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26. あなたの名前を……
しおりを挟む「……帰るぞ」
「殿下?」
フレイヤに振られたとなどと言われ、大きなショックを受けた様子のエイダンは悔しそうな表情を浮かべてそう口にした。
「───私は今すぐ王都に帰る!」
「殿下! な、何を……そ、それは無茶です!」
「そうですよ! この後の他領への視察の予定はどうするのですか!」
エイダンのその発言に驚いたのはギャレットだけではない。エイダンの側近たち(既に瀕死)も驚いた。必死に説得しようとするけれどエイダンは引かなかった。
「いいから、帰ると言っている! 黙って私の言うことを聞け! お前たち、早く支度をしろ!」
エイダンの心の中はフレイヤへの怒りでいっぱいだった。
(フレイヤめ! この私をコケにしたこと。絶対に許さん!)
「───で、殿下! お待ちくださいぃぃぃーー!」
「ふん! 失礼する!」
非常識だった訪問時と同様に慌ただしくバタバタと出ていくエイダンと側近たちの後ろ姿を見送りながらギャレットは思う。
(殿下は思っていたよりもフレイヤに執着しているな……)
おそらく、その感情は愛だの恋だのでは無いのだろうが、心の中でフレイヤは“自分の物”だという認識も強いのだろう。
だが。大事な可愛い可愛い妹、フレイヤに何かあっては困る。
「───そういえば、殿下がご執心の妙ちくりんな名前の男爵令嬢の素性は分かったのか?」
ギャレットはそばに控えていた家令に訊ねる。
父上に付き合ってこの道四十年のベテランはそろそろ素性も調べ終えた所だろう。
「先程は俺もうろ覚えすぎてドロンコ、と口にしてしまったが……父上が手紙に書いていたのは何だったか……ドンブラコだったか?」
「ブホッ………し、失礼。ギャレット様……私は今、猛烈に……あ、あなた様が旦那様の息子だと心の底から実感してお、おります……」
「そうか?」
家令が口元を抑えて肩を震わせながら、ギャレットに報告者を渡す。
父上の息子だと実感? 突然何を言っているのだろうと思いながら、ギャレットはその報告書を受け取った。
「…………ベリンダ・ドゥランゴ男爵令嬢だったか」
ギャレットは心の中でなかなか惜しかったなと思いながら、続きの内容に目を通す。
「これといって何か特徴がある家では無さそうだ……強いて言うなら金に困っているようではあるが……つまりこれは金狙いか?」
王太子に見初められた事で、有頂天になり王妃になって贅沢したい!
その程度の軽い思いなのだろうか。
「そうなると───権力狙いの典型的な阿呆な女だな。阿呆なエイダン殿下とはとてもお似合いだとは思うが」
(ふざけるな。フレイヤがどんな思いで王妃教育を十何年も受けて来たと思ってる?)
阿呆に成り下がったエイダン殿下に阿呆な令嬢……こんなのがフレイヤの周りをチョロチョロしているのか……
「……俺も久しぶりに王都に向かうとするか」
「え? ギャレット様?」
「どうやら阿呆王子も王都に戻るようだし……フレイヤの味方は多い方がいいだろう?」
ギャレットはどこか意味深に微笑んだ。
だが、ギャレットのシスコンぶりをよく知っている家令は呆れた目を向けながらすかさず訊ねる。
「……ギャレット様。とてもかっこいいことを口にされておりますが…………その本音は?」
「───決まっている! 久しぶりにフレイヤに会える口実が出来た、だ!」
「…………本っ当に旦那様、そっくりでございますね」
「そうか?」
ギャレットは家令の言葉に不思議そうに首を傾げる。
(そっくり? 俺の目は糸目じゃないぞ?)
「……それに、フレイヤの夫という幸運を手に入れた第一王子にも挨拶をしておきたいじゃないか」
「あ、挨拶……さ、左様で御座いますか……」
家令の顔が引き攣る。
「ああ。どんなにフレイヤが可愛くても正式な結婚までは清く正しく節度ある関係を……と、よーく言い聞かせておかないといけないだろう? フレイヤはとにかく可愛いからね」
「ギャレット様……」
家令は会ったことのない第一王子に心から同情した。
そして……そんなシスコン兄の重い妹への愛が届いたのか───
「────クシュッ!」
「シオン殿下? 大丈夫ですか?」
「大……ハックシュン! クシュン! クシュッ」
夜、私の部屋を訪ねてきたシオン殿下。
だけど突然、この間の私みたいに突然のくしゃみに襲われてしまった。
止まってくれなくて苦しそう。
「何故だ……こ、今度は……ぼく……クシューーン」
「シオン殿下……は、話し合いは明日にしましょうか……」
私は殿下の隣に移動して背中をさする。
これ、辛いのよね……とっっっても分かるわ。
「ご、ごべ……グシュンッ……うぅ……何だこれ……」
珍しくシオン殿下が目に涙を浮かべている。
こんな時なのにそんな無防備な姿に胸がキュンとした。
「───私達の婚約が発表になりましたから各地で噂されているのかもしれませんね」
「クシュッ!」
「ふふ、案外、エイダン様が耳にして騒いでいるのかも」
「……想像がつくね」
エイダン様はおそらく慌てて王都に戻ってくるだろう。そして必ず文句をつけてくる。
文句をつけた所で、私がエイダン様の側妃になる事が不可能なのは変わらないのに。
(私はシオン殿下の妃として生き…………あ!)
「───あ、あの!」
「……クシュン! そんな真面目な顔つきになってどうしたの?」
「そ、その……えっと……」
「フレイヤ?」
私は照れていた。
世間にも発表され、私達は正式に“婚約者”となった。
なので……そろそろいいのでは?
「あ、あのですね、よ、よよよ……」
「よよよ?」
「よ、呼び方を……」
「呼び方?」
殿下は挙動不審な私の様子を見て不思議そうな顔をしている。
私は、頬に熱が集まっているのを感じながら声を張り上げた。
「───シ、シオン様っ!」
「え!」
「………………と、お、呼びしても、よ、よろしい……でしょうか?」
「……」
シオン殿下は目をパチクリさせて私を凝視している。
そんなに驚く? ダメだった? 婚約者と言えど厚かましかった?
(“殿下”と呼ぶのは距離を感じてしまって寂しくなるんだもの……でも)
「……だ、ダメなら今まで通りに殿下と──……」
「だだだだ、ダメなもんか!!」
そう言ってシオン殿下……いえ、シオン様は私を抱きしめた。
「!?」
「よ、呼んでくれ……いや、呼ばれたい……よ、呼んでください……ぜひ!」
「シ……オン様?」
要求が凄かったので、私がおそるおそるそっと口にすると、シオン様は嬉しそうな笑顔を見せた。
「───うん」
「シオン……様」
「フレイヤ……」
「……シオンさま」
「フレイヤ」
(どうしましょう……すごく胸がくすぐったい!)
名前を呼び合うだけでこんなに幸せな気持ちになれるなんて知らなかった。
嬉しくて幸せで私はギュッとシオン様に抱きついた。
「フレイヤ!?」
(私、ずっとあなたの隣でこうしていたい……)
「シオン様! 絶対に絶対にあの人たちを蹴散らしましょうね!」
「フレイヤ……」
シオン様の手がそっと私の頬に触れる。
そして私達はじっと互いを見つめ合う。
やがて、シオン様の顔が近付いてきた!? と思ったら、シオン様はそっと私の前髪に手をかけた。
「シオ……な、にを───?」
私がそう口にしたと同時に、シオン様が私の額にチュッとキスを落とした。
(───!?)
唇を離したシオン様は甘い微笑みを私に向ける。
その微笑みの破壊力が凄すぎて私は心臓が口から飛び出すのでは? というくらいの衝撃を受けた。
(ひゃああああーーーー)
「───僕にはフレイヤがいてくれるからね、絶対に大丈夫だ」
「あ、あぅ……あぅ……」
「ありがとう、フレイヤ」
「あぅ……」
突然のキスに脳内が大混乱を起こし語彙力皆無となった私はその後、恥ずかしさのあまりシオン様に何を言われても「あぅ……」としか答えられなくなってしまった。
◆◇◆
それから、数日後。
シオン様に翻弄されながらも、陛下の退位とエイダン様の廃嫡に向けた準備を着々と進めていたその日。
遂に───エイダン様が視察を終えて(本当は終えてない)
王都に戻って来た。という報告を受けた。
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