メサイアの劣等

すいせーむし

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一章 仮面の少年

14話 底へ

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「僕が、僕が殺したんだ…あぁ…」

 まだ、手に残っている。生暖かい液体の、お母さんを刺し殺したナイフを握る感覚が。
 手を振り回しても離れない、離れない、離れてくれない。

「チヨ、どうしたの?」

「あぁ、僕の、ぼくのせいだ。お母さん…ごめんなさい…お母さん…」

 僕は体制を崩して前方へ倒れ込み、階段を数段転げ落ちる。
 きっと、痛かったはずだ。でも、そんなことはどうでもいいと思えるくらい、罪悪感と絶望感にぼくの心は蝕まれていた。
 お母さんは、もっといたかったはずだ。もっとくるしかったはずだ。おまえが、おまえがおまえがおまえがおまえが。おまえが、ころしたんだ。

「」

 自分を追い詰める自分の声に、何もかも飲み込まれていく。もう、ぼくのみみはきのうしていない。

「」

 ただ、責め立てる声を聞かないように精一杯耳を塞ぎ、縮こまるしかなかった。

「」

 だから、彼女の声はひとつもぼくにとどかない。涙で視界も遮られ、ぼくは絶望と対面し続けるしかなくなっていた。
 その時だった。
 ふわりとなにかがぼくの頭を包み込んだ。

「あ、え…?」

 いやなかんじはしなかった。それどころか、むしろ心が癒えるような、そんな感じがした。
 それに身を任せていると、ぼくを糾弾するぼくの声は徐々に小さくなり、いつからか「とくんとくん」という、安心する音色が僕の耳に流れ込んでいた。
 それは規則的に鳴り響き、僕を落ち着かせてゆく。そうして、やっと包み込んだ何かの正体に気づいた。

「う、つつ?」

 ゆっくりと顔をあげる。そこには、相変わらず表情の読めないウツツの顔があった。
 どうやら、僕は彼女に抱きしめられているらしい。その状況にゆっくりと気づき出した僕は、恥ずかしさやら情けなさでその場から離れようとしたが、力が入らずうまくいかない。それに、ウツツは僕を大事に抱きしめているようで簡単に抜け出すことも敵わなかった。
 ウツツは、涙を流して顔を真っ赤にする僕を見つめたまま、右手でゆっくりと僕の頭をかき撫でる。

「大丈夫。大丈夫だよ」

 彼女はそう言って、何度も何度も僕を撫でた。
 僕はそのうち、絶望も恥ずかしさも情けなさも忘れて、何か懐かしさを感じながら、彼女にされるがままになった。
 それから数分して、やっと僕は解放される。

「どう、落ち着いた?」

「えっと…うん。ごめん、ありがとう」

「そっか。よかった」

 相変わらず表情は変わらないが、彼女が安心してくれたことはなんとなく分かった。
 そこで先ほどの羞恥が蘇る。それを払拭するために、僕は彼女に問いかけた。

「それにしても、ウツツ。なんで、ハグだったの?」

 他にも、落ち着くまで待つとか色々と手段はあったはずだ。それなのに、彼女はおかしくなった僕を前にして、抱きしめるという行動を起こした。その原因がなんとなく気になって、聞いてしまった。
 彼女は考え込みながら口を開く。

「昔、そうしてもらった…から?」

 首を傾げての回答に、僕も首を傾げてしまう。

「昔?ってことは、病院に来る前ってこと?」

「分からない」

 もしかしたら、彼女の記憶の断片なのかもしれない。
 それは、羨ましいと思う。
 だからだろうか。これ以上、聞き出そうとは出来なかった。もしも、彼女の記憶が戻ったら、僕と一緒にはいてくれなくなるような、そんな気がして。

「そっか」

 一言だけ返して、それ以上その話を広げる事はなかった。

          ◇

 階段には、瓦礫のようなものが散乱しており、行手を妨害している。
 それを躱しながら、僕と彼女は手を繋ぎ、階段を下った。
 それにしても、先程見聞きした光景。あれはきっとシュウ君の記憶だ。
 今までみたよりも、より長く鮮明なモノだった。一部、ノイズがかって何も分からない記憶もあったが、シュウ君の絶望を見える事ができた。
 ただ、長い間彼の記憶を辿ったせいか、自分が自分じゃなくなってしまったように感じた。
 もしも、ウツツがいなければ、僕はそのままぼくとして未だ、もがき苦しんでいたはずだ。
 あの不安は。あの恐怖は。シュウ君の感じていた事に違いない。
 あんな思いを一人の少年が抱えていていいはずがない。

「絶対に、助けなきゃ」

 精神世界に飛び込んだ時よりも、さらに、決意を固める。
 僕の独り言は思っていたよりも大きかったようで、ウツツが僕の方を見上げて一言。

「無理しないでね」

 それは無理な約束だった。でも、もう、彼女に慰められないと再起不能になるような失態を繰り返す訳にはいかない。

「頑張ってみるよ」

 無理をしない努力はすると、僕は彼女に誓う。
 その答えに彼女はこくりと頷き、階下に目を向けた。
 僕も彼女に釣られて下を見る。階段は終わりが見えず、気が遠くなる。
 しかし、あれだけ鮮明にシュウ君の記憶を見たのだ。きっと、この先には必ずシュウ君の病気を治すための手がかりがある。
 止まるわけにはいかないと、僕達は下る。
 そんな時、階段の上の方から、何かが聞こえた。

「え?」

 僕は振り返り、見上げる。特に、何ら変化はない。

「どうしたの?」

「いや、何か聞こえた気がして…」

 ウツツは首を傾げる。どうやら、彼女には聞こえていなかったようだ。
 もしかしたら、僕の気のせいだったのかもしれないと、視線を下に戻した時、ぐらりと体が傾いた。

「うわっ!」

 そうして、階段から転げ落ちそうになったのを何とかウツツに支えられ、躓き3段ほど滑り落ちる程度で済んだ。
 しかし、そんな彼女も、転びそうになったのかしゃがみ込み、転がっている瓦礫を掴んでいた。
 僕は理解する。
 今、この階段が揺れたのだ。どしん、どしん、と振動している。
 揺れは止まらない。それどころか大きくなっている。

「一体何が…」

 起きているんだ。そう口にしようとした時、また、上の方から何か聞こえた。それは先程よりも、大きく明確に耳に入ってきた。

「ヌァァァアヲ」

 聞き覚えのある、鳴き声に息を呑む。
 そう、あの黒く巨大な怪物の鳴き声だ。

「ウツツ!」

 今度はウツツにも聞こえていたようで、頷く。
 アイツが階段を下って来ているのだとしたら、危険だ。早く逃げなくては。
 僕はウツツの手を強く握りしめる。
 僕の意図を理解したのか、彼女は立ち上がる。

「よし、行こう」

 そう言って、立ち上がった彼女に目を向けたその時、目が合った。彼女とではない。その後ろにいた、片目の潰れた黒く巨大なネコの怪物と。

「カカカッ」

 黒猫の怪物は瞳孔を開き、じっとこちらを見ていた。

          ◇

 僕は血の気が引いていくのを感じた。
 あぁ、終わったのだ。もう、だめなのだと理解した。
 怪物は右足を振り上げる。
 振り下ろされたとき、僕達は死ぬ。それが怖くて、僕は思い切り目を瞑った。
 あぁ、今から死ぬ。また、死ぬのか。
 
 嫌だなあ。

 そう思った時、突然、体を引っ張られて、階段をゴロゴロと転がっていく。そして、瓦礫に背中を打ち付けられて「ぐっ」と僕は声を漏らした。
 痛みはあるがどうやら僕は死んでいない。
 一体、何が起きたのか。

「チヨ、苦しい」

 ウツツの声が僕の胸元から聞こえる。
 どうやら、僕は転倒中、彼女を庇うように抱きかかえたようだ。
 僕は慌てて手を離す。
 …なるほど。どうやら、僕は彼女にまた助けられたらしい。
 この短時間で、2回も助けられてしまった事に申し訳なさを感じつつ、危機が去っていないことを思い出す。
 上を見上げれば、遠くの方からあの怪物がコチラを見ていた。

「ナァナァナァッ!」

 怪物は咆哮とも取れる鳴き声を上げながら、不恰好に階段を下って来た。

「うわぁ!」

 このままではすぐに追いつかれる。
 僕は彼女の手を取り、慌てて下へと逃げ出した。

 それから、千段以上は走った気がする。しかし、怪物が僕達のことを諦めることはなく、ほとんど滑り落ちるように僕達を付け狙っていた。
 足が絡れる。
 今、転んで再起不能になったりでもしたら、僕だけでなく、ウツツも一緒に殺される。
 それだけは嫌だ。
 僕は跳び、三段先の踏み板に着地する。それに合わせて彼女も跳んだ。
 まだ、生き延びられそうだ。
 僕達は走った。止まることなく、階段を下り続けた。
 もう、上なんて見ている余裕もない。

「ナァァァァァヲ」

 怪物の声は聞こえてくる。なんて諦めが悪いのだろう。

「アアア」

 どこか悲痛の叫びにも聞こえる、怪物の声。それを聞いて、何かを思い出す。
 そう、シュウ君の記憶の中にいたあの猫、クロのことだ。そういえば、クロはどうなってしまったのだろうか。
 足は悲鳴をあげているのに、頭は自然と思考を繰り返す。なんだか、頭と足が別の生き物のようで、面白い。
 この思考も、足の痛みを忘れるための現実逃避なのだろう。

「はぁっはぁっ!」

 息を切らしながら必死で走る。限界はもう超えていた。あとはもう気力だけで足を動かしている状態だ。
 
「ぐっ、あぁっ…」

 あぁ、もうダメそうだ。そう思った時、隣からウツツの声が聞こえた。

「チヨ、あれ」

 僕がウツツに目を向ければ、彼女は握られた方とは別の手で下を指差していた。
 そこには、階段の終着点があった。もう、下へと向かう板はなく、まっすぐ横に広がる床が見える。
 そうして、その先の壁には1枚の扉があった。

「あそこに飛び込めば…」

 きっと、この長く苦しい逃走劇も終わりを迎える。

「ウツツ!あとちょっとだ!」

 叫んだ僕に彼女は頷く。
 未だ、背後から怪物の声は止まない。
 ここで止まれば僕達は死ぬ。
 死にたくない、死なせたくない。その気持ちだけで走りきる。

「ナァアァァア」

 怪物が前足を伸ばす。
 それは僕達の元にたどり着くことなく、空を切った。
 そうして、激突するように扉を超えて、僕達は地面に叩きつけられた。

          ◇

 そこから少しの間、僕は動くことが出来なかった。土の臭いを感じながら、ただ呼吸をすることのみに専念した。
 呼吸が落ち着いて、まず自分の足を確認する。大丈夫、千切れていたりはしないみたいだ。

「チヨ、大丈夫?」

 ウツツが僕の顔を覗き込む。どうやら、彼女は疲れていないようだ。そういえば、彼女は僕と一緒に階段を下る際、どこも苦しくなさそうだった。
 もしかしたら、見た目の割に体力があるのかもしれない。

「うん、走り疲れて動けないだけ。大丈夫だよ」

「よかった。でも、無理しちゃったね」

「うっ、それは…うん、ごめん」

 無理な約束だとは思っていたがこんなにはやく破ることになるとは。
 僕は何も言い返せずにただ謝ることしかできない。
 僕の言葉に興味なさげな彼女は立ち上がり、辺りを見渡す。

「ここ、何処だろう」

 彼女の言葉に釣られて、僕も周囲の様子を伺う。
 先程までいた場所とは打って変わって、そこは現実世界の夜のような場所だった。
 空は黒く、周囲には原っぱと雑多に置かれたドラム缶や石材の山。奥には、工場のような建物がある。

「空き地…かな?」

 何処か見覚えのある場所のように思えて、記憶を探りながら、僕はゆっくりと起き上がる。
 でも、何も分からない。思い出そうとすると、ノイズが発生してしまう。…いや、このノイズこそが懐かしさなのだ。
 きっと、シュウ君の記憶の中で曖昧だった箇所。その中で、この場所を見たような気がした。

「じゃあ、ここもシュウ君にとって大事な場所…なのかな?」

 そんなことを口にしながら、怪物のことを思い出す。
 そうだ、あの怪物。扉よりは明らかに大きかったから、そのまま追いかけてくることはないにしても、扉から前足を伸ばしてくることくらいはできそうだ。
 捕まってしまってはたまったものじゃない。
 僕は扉のあった方へと目を向ける。

 そこには、何もなかった。

「あれ?ウツツ、扉は?」

 彼女は首を横に振る。
 なるほど。どうやら後戻りはできないらしい。
 でも、大丈夫だ。元々戻る気なんてないし、怪物の足に襲われるよりはマシだ。

「向かう先なんて分からないけど、きっと何処かにシュウ君を助ける手がかりがある。行こうか」

「もう足はいいの?」

「うん、休んだから多少は大丈夫」

「ならいい」

 そう言って、手を繋ぐ。気づけば、それが普通みたいにそうしていたけれど、この手を繋ぐという行為も、自分が一人じゃないと思えて安心する。
 他者の心が形作るこの世界で一人じゃないということは、僕を大いに助けてくれる。
 だからと言って、きっと、なんとかなる。そんな、甘い考えに至ってしまったのは良くなかった。

 彼女の手を握っていた方の腕に、急に激痛が走る。

「痛っ!」

 そうして、彼女の手を離す。

「よォ。やっぱり来やがったなァ?ゴミカスども」

 その声を聞いて、僕はこの痛みがなんなのかすぐ理解した。
 ナイフによる切り傷。それは、彼によるものに違いない。
 いるとは思っていた。僕達を妨害するとも予想はしていた。しかし、まさかこのタイミングとは考えてもみなかった。
 僕達の目の前には、シュウ君と瓜二つの番人"セキチク"がいた。

「また会ったなァ。じゃあ、死ね」

「ウツツ!逃げてっ!」

 僕は叫ぶ。
 それに頷き、ウツツは走る。

「あァ~…逃がしやがって…。でも、まァ、前はあっちが先だったしなァ…。じゃあ、今回はオマエからだ」

 セキチクは僕にナイフを向ける。
 死んでなるものか。
 僕は彼女と反対の方向へ走り出す。

「いいぜェ…今度こそ、もう来れないように、痛く、苦しく、殺してやらァっ!」

 セキチクは雄叫びをあげる。
 こうして、命懸けの鬼ごっこがまた、始まった。

          ◇

 火事場の馬鹿力というのは、こういうことを言うのだろう。
 多少休んだとはいえ、まだ怪物に追われていた際の疲れが残っている。走り出した途端に足が痛みを訴え始めた。
 こんな状況なら、すぐに追いつかれてしまう。そう思った。しかし、自然と体は動くのだ。

「チッ…ちょこまか動きやがってェ!」

 セキチクの声とナイフが空を切る音が聞こえる。決して、遠くはない。すぐ後ろを彼は追っている。
 それが恐ろしくて、死ぬのが怖くて走る足は止まらない。
 それにしても、こう何度も走ることになるのなら、病院で体力をつけておくのだった。いくら火事場の馬鹿力だといって走っていても苦しいものは苦しい。
 喉が笛のようになる。

「はぁっ…ひゅう、ひゅう…ぐえっ」

 がむしゃらに走る僕の姿は、側から見たら滑稽極まりないだろうが、逃げ延びることができるのならば構わない。
 僕は走った。
 なんだか、僕のすぐ後ろにいたセキチクの気配が遠のいていく気がした。
 何故だかは分からない。しかし、このままいけば彼を撒くことが出来そうだ。
 あと少し。もう少しだけ走れば。
 そう思った瞬間、 「サクッ」と小気味いい音が耳に入った。

「え?」

 それが、なんの音だったのか。僕はすぐに理解する。

「っ!いっ!アアアアア!」

 なんだ、これは。痛い、痛い。寒い。
 左足の脹脛に激痛が走った。そのせいで、僕は一歩踏み込めずに転がる。

「クソ、手間取らせやがってェ…」

 セキチクの声が近づいてくる。

「まァ、まさか当たってくれるとは思わなかったけどなァ」

 彼はしゃがみ込み、僕の足から何かを引き抜く。

「ぐっ…」

 足が水に浸される感覚。血が止まらない。
 刺さっていた。あの、ナイフが刺さっていたのだ。
 彼はダーツでもするみたいに、逃げる僕の脚目掛けてナイフを投げた。そうして、それは見事、僕の足に深くまで刺さった。

 なるほど。それは痛いに決まっている。

 自分の状況を理解し、これからどうするのか、思考を巡らせたいのに、頭がいうことを聞いてくれない。
 どくどくと流れる血液と一緒に、僕は馬鹿になっていく。

「さァて」

 セキチクがナイフを一振りすると、びしゃりと僕の血液が地面に飛び散る。

「今度こそ、蘇れねェくらい痛めつけねェとなァ!」

 足が、動かない。逃げることは、できない。手を振り動かし、形だけの抵抗はした。でも、無理だ。
 無慈悲にも彼は、ナイフを振り下ろす。

 あーあ、また死んだ。
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