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序章 白い病室
1話 記憶喪失
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─目を覚ますと僕は白い空間にいた。
知らない景色に動揺したが、考えてみるとそもそも自分の知ってる景色というものが頭の中に存在しない。
名前は確かに覚えている。しかし、どこに住んでいたのか、先ほどまで何をしていたのか、一つも分からない。
自分という器に、僕の情報は一つもない。まるで名前だけを残した抜け殻だ。
それは、普通なら冷静でいられないような状況だろう。しかし、脳みそは動く。思考を停止する程、記憶喪失という現状に絶望感はなかった。
そのため、自身がどのような状況に陥っているのかを理解しようと僕は動き出す。
眠っていたベッドから抜け出して、辺りを見回す。壁は真っ白で、ベッドの隣には冷蔵庫とテレビ、枕元にはボタンが設置されている。
病室、だろうか。
もしかしたら、何かの事故に遭い病院に搬送され、今ここで記憶を失い目覚めたのかもしれない。そんな想像をしながら、この異質な状況をどう切り抜けるか考える。
…ダメだ、分からない。先ほど、絶望はしていないなんて思ったが、やはり動揺しているのだろうか。思考がまとまらない。
そのまま、病室内を一通り彷徨いた後、この部屋から出ようとドアの前に立った。
「よし…。部屋から出よう」
このままでは埒が開かないと、自分を鼓舞するような言葉を口にし、ドアに手をかける。
その時、扉は大きな音を立てて、外側から開かれた。
そこにいたのは、ナースの姿の女性だった。しかし、おかしな点が一つ。彼女はガスマスクを身につけていた。その異質な見た目の女性を見て、僕は後退り尻餅をつく。
ガスマスクをつけた女性は、僕の何か恐ろしいものを見て怯えるような姿を冷ややかな目で見ている(彼女の目は見えていないが、そうに違いない)。
「初めまして、"香水千夜"様。診察室で先生がお待ちしておりますので、私についてきてください」
淡々と彼女はそう口にした。
先程の予想が的中したのではないだろうか。自身は記憶喪失の患者なのだ。
僕は、立ち上がり、恐る恐るガスマスクの女性について行った。
◇
薄暗い廊下を進んで行く中、ガスマスクの女性にいろいろな質問をしたが、彼女は無反応で感情など無いかのように話を無視して、淡々と進んでいく。僕はそれにただついていくしかなかった。
数分、彼女の後をついて行くと、目の前には大きな扉が現れる。
「着きました。ここが第一診察室です。中で先生がお待ちです。早くお入りください」
彼女は冷たく突き放すよう、そう告げ、大きな扉を開き、早く入るよう促した。
ここに入ればもう逃げることはできない。本能が何か警告をしているようだったが、ガスマスクの女性に従い、診察室の中に入って行った。
室内には、丸椅子に座った一人の男がいた。男は色白で、ラベンダーのような美しい色の髪、額には宝石のような何かが4つ光り輝いている。
彼は室内に入ってきた僕を見ると、うすら笑いを浮かべて、
「さあ、診察を始めようか」
とても優しい声で、こう話しかけてきた。
◇
「初めまして。私の名前は"蛛宮 夕矢"。君のことを担当することになった。気軽に、ユウヤ先生とでも呼んでくれ」
彼はうすら笑いを崩さずにこう言った。
状況を掴めずにいるもののそれに釣られるように
「どうも、香水千夜です。よろしくお願いします…?」
と、そう返した。
「…ほう。記憶喪失だと聞いていたんだが、意味記憶の方の問題はなさそうかな。なかなか安定しているね。うんうん。じゃあ、いいかな」
僕は首を傾げる。
「チヨ君、君は今、聞きたいことが沢山あるでしょう?私が答えられることならできるだけ答えよう。ささ、座って」
先生はそう言って、目の前の椅子に座るよう促した。
何か胡散臭い人だと思いつつ、言われた通りに席に着き、いくつかの質問をすることにした。
「ここは、なんですか?」
「この病院かい?ふむ。ここは現の夢病院と言ってね、色々な患者がここに入院しているんだ。君も今日からその一人だ」
「現の夢、病院」
聞いたことのない病院だ。といっても、記憶喪失の身だ。忘れているだけかもしれないが、もしかしたら、住んでいた場所とは遠いところにいるのかもしれない。
「という事は、やっぱり僕は事故にでも遭ったのでしょうか?」
うーん、と首を傾げた後に先生は首を横に振る。
「可能性はゼロじゃないんだけれど、外傷がないからね。多分、事故ということはないと思うよ」
「そうですか…」
では、僕は無傷で記憶を失い、この病院に連れてこられたのか。どういう状態なのだろう…さっぱり分からない。
理解することの難しいこの現状に唸っている僕を見ながら先生は口を開く。
「君にはこれから、ここで過ごしてもらうよ。まあともかくよろしく。…っと、君は他の患者とは全く違う雰囲気を感じるね?まあ、それは後々調べていこうか」
ここは病院で、僕は記憶喪失でこれから記憶を取り戻すために、この病院で過ごすことになる。それには納得した。
しかし、やはりきっかけは一つも思い当たらない。事故ではないらしいが、きっかけは何かあるはずだ。
「じゃあ、なんで僕の記憶は無くなったんですか。名前と日常的なこと以外、全て忘れているんです」
「…ごめんね。それは私にもわからないんだ。患者の記憶の一部が飛んでいるということはよくあるんだが、君の場合は名前以外のエピソード記憶を全て忘れている。まぁ、病によって記憶が飛んだのだと考えるのが自然だと思うよ。それもここで生活していればいずれわかるはずだ。なーに。時間はたっぷりあるさ」
僕の問いに、先生は顔面に貼り付いているようなうすら笑みを一瞬歪めて、こう答えた。
そして、先生が「他に聞きたいことは…」と、話し出したとき、僕が先ほど入ってきた扉が開いた。そこにはガスマスクをしたあの看護師が立っている。
「先生、そろそろ時間です」
「おっと。じゃあ、チヨ君。次回からは、本格的なカウンセリングをしていく予定だからよろしくね。それから、他に聞きたいことがあれば、そこの看護師に聞いて。彼女、大体は君の病棟周辺にいるから。あとは…あっ、そうそう、君にはこれを」
先生はそう言って黒く厚みのあるノートを手渡してきた。
「これは……?」
「それは"日記帳"だよ。出来るだけその日記を付けて欲しいんだ。まぁ、特に書くことが思いつかないのならば、"夢"の事とかでもいいよ。君が何かの病気だとしたらまた、記憶を失う可能性もある。その時、自分を理解するきっかけになるかも知れないからね」
若干、不安を掻き立てられることを言われながら、渡された日記帳をめくる。もちろんだが、何も書かれていない。
それにしても、備忘録的に日記を書くことには理解できる。しかし、夢のことなんて書いても意味はないように感じた。
…まぁ、先生にも何か考えがあるのだろう。僕は一言「ありがとうございます」とお辞儀した。
「うんうん、じゃあ今回ははおしまい。次回、カウンセリングの時間になったら、そこのガスマスクの看護師が呼びに行くから、部屋で待っていてね。じゃあ、また次にね」
そうして僕は、診察室を後にした。
◇◇◇
診察室の扉が閉まる。ここには、彼1人しかいない。そして、彼は何かを懐かしむように、こう呟く。
「カスイ…か。ふふ。懐かしいな。そうか、彼が…」
その独り言は、虚空に消えた。僕の耳にも、ガスマスクの看護師にも、誰の耳にも届くことはない。
「まだ、続けられそうだよ。君のおかげでね」
そう口にする彼の顔には、あの張り付いたようなうすら笑みはなかった。
◇◇◇
ガスマスクの看護師と共に自身の病室に戻っていく最中、何処か懐かしさを感じる青年とすれ違った。気になって振り返ってみたがそこには誰もいない。気になって、ガスマスクの看護師に、
「いま、誰かとすれ違いませんでしたか?」
と質問をした。しかし、彼女は付いてくる僕に振り向きもせず、「いいえ」とだけ返した。
素っ気ない態度で、適当なことを言われたかと思ったが、彼女は誰かとすれ違ったことには気付いていない様子だった。なんとなく、そんな雰囲気があった。
彼は何者だったのだろう。ただの、見間違いだったのかもしれない。しかし、あの人物が僕の記憶の鍵を握っている、そんな気がした。
◇
ガスマスクの看護師に連れられ、先程まで眠っていたベッドのある病室に戻ってきた。
「カスイ様の病室は203号室です。間違われないように。また、自由に使ってくれて構わないですが、くれぐれも面倒ごとは起こさないでください。それでも何かあった場合は、ナースコールを押してお呼びください。では」
ガスマスクの看護師はそう言い、何処かに行った。
一人になり、特にする事もない僕は、先生に貰ったあの日記に先程までのことを書くことにした。
日記1
記憶を失い病院に入院してから一日目。
こんな状況ではあるが割と落ち着いていて自分でも少し驚いている。
ただ、喪失感がないわけではない。しかし、何かを思い出そうとすると忘れてしまえ、その方が楽だ幸せだ、と警鐘が鳴る。
それでも、自分の記憶を取り戻すために足掻こうと思う。
気を引き締めておこう。
それから、看護師さんと先生のことを書き忘れていたと思い出す。
もしも、また記憶を失って彼らとはじめましてを繰り返すことになったら、その個性の強い見た目に毎回驚くことになってしまうだろう。
僕は、白紙が広がるページの下側に彼らの似顔絵を描いた。そうして、ユウヤ先生とガスマスクの看護師さんと忘れても問題ないように名前も書く。なんというか、絵の出来は微妙だった。記憶を失う前に、絵に関する何かをしていたという事はなさそうだ。
まぁ、これで大丈夫だろうと日記を閉じようとしてから、ある違和感に気づく。病室内にも、先程行った診察室にも時計やカレンダーなどがなかった。自然に日記1なんて書いたが日にちや時間がわからないのは不便極まりない。
あえてそうしているのか。とも思ったが、正直そんなことをする意図がわからない。ここは、時間の流れを感じられない、空間そのものが止まっているような不思議な感覚に包まれている。
今更だが、この病院、何かおかしい。急激に不安が押し寄せてくる。次に先生に会うとき、この病院についてもっと詳しく聞こう。
恐怖に近い不安を拭い、何をしようかと考えた。
◇
…本当にすることが無くなった。寝ようと思ったが、眠気は一切感じない。何もしないというのも落ち着かないので病室内を見て回ることにした。
病室内はそこまで広くなく、壁は真っ白。先程まで日記を書いていた机や椅子、テレビ、ベッド、クローゼットなどが備えられてる。
いい娯楽になるかもしれないと思い、テレビを調べることにした。見たところ、怪しいところは一切感じられない。「さて」と言い、テレビの電源ボタンに触れる。
そこには砂嵐が映し出され、喧しい音が鳴っている。その中に人間の呻き声のようなものが混ざっているように感じて、その不気味さに冷や汗をかき、すぐにテレビを消した。
少し嫌な気分になったが、他にも色々と気になるところがある。次はベッドを調べる。毛布は柔らかく枕はやけに自分の頭に合う。寝心地がとても良い。現に先程まで最高級の眠りについていた。
今ですら眠気はないのに、布団に潜り込めば3秒程で眠れそうだ。
「まぁ、ベッドには変わった様子はないかな」
下を覗こうと一瞬思ったが、何か嫌な予感がしたため、そこには何もないと自身に言い聞かせる。
それから、なんとなく気になっていたクローゼットを開けた。
そこには一枚のコートが入っていた。
前の患者のものだろうか。なんとなく懐かしく感じた。他人の物であるはずのコートに懐かしさを感じるのもおかしな話だが、僕の記憶が戻る鍵になったりはしない、かな。
そう思いながら、次のカウンセリングで先生に見せよう、大事にクローゼットに戻した。
◇
病室内の探索に一息ついて、何も考えずに病室の天井を見ていた。すると、「とんとん」と、微弱な力でドアが叩かれた。
「誰ですか」
扉の前に立ち、ドアを叩く力から先程の看護師ではないと確信して、そう声をかけた。
「わっ、ほんとうになかにひとがいる」
扉の向こうから焦ったような声が聞こえてきた。子どもの声だった。
ここに来てから、まだ会っていない誰かが外にいる。どんな人だろうか。好奇心に負け、思い切って扉を開ける。
そこには、仮面を身につけたか弱そうな少年が立っていた。
◇
「ぼくはシュウです。このびょういんににゅういんしています。…あなたもにゅういんしているひとですか?」
シュウと名乗った少年は、もじもじとしながらそう問うてきた。
僕はそんな彼の質問に答えようとせず、その姿をまじまじと見ていた。納戸色の髪。髪で隠れた片目。そして何より特徴的なのは白い仮面を身につけていることだ。眠った人の顔のような顔面が妙にリアルで目を奪われていると、シュウが涙目で不安そうにこちらを見てきた。
「あ、あの、ぼくなにかきにさわることいっちゃいましたか…?」
彼の言葉に罪悪感を覚える。僕は「大丈夫だよ」と返し、続けてこう言った。
「僕は香水千夜。君と同じ患者だよ。どうして僕の病室に?」
子どもに対して高圧的に質問してしまったかもしれない。と不安になったが、シュウはオロオロしながらも
「やっぱりかんじゃさんだったんですね。まえまでここにはだれもいなかったのに、おとがしたから。だれかいるっておもって…メダマのおねえちゃんにきいたら、みてきたら?っていうから…でもよかった、こわいひとじゃなくて」
そう言って、はにかむように笑った。悪い子ではなさそうだ。
メダマのお姉ちゃんという者が誰なのか、さっぱりわからないが、他の患者のことかもしれないとその疑問は飲み込む。
しかし、その白い仮面がやはり気になる。看護師もガスマスクを付けていたし、今はハロウィンか何かなのだろうか。
気になってしまい、つい口を開く。
「あの、シュウ君?その仮面って、なんで付けてるの?」
「あ、これですか?これはぼくがびょういんにきたときに、おいてあったやつです。よくわからないけれど、だいじだとおもいました。だから、ずっとみにつけています」
妙にリアルなその仮面に不気味さを感じてしまうが、彼が大事にしているなら他人の僕がとやかく言うことではないだろう。
「そっか、大事なものなんだね」
僕がそういうと、シュウは「はい!」と言って笑みを浮かべる。そんな彼の様子に心が洗われるような気分になる。
「これから僕はこの病室にいることになるだろうから、よろしくね」
僕がそういうと、シュウは一礼し、彼の病室である204号室に帰っていった。
自分以外にも患者がいる事、それからその患者が彼のような子であったことに安堵していると急に深い眠気に襲われる。
この眠気には勝てないと、その欲求に従い、僕は死体のように眠りについた。
◆
僕は夢を見ている。夢の中で、これは夢だと理解している。所謂、明晰夢というやつだ。
その夢で僕は、アパートの一室で泣き噦る少年を見ている。
「えっと、どうしたの?」
僕は少年に近づき声をかける。彼は目を真っ赤にしてただ独りで泣いている。
「大丈夫?」
僕が彼に近づくとその真っ赤な目でこちらを睨みつけてきた。
そうして、少年は左手に持った何かで僕を思いきり、刺した。
夢とは思えないような痛みが走り、刺された箇所からはドクドクと赤いものが流れている。
「っっっっ!!」
声にならない叫び声をあげる僕を見て、少年は笑いながら、左手に持った何かで僕を滅多刺しにした。
先程まで泣いていた少年の面影はなく、狂気の笑みでただその行為を楽しんでいた。
何分、何時間経ったのだろうか。僕の意識は少しづつ遠のいてゆく。そんな中、目に映るのは、未だ笑みを浮かべながら、僕の腹部を刺す、仮面をつけた少年…。
そう、あの白い仮面をつけた、"シュウ"の姿だった。それから僕は…。
◆
「あああああああ!」
盛大に音を立てて、目を覚ました。止まる気配のない冷や汗をかき、息は荒く上手く呼吸が出来ない。しかし、やはりそれが夢であった、ということを再確認して
「生きてる…。よかった」
と、安堵していると盛大に音を立ててドアが開かれた。
僕は、驚き「うわっ!?」と再度叫び声をあげた。扉の向こうにはガスマスクの看護師が立っていた。彼女はその様子をみて、
「…どうかなさいましたか?まあ、いいです。おはようございます香水千夜様。記憶はありますか。寝起きの所、大変申し訳ないのですが、カウンセリングです。第一診察室に向かいましょう」
そう言って、ガスマスクの看護師は僕をベッドから追い出し、ベッドカバー、シーツを取って、病室から出て行った。
「2回目か。気になる事もあるし行こう」
そう言ってクローゼットからコートを取り出し、寝具を持って何処かへと消えた看護師を待つ。
それから、彼女はすぐに病室へと戻った。先ほど持っていた物とは別の新しい寝具を持っているようで、凄まじい速さでベッドメイキングを終える。
その勢いのまま、僕は彼女に連れられて第一診療室へと向かった。
◇
診療室で待ち構えていた先生は、前回と同じく、あのうすら笑みを浮かべていた。
「やあ。やっときたね。待っていたよ。さあ、座って」
僕が椅子に座るのを見たあと、同じくユウヤ先生も椅子に座って、こう話した。
「私に聞きたいことがあるみたいだね。丁度いい。じゃあ、まずは右手に持ったそのコートについて聞こうかな」
続けて「さあ、始めるよ」と言うと、ユウヤ先生はカルテを取り出した。先生の雰囲気が変わった。そんな気がして気圧されたが、手に持ったコートを彼に手渡して話を始める。
「このコート、見覚えがあるんです。僕の病室のクローゼットから出てきたんですが、何か僕の記憶を取り戻す手がかりになったりしませんか…?」
先生はコートを手を取り、物色する。それから、ポケットに手を入れ、何かを見つけた。
「これは、学生証のようだね。チヨ君、君の物のようだ」
そう言ってユウヤ先生は僕にそれを手渡した。確かにそこには香水千夜の名や生年月日が記されていた。しかし、写真があるべき場所や学校の名前、電話番号等は黒く塗りつぶされている。そこに、記憶を取り戻すために必要な情報はなく、ただそれが僕の学生証であるということしか分からなかった。
「じゃあ、これは僕のコートってことですか」
「…私にもわからないな。ただ、この病院ではよくおかしな事が起こるからね。もしかしたら、君の私物がこの病院の中にあるのかもしれない。もしかしたら、他にもあるかも?」
もし、それが本当だとするならば、少し病院内を歩き回ってみるのもいいかもしれない。
それから僕はもう一つ、気になっていたことについて聞いた。
「先生、この病院についてなのですが、時計やカレンダーがなくて不便です。それらがないことに理由とかって、ありますかね」
「それはだね。この場所で時間という概念は意味がないからだよ。しかし、体感で朝か夜かくらいは分かるだろう」
先生の言っていることは全くわからなかった。しかし、僕は言及しなかった。というか、できなかった。
「では、次は私から君に話したい事があるんだ。いいかな?」
先生は僕が何か言い返す前に、こう言ってきた。彼の変わった雰囲気に釣られて、「いいですよ」と、畏まった口調になりながらも僕は返事をした。
「君に会ってほしい人がいるんだ。名前は"虚路 周"というのだけれど…」
それ以降の話はあまり耳に入ってこなかった。その名を聞いた途端、全身から冷や汗が止まらず、息が苦しくなったのだ。虚路周。うつろ…しゅう。そう、あの悪夢で僕を…殺した、幼なげで狂気的な少年。
「…で、チヨ君。いいかな?…っと、大丈夫?顔色が優れないけれど」
気づくと先生は話し終えて、追い詰められたような僕を見て、心配していた。全く無事ではなかったが、「大丈夫です」と返事をしようと口を開けたとき、
「お…ゔぇっ…」
僕は盛大に嘔吐した。夢の中のあの光景が脳裏によぎる。よぎるというよりも、居座っていた。あの狂気の笑みが、痛みが、死ぬ瞬間が、脳にこびりついて離れない。
それを見た先生はすぐさまエチケット袋を机から取り出し、僕の口に当てて背中をさすってくれた。何も言わずに。
◇
それから、僕は落ち着きを取り戻し、「もう、大丈夫です」というと、先生は「そっか」と優しく僕に声をかける。
それから僕は先生に、"シュウに会ったこと"と"あの夢の中での出来事"を話した。
「なるほど。…やはり」
先生が、話を聞いて、何か予想が的中したという感じで、顎に手を当ててひとり、頷いている。そうして続けてこう言った。
「君の見た夢は、正しくは夢じゃない。それは、シュウ君の精神世界だ。君は"人の精神世界に入ることのできる異能"を持っているようだ」
先生は、カルテに何か書きながら続けて、
「チヨ君、君の病気が治るまで私達の助手として、その異能で患者の治療を手伝っては貰えないだろうか。色々な経験をすれば、記憶を取り戻すきっかけになるかもしれない。それに、その異能を使うときは我々は全力でサポートする。どうでだろうか」
真剣な眼差し、もしくは獲物を狙う蜘蛛のような目でこちらをみる先生にたじろぎながら、僕は深く考えた。
もう、あのような怖い思いはしたくない。だが、僕は僕の過去の記憶を知りたい。病気についてもだ。そのために、手段を選ぶ暇なんてないはずだ。
今の僕には、何も…ない。空っぽの器のカスイチヨである。そんなのは、嫌だ。
「いいですよ。やります、助手」
気づくと僕はそう答えていた。…いや、答えてしまった。
その一言が、僕の未来を左右する重要な一歩になるなんて知る由もなかったのだから。
知らない景色に動揺したが、考えてみるとそもそも自分の知ってる景色というものが頭の中に存在しない。
名前は確かに覚えている。しかし、どこに住んでいたのか、先ほどまで何をしていたのか、一つも分からない。
自分という器に、僕の情報は一つもない。まるで名前だけを残した抜け殻だ。
それは、普通なら冷静でいられないような状況だろう。しかし、脳みそは動く。思考を停止する程、記憶喪失という現状に絶望感はなかった。
そのため、自身がどのような状況に陥っているのかを理解しようと僕は動き出す。
眠っていたベッドから抜け出して、辺りを見回す。壁は真っ白で、ベッドの隣には冷蔵庫とテレビ、枕元にはボタンが設置されている。
病室、だろうか。
もしかしたら、何かの事故に遭い病院に搬送され、今ここで記憶を失い目覚めたのかもしれない。そんな想像をしながら、この異質な状況をどう切り抜けるか考える。
…ダメだ、分からない。先ほど、絶望はしていないなんて思ったが、やはり動揺しているのだろうか。思考がまとまらない。
そのまま、病室内を一通り彷徨いた後、この部屋から出ようとドアの前に立った。
「よし…。部屋から出よう」
このままでは埒が開かないと、自分を鼓舞するような言葉を口にし、ドアに手をかける。
その時、扉は大きな音を立てて、外側から開かれた。
そこにいたのは、ナースの姿の女性だった。しかし、おかしな点が一つ。彼女はガスマスクを身につけていた。その異質な見た目の女性を見て、僕は後退り尻餅をつく。
ガスマスクをつけた女性は、僕の何か恐ろしいものを見て怯えるような姿を冷ややかな目で見ている(彼女の目は見えていないが、そうに違いない)。
「初めまして、"香水千夜"様。診察室で先生がお待ちしておりますので、私についてきてください」
淡々と彼女はそう口にした。
先程の予想が的中したのではないだろうか。自身は記憶喪失の患者なのだ。
僕は、立ち上がり、恐る恐るガスマスクの女性について行った。
◇
薄暗い廊下を進んで行く中、ガスマスクの女性にいろいろな質問をしたが、彼女は無反応で感情など無いかのように話を無視して、淡々と進んでいく。僕はそれにただついていくしかなかった。
数分、彼女の後をついて行くと、目の前には大きな扉が現れる。
「着きました。ここが第一診察室です。中で先生がお待ちです。早くお入りください」
彼女は冷たく突き放すよう、そう告げ、大きな扉を開き、早く入るよう促した。
ここに入ればもう逃げることはできない。本能が何か警告をしているようだったが、ガスマスクの女性に従い、診察室の中に入って行った。
室内には、丸椅子に座った一人の男がいた。男は色白で、ラベンダーのような美しい色の髪、額には宝石のような何かが4つ光り輝いている。
彼は室内に入ってきた僕を見ると、うすら笑いを浮かべて、
「さあ、診察を始めようか」
とても優しい声で、こう話しかけてきた。
◇
「初めまして。私の名前は"蛛宮 夕矢"。君のことを担当することになった。気軽に、ユウヤ先生とでも呼んでくれ」
彼はうすら笑いを崩さずにこう言った。
状況を掴めずにいるもののそれに釣られるように
「どうも、香水千夜です。よろしくお願いします…?」
と、そう返した。
「…ほう。記憶喪失だと聞いていたんだが、意味記憶の方の問題はなさそうかな。なかなか安定しているね。うんうん。じゃあ、いいかな」
僕は首を傾げる。
「チヨ君、君は今、聞きたいことが沢山あるでしょう?私が答えられることならできるだけ答えよう。ささ、座って」
先生はそう言って、目の前の椅子に座るよう促した。
何か胡散臭い人だと思いつつ、言われた通りに席に着き、いくつかの質問をすることにした。
「ここは、なんですか?」
「この病院かい?ふむ。ここは現の夢病院と言ってね、色々な患者がここに入院しているんだ。君も今日からその一人だ」
「現の夢、病院」
聞いたことのない病院だ。といっても、記憶喪失の身だ。忘れているだけかもしれないが、もしかしたら、住んでいた場所とは遠いところにいるのかもしれない。
「という事は、やっぱり僕は事故にでも遭ったのでしょうか?」
うーん、と首を傾げた後に先生は首を横に振る。
「可能性はゼロじゃないんだけれど、外傷がないからね。多分、事故ということはないと思うよ」
「そうですか…」
では、僕は無傷で記憶を失い、この病院に連れてこられたのか。どういう状態なのだろう…さっぱり分からない。
理解することの難しいこの現状に唸っている僕を見ながら先生は口を開く。
「君にはこれから、ここで過ごしてもらうよ。まあともかくよろしく。…っと、君は他の患者とは全く違う雰囲気を感じるね?まあ、それは後々調べていこうか」
ここは病院で、僕は記憶喪失でこれから記憶を取り戻すために、この病院で過ごすことになる。それには納得した。
しかし、やはりきっかけは一つも思い当たらない。事故ではないらしいが、きっかけは何かあるはずだ。
「じゃあ、なんで僕の記憶は無くなったんですか。名前と日常的なこと以外、全て忘れているんです」
「…ごめんね。それは私にもわからないんだ。患者の記憶の一部が飛んでいるということはよくあるんだが、君の場合は名前以外のエピソード記憶を全て忘れている。まぁ、病によって記憶が飛んだのだと考えるのが自然だと思うよ。それもここで生活していればいずれわかるはずだ。なーに。時間はたっぷりあるさ」
僕の問いに、先生は顔面に貼り付いているようなうすら笑みを一瞬歪めて、こう答えた。
そして、先生が「他に聞きたいことは…」と、話し出したとき、僕が先ほど入ってきた扉が開いた。そこにはガスマスクをしたあの看護師が立っている。
「先生、そろそろ時間です」
「おっと。じゃあ、チヨ君。次回からは、本格的なカウンセリングをしていく予定だからよろしくね。それから、他に聞きたいことがあれば、そこの看護師に聞いて。彼女、大体は君の病棟周辺にいるから。あとは…あっ、そうそう、君にはこれを」
先生はそう言って黒く厚みのあるノートを手渡してきた。
「これは……?」
「それは"日記帳"だよ。出来るだけその日記を付けて欲しいんだ。まぁ、特に書くことが思いつかないのならば、"夢"の事とかでもいいよ。君が何かの病気だとしたらまた、記憶を失う可能性もある。その時、自分を理解するきっかけになるかも知れないからね」
若干、不安を掻き立てられることを言われながら、渡された日記帳をめくる。もちろんだが、何も書かれていない。
それにしても、備忘録的に日記を書くことには理解できる。しかし、夢のことなんて書いても意味はないように感じた。
…まぁ、先生にも何か考えがあるのだろう。僕は一言「ありがとうございます」とお辞儀した。
「うんうん、じゃあ今回ははおしまい。次回、カウンセリングの時間になったら、そこのガスマスクの看護師が呼びに行くから、部屋で待っていてね。じゃあ、また次にね」
そうして僕は、診察室を後にした。
◇◇◇
診察室の扉が閉まる。ここには、彼1人しかいない。そして、彼は何かを懐かしむように、こう呟く。
「カスイ…か。ふふ。懐かしいな。そうか、彼が…」
その独り言は、虚空に消えた。僕の耳にも、ガスマスクの看護師にも、誰の耳にも届くことはない。
「まだ、続けられそうだよ。君のおかげでね」
そう口にする彼の顔には、あの張り付いたようなうすら笑みはなかった。
◇◇◇
ガスマスクの看護師と共に自身の病室に戻っていく最中、何処か懐かしさを感じる青年とすれ違った。気になって振り返ってみたがそこには誰もいない。気になって、ガスマスクの看護師に、
「いま、誰かとすれ違いませんでしたか?」
と質問をした。しかし、彼女は付いてくる僕に振り向きもせず、「いいえ」とだけ返した。
素っ気ない態度で、適当なことを言われたかと思ったが、彼女は誰かとすれ違ったことには気付いていない様子だった。なんとなく、そんな雰囲気があった。
彼は何者だったのだろう。ただの、見間違いだったのかもしれない。しかし、あの人物が僕の記憶の鍵を握っている、そんな気がした。
◇
ガスマスクの看護師に連れられ、先程まで眠っていたベッドのある病室に戻ってきた。
「カスイ様の病室は203号室です。間違われないように。また、自由に使ってくれて構わないですが、くれぐれも面倒ごとは起こさないでください。それでも何かあった場合は、ナースコールを押してお呼びください。では」
ガスマスクの看護師はそう言い、何処かに行った。
一人になり、特にする事もない僕は、先生に貰ったあの日記に先程までのことを書くことにした。
日記1
記憶を失い病院に入院してから一日目。
こんな状況ではあるが割と落ち着いていて自分でも少し驚いている。
ただ、喪失感がないわけではない。しかし、何かを思い出そうとすると忘れてしまえ、その方が楽だ幸せだ、と警鐘が鳴る。
それでも、自分の記憶を取り戻すために足掻こうと思う。
気を引き締めておこう。
それから、看護師さんと先生のことを書き忘れていたと思い出す。
もしも、また記憶を失って彼らとはじめましてを繰り返すことになったら、その個性の強い見た目に毎回驚くことになってしまうだろう。
僕は、白紙が広がるページの下側に彼らの似顔絵を描いた。そうして、ユウヤ先生とガスマスクの看護師さんと忘れても問題ないように名前も書く。なんというか、絵の出来は微妙だった。記憶を失う前に、絵に関する何かをしていたという事はなさそうだ。
まぁ、これで大丈夫だろうと日記を閉じようとしてから、ある違和感に気づく。病室内にも、先程行った診察室にも時計やカレンダーなどがなかった。自然に日記1なんて書いたが日にちや時間がわからないのは不便極まりない。
あえてそうしているのか。とも思ったが、正直そんなことをする意図がわからない。ここは、時間の流れを感じられない、空間そのものが止まっているような不思議な感覚に包まれている。
今更だが、この病院、何かおかしい。急激に不安が押し寄せてくる。次に先生に会うとき、この病院についてもっと詳しく聞こう。
恐怖に近い不安を拭い、何をしようかと考えた。
◇
…本当にすることが無くなった。寝ようと思ったが、眠気は一切感じない。何もしないというのも落ち着かないので病室内を見て回ることにした。
病室内はそこまで広くなく、壁は真っ白。先程まで日記を書いていた机や椅子、テレビ、ベッド、クローゼットなどが備えられてる。
いい娯楽になるかもしれないと思い、テレビを調べることにした。見たところ、怪しいところは一切感じられない。「さて」と言い、テレビの電源ボタンに触れる。
そこには砂嵐が映し出され、喧しい音が鳴っている。その中に人間の呻き声のようなものが混ざっているように感じて、その不気味さに冷や汗をかき、すぐにテレビを消した。
少し嫌な気分になったが、他にも色々と気になるところがある。次はベッドを調べる。毛布は柔らかく枕はやけに自分の頭に合う。寝心地がとても良い。現に先程まで最高級の眠りについていた。
今ですら眠気はないのに、布団に潜り込めば3秒程で眠れそうだ。
「まぁ、ベッドには変わった様子はないかな」
下を覗こうと一瞬思ったが、何か嫌な予感がしたため、そこには何もないと自身に言い聞かせる。
それから、なんとなく気になっていたクローゼットを開けた。
そこには一枚のコートが入っていた。
前の患者のものだろうか。なんとなく懐かしく感じた。他人の物であるはずのコートに懐かしさを感じるのもおかしな話だが、僕の記憶が戻る鍵になったりはしない、かな。
そう思いながら、次のカウンセリングで先生に見せよう、大事にクローゼットに戻した。
◇
病室内の探索に一息ついて、何も考えずに病室の天井を見ていた。すると、「とんとん」と、微弱な力でドアが叩かれた。
「誰ですか」
扉の前に立ち、ドアを叩く力から先程の看護師ではないと確信して、そう声をかけた。
「わっ、ほんとうになかにひとがいる」
扉の向こうから焦ったような声が聞こえてきた。子どもの声だった。
ここに来てから、まだ会っていない誰かが外にいる。どんな人だろうか。好奇心に負け、思い切って扉を開ける。
そこには、仮面を身につけたか弱そうな少年が立っていた。
◇
「ぼくはシュウです。このびょういんににゅういんしています。…あなたもにゅういんしているひとですか?」
シュウと名乗った少年は、もじもじとしながらそう問うてきた。
僕はそんな彼の質問に答えようとせず、その姿をまじまじと見ていた。納戸色の髪。髪で隠れた片目。そして何より特徴的なのは白い仮面を身につけていることだ。眠った人の顔のような顔面が妙にリアルで目を奪われていると、シュウが涙目で不安そうにこちらを見てきた。
「あ、あの、ぼくなにかきにさわることいっちゃいましたか…?」
彼の言葉に罪悪感を覚える。僕は「大丈夫だよ」と返し、続けてこう言った。
「僕は香水千夜。君と同じ患者だよ。どうして僕の病室に?」
子どもに対して高圧的に質問してしまったかもしれない。と不安になったが、シュウはオロオロしながらも
「やっぱりかんじゃさんだったんですね。まえまでここにはだれもいなかったのに、おとがしたから。だれかいるっておもって…メダマのおねえちゃんにきいたら、みてきたら?っていうから…でもよかった、こわいひとじゃなくて」
そう言って、はにかむように笑った。悪い子ではなさそうだ。
メダマのお姉ちゃんという者が誰なのか、さっぱりわからないが、他の患者のことかもしれないとその疑問は飲み込む。
しかし、その白い仮面がやはり気になる。看護師もガスマスクを付けていたし、今はハロウィンか何かなのだろうか。
気になってしまい、つい口を開く。
「あの、シュウ君?その仮面って、なんで付けてるの?」
「あ、これですか?これはぼくがびょういんにきたときに、おいてあったやつです。よくわからないけれど、だいじだとおもいました。だから、ずっとみにつけています」
妙にリアルなその仮面に不気味さを感じてしまうが、彼が大事にしているなら他人の僕がとやかく言うことではないだろう。
「そっか、大事なものなんだね」
僕がそういうと、シュウは「はい!」と言って笑みを浮かべる。そんな彼の様子に心が洗われるような気分になる。
「これから僕はこの病室にいることになるだろうから、よろしくね」
僕がそういうと、シュウは一礼し、彼の病室である204号室に帰っていった。
自分以外にも患者がいる事、それからその患者が彼のような子であったことに安堵していると急に深い眠気に襲われる。
この眠気には勝てないと、その欲求に従い、僕は死体のように眠りについた。
◆
僕は夢を見ている。夢の中で、これは夢だと理解している。所謂、明晰夢というやつだ。
その夢で僕は、アパートの一室で泣き噦る少年を見ている。
「えっと、どうしたの?」
僕は少年に近づき声をかける。彼は目を真っ赤にしてただ独りで泣いている。
「大丈夫?」
僕が彼に近づくとその真っ赤な目でこちらを睨みつけてきた。
そうして、少年は左手に持った何かで僕を思いきり、刺した。
夢とは思えないような痛みが走り、刺された箇所からはドクドクと赤いものが流れている。
「っっっっ!!」
声にならない叫び声をあげる僕を見て、少年は笑いながら、左手に持った何かで僕を滅多刺しにした。
先程まで泣いていた少年の面影はなく、狂気の笑みでただその行為を楽しんでいた。
何分、何時間経ったのだろうか。僕の意識は少しづつ遠のいてゆく。そんな中、目に映るのは、未だ笑みを浮かべながら、僕の腹部を刺す、仮面をつけた少年…。
そう、あの白い仮面をつけた、"シュウ"の姿だった。それから僕は…。
◆
「あああああああ!」
盛大に音を立てて、目を覚ました。止まる気配のない冷や汗をかき、息は荒く上手く呼吸が出来ない。しかし、やはりそれが夢であった、ということを再確認して
「生きてる…。よかった」
と、安堵していると盛大に音を立ててドアが開かれた。
僕は、驚き「うわっ!?」と再度叫び声をあげた。扉の向こうにはガスマスクの看護師が立っていた。彼女はその様子をみて、
「…どうかなさいましたか?まあ、いいです。おはようございます香水千夜様。記憶はありますか。寝起きの所、大変申し訳ないのですが、カウンセリングです。第一診察室に向かいましょう」
そう言って、ガスマスクの看護師は僕をベッドから追い出し、ベッドカバー、シーツを取って、病室から出て行った。
「2回目か。気になる事もあるし行こう」
そう言ってクローゼットからコートを取り出し、寝具を持って何処かへと消えた看護師を待つ。
それから、彼女はすぐに病室へと戻った。先ほど持っていた物とは別の新しい寝具を持っているようで、凄まじい速さでベッドメイキングを終える。
その勢いのまま、僕は彼女に連れられて第一診療室へと向かった。
◇
診療室で待ち構えていた先生は、前回と同じく、あのうすら笑みを浮かべていた。
「やあ。やっときたね。待っていたよ。さあ、座って」
僕が椅子に座るのを見たあと、同じくユウヤ先生も椅子に座って、こう話した。
「私に聞きたいことがあるみたいだね。丁度いい。じゃあ、まずは右手に持ったそのコートについて聞こうかな」
続けて「さあ、始めるよ」と言うと、ユウヤ先生はカルテを取り出した。先生の雰囲気が変わった。そんな気がして気圧されたが、手に持ったコートを彼に手渡して話を始める。
「このコート、見覚えがあるんです。僕の病室のクローゼットから出てきたんですが、何か僕の記憶を取り戻す手がかりになったりしませんか…?」
先生はコートを手を取り、物色する。それから、ポケットに手を入れ、何かを見つけた。
「これは、学生証のようだね。チヨ君、君の物のようだ」
そう言ってユウヤ先生は僕にそれを手渡した。確かにそこには香水千夜の名や生年月日が記されていた。しかし、写真があるべき場所や学校の名前、電話番号等は黒く塗りつぶされている。そこに、記憶を取り戻すために必要な情報はなく、ただそれが僕の学生証であるということしか分からなかった。
「じゃあ、これは僕のコートってことですか」
「…私にもわからないな。ただ、この病院ではよくおかしな事が起こるからね。もしかしたら、君の私物がこの病院の中にあるのかもしれない。もしかしたら、他にもあるかも?」
もし、それが本当だとするならば、少し病院内を歩き回ってみるのもいいかもしれない。
それから僕はもう一つ、気になっていたことについて聞いた。
「先生、この病院についてなのですが、時計やカレンダーがなくて不便です。それらがないことに理由とかって、ありますかね」
「それはだね。この場所で時間という概念は意味がないからだよ。しかし、体感で朝か夜かくらいは分かるだろう」
先生の言っていることは全くわからなかった。しかし、僕は言及しなかった。というか、できなかった。
「では、次は私から君に話したい事があるんだ。いいかな?」
先生は僕が何か言い返す前に、こう言ってきた。彼の変わった雰囲気に釣られて、「いいですよ」と、畏まった口調になりながらも僕は返事をした。
「君に会ってほしい人がいるんだ。名前は"虚路 周"というのだけれど…」
それ以降の話はあまり耳に入ってこなかった。その名を聞いた途端、全身から冷や汗が止まらず、息が苦しくなったのだ。虚路周。うつろ…しゅう。そう、あの悪夢で僕を…殺した、幼なげで狂気的な少年。
「…で、チヨ君。いいかな?…っと、大丈夫?顔色が優れないけれど」
気づくと先生は話し終えて、追い詰められたような僕を見て、心配していた。全く無事ではなかったが、「大丈夫です」と返事をしようと口を開けたとき、
「お…ゔぇっ…」
僕は盛大に嘔吐した。夢の中のあの光景が脳裏によぎる。よぎるというよりも、居座っていた。あの狂気の笑みが、痛みが、死ぬ瞬間が、脳にこびりついて離れない。
それを見た先生はすぐさまエチケット袋を机から取り出し、僕の口に当てて背中をさすってくれた。何も言わずに。
◇
それから、僕は落ち着きを取り戻し、「もう、大丈夫です」というと、先生は「そっか」と優しく僕に声をかける。
それから僕は先生に、"シュウに会ったこと"と"あの夢の中での出来事"を話した。
「なるほど。…やはり」
先生が、話を聞いて、何か予想が的中したという感じで、顎に手を当ててひとり、頷いている。そうして続けてこう言った。
「君の見た夢は、正しくは夢じゃない。それは、シュウ君の精神世界だ。君は"人の精神世界に入ることのできる異能"を持っているようだ」
先生は、カルテに何か書きながら続けて、
「チヨ君、君の病気が治るまで私達の助手として、その異能で患者の治療を手伝っては貰えないだろうか。色々な経験をすれば、記憶を取り戻すきっかけになるかもしれない。それに、その異能を使うときは我々は全力でサポートする。どうでだろうか」
真剣な眼差し、もしくは獲物を狙う蜘蛛のような目でこちらをみる先生にたじろぎながら、僕は深く考えた。
もう、あのような怖い思いはしたくない。だが、僕は僕の過去の記憶を知りたい。病気についてもだ。そのために、手段を選ぶ暇なんてないはずだ。
今の僕には、何も…ない。空っぽの器のカスイチヨである。そんなのは、嫌だ。
「いいですよ。やります、助手」
気づくと僕はそう答えていた。…いや、答えてしまった。
その一言が、僕の未来を左右する重要な一歩になるなんて知る由もなかったのだから。
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