハンカチにしたフルールは」
「……私は?」
「俺が喜んだのがとても嬉しかったのだろう。もっとやりたいと言い出した」

(……覚えてないわね?)

 オリアンヌお姉様が確認する。

「つまり、フルール様は刺繍ばかりするようになったということ?」
「そう。我が家のハンカチ全てを引っ張り出して“おにーさま”と刺繍しようとしたり、とかな」
「え……全て?」

 私が聞き返すとお兄様は苦笑しながら頷いた。

「全て、だ。“全部、私がおにーさまにして差し上げますわ!”  とかわけのわからないことを言い出して…………それはそれは満面の笑みだったな」
「……」
「ちなみに、その時のフルールは“おにーさま”と刺繍するのが精一杯だった」
「自分の名前よりも真っ先にアンベールのことを……!」

 オリアンヌお姉様が感動している。

(……覚えてないわね?)

 私はうーんと唸った。

「だが、そんなことは後に起きた事件を思えば可愛いものだ……」

 そう言って再び遠い目をするお兄様。
 あの事件とは?
 いったい何が?
 私とオリアンヌお姉様は真剣な表情で話の続きを待つ。

「なんとか説得し、シャンボン伯爵家にある全てのハンカチをおにーさまにすることはなんとか阻止したものの、それが余計にフルールの刺繍への情熱を強くしてしまった」
「あら、お兄様。阻止したのですね?」
「当たり前だ。だから、おにーさまと刺繍された宝物のハンカチはこの世にあれ一枚のみだ!」

 お兄様がキリッとした表情でかっこいいことを言っているけれど、記憶のない身としては早く続きを語って欲しいところ。

「一度は断念したが再び、フルールは刺繍に取り組むことにした」

 さすが私!  諦めが悪いわね!

「だがしかし!  まあ、知っての通り、残念なことにフルールはとにかく不器用だった」
「ええ……」
「あの、おにーさまハンカチも指導者がいてくれたから完成出来たようなもの」

(不器用……)

 本当に不思議。
 レース編みでコースターを作ったはずなのに……謎の物体Xが出来上がっていたんですもの。

(でも、アニエス様は喜んでくれたし……ふふ)

 ───こんな、とんで……凄い物を作り出す人には初めて出会いました……
 そう言ってくれたものね!
 私は大親友が真っ赤になって興奮していた顔を思い出して笑ってしまう。

「フルール?  何を笑っている?」
「ふふ、あ、いえ……」
「──そして、あの日…………始まりは使用人の叫び声だった」
「!」

 私とオリアンヌお姉様がゴクリと唾を飲み込む。
 とはいえ、不器用な私が引き起こした血だらけ事件と聞けば、なにがあったかは何となく察せられる。

(そうね、きっと私は刺繍しながら刺繍針で指をグサッと……)

「フルールお嬢様が血をダラダラ流しながら楽しそうに笑っているぅぅぅーーーーという叫び声だった」

(……ん?)

 私とオリアンヌお姉様は顔を見合せた。

「まだまだ子どもですけど、もう一人でもやれますわ!  そう豪語したフルールは一人で刺繍に挑んでいたらしいのだが……まあ、うっかり刺繍針でグサッと……な」
「え?  それよりアンベール、笑っているって……え?  フルール様、なんで笑って……え?」

 お兄様は混乱するオリアンヌお姉様の肩をポンポンと叩くと言った。

「落ち着け、オリアンヌ」
「で、でも……怖い、血が……」
「……手って思っていたより血が出るだろ?  どうも、フルールにはそれが面白かったみたいで、な。それで……」

(思っていたより血が…………あ!)

「───お兄様、思い出しましたわ!!」
「……フルール」

 ようやく思い出した。
 刺繍していた時の怪我だったという記憶は薄らだけど、何かで血を流したことだけは覚えているわ。
 そう。痛みより何よりまず、垂れた血でドレスが赤く染まるのが面白く思えて……
 そして、その血が流れ出ている手で自分の顔とか身体をペタペタ触りまくって……

「そうだ。結果的に顔や身体に血を塗ったくって楽しそうに笑うフルールが……そこにいた!」
「ホラーーーー!  それ、どう見てもホラーじゃない!」

 咄嗟にオリアンヌお姉様が顔を真っ青にして叫ぶ。
 お兄様が同調したように渋い顔になった。

「ああ。使用人の叫び声で俺がフルールの部屋に駆け付けた時、フルールはすでに笑顔で自分の血を身体中に塗ったくって血だらけだったからな」
「こ……怖いわ、アンベール」
「まるでその辺の人間を血祭りにあげて顔や身体に返り血を浴びたあと……そう疑いたくなる様子だったよ。しかも楽しそうに笑っているんだ……」
「血祭り?  嫌ですわねお兄様ったら。さすがに私、そんな物騒なことは出来ませんわ」

 私は首を振る。
 そんな暴力的なことは無理よ。

「そういう問題じゃないんだよ!  フルール……」
「そうなのですか?」

 お兄様がクワッと目を大きく見開く。

「それより、なんでお前は今の今までこの事件を忘れていたんだよ!」
「あ……」

 そう問われて私は自信満々に答えた。

「顔や身体、ドレスを赤くすることが楽しくなって痛みのことなんてすっかり忘れていたからですわね!」

 なので、あの流れた血を塗ったくった件と刺繍のことが全く私の中で結びつかなかったわ!

「慌てて止血したのでそれ以上の大事にはならなかったが……この件で俺たちはフルールから刺繍を取り上げる決断をせざるを得なかった」
「ええ。その気持ち分かるわ、アンベール……危ない」
「分かってくれるのか、オリアンヌ……ありがとう」

(仲良し!!)

 ギュッと寄り添う二人を見てとても微笑ましい気持ちになった。

「でもアンベール、それからフルール様は刺繍したいと言い出すことはなかったの?」

 そんなオリアンヌお姉様の疑問にお兄様はこう答えた。

「だから、俺たちは早急にフルールには刺繍以外に夢中になれることを提供しなくてはならなかった」
「そう、よね……」
「そこで白羽の矢を立てたのが、“本”だった」
「本?  つまり読書?」

 お兄様は頷く。
 なるほど!  ここで私は読書の趣味を手にすることになったのね!
 自分のことのはずなのに、他人の歴史を紐解くように私は納得した。

「とにかくフルールの好きそうな話を……と考えて色々集めてな。妄想好きのフルールになら読書は合う気がしたんだ」
「なるほどね!  それで上手くフルール様の刺繍への気を逸らせ……」
「それが──……」

 感心するオリアンヌお姉様の言葉になぜかお兄様は複雑そうに笑う。

「刺繍への気を逸らすことには無事に成功したが……読書はフルールの中での新しい扉を開かせてしまったから成功とは言い難い」
「新しい扉?」

 不思議そうなオリアンヌお姉様にお兄様が説明する。

「色んなジャンルの本を与えたが、その時のフルールが最も目を輝かせて喰いついたのは……大人でも読むと心が抉られる程の愛と陰謀が大きく渦巻くドロドロ物語だった」
「ドロドロ!」

 オリアンヌお姉様が、ひゅっと息を呑んだ。
 お兄様は、ははは……と力なく笑い、肩を落とし遠い目をしながら言った。

「あれから十年は経ったが、俺には今でも正解が分からない……」
「アンベール!  大丈夫!  あなたも伯爵家の皆様も頑張ったわ!」
「オリアンヌ……」

 この時、抱き合う二人を見ながら私は、すでに全然違うことを考えていた。

(今更だけど……最強の公爵夫人を目指すのに刺繍が出来ないのってダメじゃない?)

 これは───ダンスと一緒ね!
 努力を重ねればきっと刺繍もレース編みも、皆が涙を流してひれ伏すくらいの腕前になれるはず。

(よし!)

 公爵家に戻ったら、リシャール様に刺繍もやりたいと相談よ!


 ───相談された愛する夫が、別の意味で涙を流すことになるのをこの時の私は知らない。

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