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一話 黒染め眼鏡
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僕は小学3年生の頃からイジメに遭っていた。カバンを隠され、靴を捨てられ、菌が移ると避けられてきた。
きっと、両親が離婚したことが原因だ。苗字が変わって浮いてしまった。みんなが僕を馬鹿にしていた。そんなこと、忙しいお母さんに相談できる訳もない。もし、お母さんに伝わってしまったらと思うと先生にも話すことは出来なかった。
そんな風に過ごしていると、僕と話をしてくれる人なんていなくなった。
でも、おばあちゃんだけは僕の話を聞いてくれた。僕が何を好きで、何が嫌いで、何を考えて、何を思っているのかを知っているのはおばあちゃんだけだった。イジメの事だけは話せなかったが、それ以外のことは全部話した。
僕はおばあちゃんが大好きだった。
◇
僕が中学2年生になった年の11月某日、おばあちゃんが死んだ。交通事故だった。歩行者信号は青かったのにおばあちゃんは車に轢かれた。
僕はお母さんと2人でおばあちゃんの葬式に出た。みんな、泣いていた。いつも厳しいお母さんの涙を流す姿なんて初めて見た。
僕も泣いた。沢山泣いた。怖かったからだ。おばあちゃんともう2度と会えないことも怖かったけれど、それ以上に誰にでも訪れる可能性のある、対策しようのない脅威が僕には恐ろしくて仕方なかった。
人はいずれ死ぬし、人生の中で何度も痛い思いをすると思う。でも、その痛みを全て避けて寿命を迎えられるのなら、そんなに幸せな人生はきっとないだろう。
僕は痛いのが怖い。だから、それらを避けて生きていける道を望んだ。
◇
おばあちゃんが死んでから、1ヶ月の月日が経った。気付けば僕の生活はほとんど元通りになった。学校に行けばいじめられ、家に帰ってもお母さんは帰っておらず、1人でご飯を食べてシャワーを浴びて眠る。起きたらまた学校に行っていじめられる。そんな生活だ。
おばあちゃんのいなくなった日々に気付けば僕は慣れていた。楽しいことなんて何一つない人生でも、なぜか死ぬことは出来なかった。
ある日の学校の帰り道、僕は見知らぬ店の前で立ち止まる。
「こんな店、あったかな」
見知った帰路にポツンと違和感が1つ。昨日まで、その店があった場所には何もなかったはずだ。
奇妙な店に興味をそそられ、僕は入り口に書かれた文字を読む。
「のー……あどみ、たんす?」
英語で書かれた店名に首を傾げる。僕は英単語の読み方なんてわからないし、ましてやその意味を知るはずがない。
中を覗く。薄暗い。てるてる坊主が吊るされていることは分かるが、店内の様子は何も分からない。
今日はやっていないのだろうか。しかし、扉にはOpenと書かれた看板が吊り下げられている。
「店自体はやってる、のかな?」
それにしても、なんの店だろうか。気になる。
しかし、見知らぬ店に1人で入る勇気なんて僕にはない。しかし、僕には一緒に店に入ってくれる友人なんていなかった。
入店することもこの場を去ることも出来ず、僕は店の前をうろうろとした。
しかし、時間は有限だ。このまま家に帰らず店の前にいるわけにもいかない。
入店か、帰宅か。そのどちらかを選ばなければならないのだ。どちらが危険な目に遭う可能性が高いか。そんなの一目瞭然だった。
「よし、帰ろう」
僕は店に背を向け、一歩踏み出した。その時だった。見知らぬ店の扉は「キィ」と音を立てて開かれた。
「おや、お客様ですか」
扉の開いた音と誰かの声に驚いて、僕は咄嗟に振り返る。
そこには、僕よりも少し背が高く巨大なリュックを背負った妙ちきりんな人物がいた。その人は狐の面を身につけフードを被っており、顔が見えない。明らかに怪しい見た目に僕は警戒心を剥き出しにする。
何者かはそんな僕の様子を見て「ふふっ」と笑った。それから、中性的な声でこう口にした。
「いらっしゃいませ。ようこそ、ノーアドミタンスへ」
◇
店の名前はそう読むのだな、と思いつつ、僕は彼(彼女かもしれないが彼と仮定する)に向かって、首を大きく横に振る。
「あ、えっと、客とかじゃないんです!なんか、初めて見る店だったので、気になっちゃって」
「おや、そうでしたか」
「はい。あの、えっと……もう帰りますね」
僕はその場を立ち去ろうと、一歩後ずさる。興味がないわけではないが、見知らぬ店に見知らぬ人物。これがリスクでなくて何というのだ。もう、すぐにでも逃げてしまいたかった。
そんな僕を彼は引き留めた。
「お待ちください。貴方はきっとうちのお客様ですよ。ですから、どうぞコチラへ」
彼は僕を店へと案内しようと手で指し示す。
商魂逞しいものだ。しかし、今、客か否かを決めるのは僕だろう。
「いや、だから。客じゃないんです。じろじろ店を見ていたのは……すいません。でも、なんの店かもわからない店に入るつもりはないです。じゃあ……」
そう言って、僕は今度こそ家に帰るため、一歩踏み出す。
「"危険な目に遭うことが怖い"のですよね?」
彼の言葉を聞いて、足を止めた。
"危険な目に遭うことが怖い"。それはどのような人にでも当てはまることだろう。
バーナム効果というやつだ。誰にでも当てはまるようなことをまるで自分だけのことのように感じてしまう現象。それは人からお金を毟り取る悪い人物の活用する、人の特徴であると学校の先生が言っていた気がする。
僕は今まさにそれを実感している。道端で占い師に声をかけられる…なんて経験は一度もないが、きっとこのような気持ちなのだろう。
しかし、その言葉は僕にとって効果覿面すぎた。僕はおばあちゃんの事故死で人一倍それを恐れている。だから、今そんな言葉をかけられたら釣られてしまうに決まっているのだ。
何故、僕にとってその言葉が弱点であることを彼は知っていたのか、という疑問を抱くより先に、僕は彼の手招く店へ足を進める。
「いらっしゃいませ」
2回目の挨拶を聞き、僕はノーアドミタンスという店に入店した。
◇
「改めまして、古物店ノーアドミタンスへようこそお越しくださいました。私、此処の店主をしております、しがない古物商でございます」
「あ、はい。どうも」
僕は古物商を自称する彼の言葉を受け流し、店内を見渡す。外から見た時から分かっていたが、薄暗い。それに、商品は一つも置かれていない。古物店というくらいだから、壺や時計などが置かれているものかと思ったが、そのようなものが一つもないのだ。
疑問に思いながらも、先程の言葉の真意を探るため僕は彼へと問いかける。
「さっきの言葉。あの、どういう意味ですか?」
「先程の言葉……あぁ、"危険な目に遭うことが怖い"ですか」
「はい。なんでそんなこと、僕に言ったんですか」
「それは、そうお見受けしたからですよ。貴方はとびっきりの臆病者のようでしたから」
臆病者、そうだ。僕はとびっきりの臆病者だ。その通りではあるのだが、失礼ではないだろうか。こういう事は事実だと自覚して受け止めることができているつもりでも、他者から言われてしまうとどうしても癪に触る。初対面の相手にそれをされてしまったのだから、僕の中で不満が渦巻くのを感じた。
「お、臆病者って失礼じゃないですか?」
「いえいえ、事実を言ったまで。だって、何よりも怖いのでしょう? 危険な目に遭うことが」
見透かされているような気がした。僕の全てを彼は知っている…そんな恐怖でそれ以上言い返すことは出来なかった。
そんな僕の心情を知ってか知らずか、彼は続ける。
「そんなお客様にピッタリの商品がありますよ」
そう言って古物商は背負った巨大なリュックを下ろし、中をガサゴソと物色する。その中に商品が入っているのだろうか。
なんというか、大雑把だった。その中に入っているものが本当に商品だとして、それが古物店の物なのだとすると彼の行いは間違っているだろう。もしも、中に割れ物なんてあったのならば危険だ。指を怪我してしまうかもしれないし、商品が台無しになることだってある。
僕は堪らず口を開く。
「あの、鞄に入れた商品、店に並べたりすればいいんじゃないですか? ほら、古物店っていうくらいですから、大事なものもあるでしょ。それをそんな鞄に入れてちゃ危なくないですか?」
「あぁ。いえいえ、大丈夫ですよ。この鞄は特別製ですから。それに、お客様にお出しする商品は私が選りすぐりますからね」
いくら特別製でも、商品が壊れるリスクは並べて置いておく方が低いだろう。それに、商品を選りすぐる店員というのも、おかしなことはないのかもしれないが何処か腹立たしい。なんだか、自分が見定められているように感じる。商品を提供するに値しない人間なら、この店員は商品を提供しない、もしくは安い物しか販売してくれないのだろうか。そんなの、おかしいだろう。客に商品を選ぶ権利はあるはずだ。
そして、僕は彼の言葉にこう返した。
「あ、そうなんですね……」
僕はすぐに引き下がった。納得は行かなかったが、これ以上彼に意見を述べて怒らせてしまっては危険だろう。
そうして、彼は鞄の中から何かを見つけたのかそれを掴んで引き上げる。
「それは、何ですか?」
古物商は右手に金属でできた何かのケースを握っていた。
そうして、そのケースを開いて中身を僕の方へと向ける。
「めが、ね?」
そこには、縁が銅色の丸眼鏡が入っていた。
「えぇ。コチラが貴方にピッタリの商品です」
どうやら、この眼鏡こそが僕に買わせたい商品のようだった。
古物商はそれを僕に手渡す。恐る恐る、手に取る。そうして、まじまじと見つめる。僕から見ればこの眼鏡はただの眼鏡に見えた。
何か仕掛けがあるようには思えない。それほどに古い眼鏡だった。
「え、いや。でも、僕、目とか悪くないですよ?」
「えぇ。そのようですね」
「だから、眼鏡はいらないと思うんですけれど……」
「いえ、コチラの眼鏡は視力を調整するための物ではございませんので」
その言葉に僕は首を傾げる。つまり、この眼鏡はレンズが平面の伊達メガネだとでもいうのだろうか。だとしたら、尚の事いらない。そんなものを押し付けられるとは流石に思われていないだろう。
僕は他に可能性はないかと考え、一つ思いついた。
「目の、保護とかに使うものですか?」
そう。眼鏡の用途にはこのようなものもあったはずだ。例えば、陽の光やブルーライトのような光線から目を守る役割を持つ眼鏡もあった。他にも、眼鏡をかけていたら液体が目に入ることを防いでくれるかもしれない。
僕の思いつきで発した言葉に古物商は首を横に振って返した。
「惜しいですが……少し、違いますね」
「じゃあ、何のための眼鏡なんですか」
「試しに掛けていただければ分かると思いますよ」
僕は彼に言われるがまま、半信半疑で眼鏡を掛ける。
やはり度は入っていないようで、視力が変わるなんてことはない。それからレンズに色がついていることもなく、光線から目を保護するような役割も見て取れない。
なんだ、ただの伊達眼鏡ではないか。そう思って古物商の方を見たとき、黒く濁った何かが目に映った。
突然の出来事に驚いた僕は後ずさる。瞬間、古物商は何処から取り出した、手斧を僕に目掛けて振り回した。
「危なっ!」
手斧は先程まで僕のいた場所を横断した。もしも、後ずさっていなかったらと考えると、恐ろしい。
「な、何しているんですか! というか、何考えているんですか! 危ないでしょ!」
「おや、すいません。ですが、当たりませんでしたよね」
「そりゃ、当たりはしませんでしたけれど、危ない物は危ないですよ! もし僕が躱せていなかったら……」
そこまで言って、言い淀む。
そうだ、僕は古物商の振り回した手斧を躱した。それは、黒いモヤが目に映って、驚いた僕が後ずさったために起こった奇跡だ。しかし、今考えてみると、その黒いモヤは手斧の軌道を表していたように感じる。
僕が答えに辿り着いた時、古物商が笑みを浮かべた気がした。
「そう。この眼鏡は、貴方の眼球だけではなく、貴方自身を危険から守ってくれる優れもの」
「危ない場所が黒く映る。お客様にピッタリな商品なのです」
僕は息を呑んだ。
古物商の言葉が正しければ、僕が先程見た黒いモヤは事前に危険地帯を示唆した物だったということだ。
そして、理解した。仕組みは分からないが、この眼鏡があれば危機を察知して事前に防ぐことができるという事を。
欲しい。欲しい欲しい欲しい。これさえあれば、僕は自信を持って生きてゆける。
だが、この眼鏡を諦めなければならなかった。
僕は眼鏡を外す。
「あの、素晴らしい商品だとは思うんですが……僕、そんなお金持ってなくて」
それは最初に言うべきことだった。これを言ったのなら店に入れてもらうことすらなかったはずだ。
そして、そんなにお金を持っていないなんて言ったが実は今、僕は一銭も持っていない。無一文である。それなのに、試しに商品を利用して…飛んだ冷やかしだ。
元を正せば古物商が僕をここに連れてきたとはいえ、これではクソ客待ったなし。
追い出される覚悟で古物商に目を向ける。
彼は僕の言葉に怒る事も悲しむ事もなく口を開いた。
「あぁ、お代は結構ですよ」
「え?」
それは衝撃的な発言だった。お代は、結構? そんなわけが無いであろう。
商品を手に入れるために買い手が金を払い、売り手が受け取り商品を渡す。それが売買であり、店で行われるべき事だ。だから、今回も僕がお金を払わなければ、商品を手にする事は不可能なはずだ。そのはずなのにお代は結構?
「タダって……怪しすぎますよ!」
僕はつい声を荒げてしまった。古物商はそんな僕を見てなお、先程と一切変わらない様子であった。
「対価はこれからの貴方次第ではあります。ただ、お金じゃないので安心してください」
「はぁ……」
金じゃない対価とは何か。僕にはさっぱり分からない。それに、どうすれば対価は支払わずに済むのだろうか。思考を巡らせて問いかける。
「そ、それは悪用をするなってことですか?」
「いえ、好きに扱ってくれて構いませんよ。あぁ、対価のことですか。あまり気にしないで大丈夫ですよ。貴方には関係ありませんから」
僕には関係ない。そんな訳ないだろうと言いたくなった。
何かをすれば対価を支払う事になる。でも、その何かがわからないなんておかしい。
この取引は断るべきだ。そう感じている。感じているのに、断れない。その眼鏡を僕は欲していた。対価が何であったとしても、安全のための犠牲なら仕方ない。
そう考えて、僕は頷いた。頷いてしまった。
「分かりました。じゃあ、これください」
「まいどあり」
その言葉を聞いて、再度眼鏡を掛ける。周囲に黒いモヤはない。ここに危険はない。そう安心して、古物商に頭を下げる。
そうして、僕が出口の扉に手を掛ける。
「最後に一つ。物には魂が宿る。それを忘れずに、商品をご利用ください。では……」
そんな言葉を聞きながら、僕はその店を後にした。
◇
家に帰るまでの道中、様々な場所で黒を見た。道路の真ん中や川の中、公園の遊具にコンビニの入り口。なぜ黒く映るのか、理由の分かる場所にもそれが分からない場所にも黒は存在していた。
理由が分からないからといって僕はそこには近寄らない。きっと、危険な何かがあったのだ。それを事前に避ける事ができるこの眼鏡はやはり素晴らしい物だと思う。
「ただいま」
家に着き、扉を開ける。少し帰る時間が遅くなったがお母さんはいるはずがない。まだ、仕事をしているのだろう。
冷蔵庫を開ければ、ラップに"食べたら洗ってね"とメモの貼られたカレーとサラダが入っていた。
僕はカレーを電子レンジで加熱して食べる。書かれていた通り食べ終わったら皿を洗う。そうして、シャワーを浴びて着替えた。
もう、明日からは危険な目に遭うことはない。そんな希望に胸躍らせながら、僕は眼鏡を大事にケースに入れて、眠りについた。
………
……
…
「行ってくるね! 遅刻しないでよ!」
お母さんの声で僕は目を覚ました。返事をしようと起き上がった時、ガチャリと扉の閉まる音がした。もう、仕事に出てしまったようだ。
僕はベッド横に置いてあったケースを見る。どうや、昨日のことは嘘ではなかったようだ。そこから眼鏡を取り出して、掛ける。
周囲に黒は映っておらず、我が家が安全であることに一息ついた。
朝食を食べ、学校へと向かう。
眼鏡は通学路の所々に黒を映した。危険な場所が分かるというのはやはり良いものだ。僕はそれらを避けて、中学校へとたどり着いた。
「おい、"ワキガ"の奴……眼鏡かけてきてるぞ」
「丸い眼鏡とか、オシャレ気取りかよ」
遠くから、ヒソヒソと声が聞こえてきた。僕をいじめる奴らの声だ。どうやら、僕が眼鏡を掛けて登校するだけで彼らにとっては不快らしい。
また嫌がらせを受けるだろうか。しかし、今の僕にはそれが怖くない。
事前に防ぐことのできる危険は、脅威ではない。
その日、学校の至る所に黒があった。空き教室や理科室に廊下の隅。僕はそれらを避けて生活した。特に昼休みにトイレの個室を避けた後のいじめっ子達の顔は最高だった。
今日も僕がトイレで昼食を食べると思っていたアイツらは掃除用のバケツいっぱいに水を溜めて待機していたのだろう。だから、トイレの個室だけが真っ黒だった。
そんな危険な場所に僕は行かなかった。そうして、後ですれ違ったいじめっ子の憎むような顔を見て嬉しくなってしまった。
次の日は靴が黒くなっていたため、中を確認して画鋲を取り出した。また次の日は自分の机の中が黒かったため、様子を見ていると虫が出ていった。さらに次の日、その次の日……と僕はいじめっ子達の嫌がらせを避けつづけた。
眼鏡のおかげで、僕に不利益は訪れない。安全を保障された生活は楽しかった。
そして、ある日。下校中にいじめっ子の集団が帰っていく姿を見た。
彼らの行く先は黒く塗りつぶされていた。このまま進めば、彼らはどうにかなってしまう。
だから、何も言わなかった。どうにかなってしまえと、そう思ったから。
次の瞬間、一台のトラックがいじめっ子達に突っ込んでいった。それは突然の出来事で僕以外の誰も予想ができないことだった。
その後、事の顛末を学校で聞いた。どうやら、トラックの運転手は居眠り運転をしていたらしく、そのままいじめっ子達に激突したとのことだった。
誰も亡くなりはしなかったが、5人中、2人が入院生活を余儀なくされた。
彼らは群れなければ、いじめることもできなかったらしい。そうして、世界から黒色は減っていった。
嫌がらせはほとんど受けなくなったとはいえ、全ての黒が消えてなくなるわけではない。人の悪意による黒はほとんどなくなったが、自然に発生する黒が消えることはない。例えば、道に落ちている石ころ。誰が置いたというわけでもないそれに躓けば転んで怪我をしてしまうかもしれない。だから、道には黒い場所がある。
僕だけの危険ではない黒色が。
◇
気づけば、僕は中学3年生になっていた。
僕の危険に恐怖する性格は直るどころか悪化しており、相変わらずあの時貰った眼鏡を掛けて生活している。
その年の夏、僕をいじめていた2人が入院生活を終えて、学校に復帰した。いじめっ子集団の再結成だ。だが、怖くはない。僕にはこの眼鏡があった。
しかし、予想とは裏腹に彼らが僕に手を出すことはなかった。いや、気づいていないだけだったのかもしれない。黒を避け続けた僕には、人為的な黒か自然的な黒かを判別できなくなっていた。
ある日、水泳の授業があった。
僕は何食わぬ顔で眼鏡を掛けたまま授業に参加しようとしたが、それを先生に止められた。
眼鏡をしたままでは泳ぐことはできない。代わりにゴーグルをしろと言われた。
そんなこと、出来るはずがない。いくらプールとはいえ、水の中は危険だ。そこに危険地帯が分かる眼鏡もせずに向かうなどアホらしい。
僕は体調不良を訴えて授業を休もうとしたが、すぐに元気であることが先生にばれて眼鏡は更衣室に置き去りになった。
コンタクトであれば誤魔化せたのに。そんなことを考えながら、僕はプールへと向かった。
久しぶりの危険な場所が分からない状況には気が滅入った。それはまともに泳ぐことが出来ないほどで、挙動不審な僕に気づいた先生は「本当に体調不良だったのか」と心配して僕をプールから出してくれた。
それから、すぐに眼鏡を掛けようと走った。そうして、更衣室へ辿り着く。
あぁ、やっと眼鏡が掛けられる。
危険が分からない状況は僕にとってとてつもなくストレスだったようで、それを晴らすかのように、ふと思考が巡った。
そういえば、いじめっ子集団にトラックが衝突した時、僕はそこが危険だと分かっていた。それは事前にその場所が黒色で染まっていたからだ。この眼鏡は、危険な場所を黒く染めてくれるもので、それは僕だけにとっての危険ではない際にも適応された。そう。僕だけの危険ではない黒色もある。
悪い思考は止まらない。
じゃあ、"黒い場所に誰かを誘き出せば、その人は危険な目に遭う"ということだろうか。
つい、笑みが溢れた。
あぁ、そうだ。復讐をしよう。僕をいじめたアイツらに。それを見過ごしたアイツらに。
僕はロッカーを開く。その時、違和感があった。鍵が掛かっていなかったのだ。
どうやら、僕は鍵をかけ忘れていたらしい。
それはもう焦った。
もしかしたら、誰かに僕の眼鏡の特殊な力がバレて盗られたかもしれない。
そんな焦りとは裏腹に、ロッカーに大事な眼鏡はあった。
「よかった」
僕は安心感から着替えることもせずに真っ先にその眼鏡に手を伸ばす。
これから起こす復讐劇に想いを馳せて、僕は眼鏡を掛けた。
そうして、絶望した。
世界は危険で埋め尽くされてた。
え、なんで?意味がわからない。
僕は首を振り回した。何処もかしこも、黒、黒、黒。
ここは危険だ。僕は更衣室から飛び出して、学校の中を走り回った。廊下も黒。教室も黒。図書室も黒。音楽室も理科室も窓から見える外の景色さえも真っ黒だ。
黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒。
インクを溢したかのように真っ黒な世界だ。安全地帯は何処にもない。
それでも諦めず、僕は必死に走り回る。そうして、水着姿のまま僕は学校から飛び出す。
きっと、何処かに黒くない場所があるはずだ。僕は、僕だけでも逃げるんだ。
そうして、道路に飛び出した。
甲高い音が一瞬聞こえた。
瞬間。
全身に激痛が走った。
あ、ああ! 痛い! 痛い痛い! 痛い痛い痛い!
地面に叩き付けられて、眼鏡が割れた。
そして、僕の眼は外の世界を映し出す。煙を上げるトラック、何かを叫ぶ男の姿、僕から噴き出す赤い血液。
これが何を意味するのか痛みで僕には何も分からなかった。
そうして、視界は徐々にボヤけていき、最期には
僕の世界は一色に染まった。
◇◇◇
喧しいほど、サイレンの音が鳴り響く。
血痕が10mほどの道を作っていた。その終着点で、もう動かない少年を見下す1人の影があった。
彼はその無惨な事故現場で何かを見つけてしゃがみ込む。
「おや、アナタも喰われてしまいましたか」
古物商は粉々に砕け散った眼鏡を拾い、こう口にした。
きっと、両親が離婚したことが原因だ。苗字が変わって浮いてしまった。みんなが僕を馬鹿にしていた。そんなこと、忙しいお母さんに相談できる訳もない。もし、お母さんに伝わってしまったらと思うと先生にも話すことは出来なかった。
そんな風に過ごしていると、僕と話をしてくれる人なんていなくなった。
でも、おばあちゃんだけは僕の話を聞いてくれた。僕が何を好きで、何が嫌いで、何を考えて、何を思っているのかを知っているのはおばあちゃんだけだった。イジメの事だけは話せなかったが、それ以外のことは全部話した。
僕はおばあちゃんが大好きだった。
◇
僕が中学2年生になった年の11月某日、おばあちゃんが死んだ。交通事故だった。歩行者信号は青かったのにおばあちゃんは車に轢かれた。
僕はお母さんと2人でおばあちゃんの葬式に出た。みんな、泣いていた。いつも厳しいお母さんの涙を流す姿なんて初めて見た。
僕も泣いた。沢山泣いた。怖かったからだ。おばあちゃんともう2度と会えないことも怖かったけれど、それ以上に誰にでも訪れる可能性のある、対策しようのない脅威が僕には恐ろしくて仕方なかった。
人はいずれ死ぬし、人生の中で何度も痛い思いをすると思う。でも、その痛みを全て避けて寿命を迎えられるのなら、そんなに幸せな人生はきっとないだろう。
僕は痛いのが怖い。だから、それらを避けて生きていける道を望んだ。
◇
おばあちゃんが死んでから、1ヶ月の月日が経った。気付けば僕の生活はほとんど元通りになった。学校に行けばいじめられ、家に帰ってもお母さんは帰っておらず、1人でご飯を食べてシャワーを浴びて眠る。起きたらまた学校に行っていじめられる。そんな生活だ。
おばあちゃんのいなくなった日々に気付けば僕は慣れていた。楽しいことなんて何一つない人生でも、なぜか死ぬことは出来なかった。
ある日の学校の帰り道、僕は見知らぬ店の前で立ち止まる。
「こんな店、あったかな」
見知った帰路にポツンと違和感が1つ。昨日まで、その店があった場所には何もなかったはずだ。
奇妙な店に興味をそそられ、僕は入り口に書かれた文字を読む。
「のー……あどみ、たんす?」
英語で書かれた店名に首を傾げる。僕は英単語の読み方なんてわからないし、ましてやその意味を知るはずがない。
中を覗く。薄暗い。てるてる坊主が吊るされていることは分かるが、店内の様子は何も分からない。
今日はやっていないのだろうか。しかし、扉にはOpenと書かれた看板が吊り下げられている。
「店自体はやってる、のかな?」
それにしても、なんの店だろうか。気になる。
しかし、見知らぬ店に1人で入る勇気なんて僕にはない。しかし、僕には一緒に店に入ってくれる友人なんていなかった。
入店することもこの場を去ることも出来ず、僕は店の前をうろうろとした。
しかし、時間は有限だ。このまま家に帰らず店の前にいるわけにもいかない。
入店か、帰宅か。そのどちらかを選ばなければならないのだ。どちらが危険な目に遭う可能性が高いか。そんなの一目瞭然だった。
「よし、帰ろう」
僕は店に背を向け、一歩踏み出した。その時だった。見知らぬ店の扉は「キィ」と音を立てて開かれた。
「おや、お客様ですか」
扉の開いた音と誰かの声に驚いて、僕は咄嗟に振り返る。
そこには、僕よりも少し背が高く巨大なリュックを背負った妙ちきりんな人物がいた。その人は狐の面を身につけフードを被っており、顔が見えない。明らかに怪しい見た目に僕は警戒心を剥き出しにする。
何者かはそんな僕の様子を見て「ふふっ」と笑った。それから、中性的な声でこう口にした。
「いらっしゃいませ。ようこそ、ノーアドミタンスへ」
◇
店の名前はそう読むのだな、と思いつつ、僕は彼(彼女かもしれないが彼と仮定する)に向かって、首を大きく横に振る。
「あ、えっと、客とかじゃないんです!なんか、初めて見る店だったので、気になっちゃって」
「おや、そうでしたか」
「はい。あの、えっと……もう帰りますね」
僕はその場を立ち去ろうと、一歩後ずさる。興味がないわけではないが、見知らぬ店に見知らぬ人物。これがリスクでなくて何というのだ。もう、すぐにでも逃げてしまいたかった。
そんな僕を彼は引き留めた。
「お待ちください。貴方はきっとうちのお客様ですよ。ですから、どうぞコチラへ」
彼は僕を店へと案内しようと手で指し示す。
商魂逞しいものだ。しかし、今、客か否かを決めるのは僕だろう。
「いや、だから。客じゃないんです。じろじろ店を見ていたのは……すいません。でも、なんの店かもわからない店に入るつもりはないです。じゃあ……」
そう言って、僕は今度こそ家に帰るため、一歩踏み出す。
「"危険な目に遭うことが怖い"のですよね?」
彼の言葉を聞いて、足を止めた。
"危険な目に遭うことが怖い"。それはどのような人にでも当てはまることだろう。
バーナム効果というやつだ。誰にでも当てはまるようなことをまるで自分だけのことのように感じてしまう現象。それは人からお金を毟り取る悪い人物の活用する、人の特徴であると学校の先生が言っていた気がする。
僕は今まさにそれを実感している。道端で占い師に声をかけられる…なんて経験は一度もないが、きっとこのような気持ちなのだろう。
しかし、その言葉は僕にとって効果覿面すぎた。僕はおばあちゃんの事故死で人一倍それを恐れている。だから、今そんな言葉をかけられたら釣られてしまうに決まっているのだ。
何故、僕にとってその言葉が弱点であることを彼は知っていたのか、という疑問を抱くより先に、僕は彼の手招く店へ足を進める。
「いらっしゃいませ」
2回目の挨拶を聞き、僕はノーアドミタンスという店に入店した。
◇
「改めまして、古物店ノーアドミタンスへようこそお越しくださいました。私、此処の店主をしております、しがない古物商でございます」
「あ、はい。どうも」
僕は古物商を自称する彼の言葉を受け流し、店内を見渡す。外から見た時から分かっていたが、薄暗い。それに、商品は一つも置かれていない。古物店というくらいだから、壺や時計などが置かれているものかと思ったが、そのようなものが一つもないのだ。
疑問に思いながらも、先程の言葉の真意を探るため僕は彼へと問いかける。
「さっきの言葉。あの、どういう意味ですか?」
「先程の言葉……あぁ、"危険な目に遭うことが怖い"ですか」
「はい。なんでそんなこと、僕に言ったんですか」
「それは、そうお見受けしたからですよ。貴方はとびっきりの臆病者のようでしたから」
臆病者、そうだ。僕はとびっきりの臆病者だ。その通りではあるのだが、失礼ではないだろうか。こういう事は事実だと自覚して受け止めることができているつもりでも、他者から言われてしまうとどうしても癪に触る。初対面の相手にそれをされてしまったのだから、僕の中で不満が渦巻くのを感じた。
「お、臆病者って失礼じゃないですか?」
「いえいえ、事実を言ったまで。だって、何よりも怖いのでしょう? 危険な目に遭うことが」
見透かされているような気がした。僕の全てを彼は知っている…そんな恐怖でそれ以上言い返すことは出来なかった。
そんな僕の心情を知ってか知らずか、彼は続ける。
「そんなお客様にピッタリの商品がありますよ」
そう言って古物商は背負った巨大なリュックを下ろし、中をガサゴソと物色する。その中に商品が入っているのだろうか。
なんというか、大雑把だった。その中に入っているものが本当に商品だとして、それが古物店の物なのだとすると彼の行いは間違っているだろう。もしも、中に割れ物なんてあったのならば危険だ。指を怪我してしまうかもしれないし、商品が台無しになることだってある。
僕は堪らず口を開く。
「あの、鞄に入れた商品、店に並べたりすればいいんじゃないですか? ほら、古物店っていうくらいですから、大事なものもあるでしょ。それをそんな鞄に入れてちゃ危なくないですか?」
「あぁ。いえいえ、大丈夫ですよ。この鞄は特別製ですから。それに、お客様にお出しする商品は私が選りすぐりますからね」
いくら特別製でも、商品が壊れるリスクは並べて置いておく方が低いだろう。それに、商品を選りすぐる店員というのも、おかしなことはないのかもしれないが何処か腹立たしい。なんだか、自分が見定められているように感じる。商品を提供するに値しない人間なら、この店員は商品を提供しない、もしくは安い物しか販売してくれないのだろうか。そんなの、おかしいだろう。客に商品を選ぶ権利はあるはずだ。
そして、僕は彼の言葉にこう返した。
「あ、そうなんですね……」
僕はすぐに引き下がった。納得は行かなかったが、これ以上彼に意見を述べて怒らせてしまっては危険だろう。
そうして、彼は鞄の中から何かを見つけたのかそれを掴んで引き上げる。
「それは、何ですか?」
古物商は右手に金属でできた何かのケースを握っていた。
そうして、そのケースを開いて中身を僕の方へと向ける。
「めが、ね?」
そこには、縁が銅色の丸眼鏡が入っていた。
「えぇ。コチラが貴方にピッタリの商品です」
どうやら、この眼鏡こそが僕に買わせたい商品のようだった。
古物商はそれを僕に手渡す。恐る恐る、手に取る。そうして、まじまじと見つめる。僕から見ればこの眼鏡はただの眼鏡に見えた。
何か仕掛けがあるようには思えない。それほどに古い眼鏡だった。
「え、いや。でも、僕、目とか悪くないですよ?」
「えぇ。そのようですね」
「だから、眼鏡はいらないと思うんですけれど……」
「いえ、コチラの眼鏡は視力を調整するための物ではございませんので」
その言葉に僕は首を傾げる。つまり、この眼鏡はレンズが平面の伊達メガネだとでもいうのだろうか。だとしたら、尚の事いらない。そんなものを押し付けられるとは流石に思われていないだろう。
僕は他に可能性はないかと考え、一つ思いついた。
「目の、保護とかに使うものですか?」
そう。眼鏡の用途にはこのようなものもあったはずだ。例えば、陽の光やブルーライトのような光線から目を守る役割を持つ眼鏡もあった。他にも、眼鏡をかけていたら液体が目に入ることを防いでくれるかもしれない。
僕の思いつきで発した言葉に古物商は首を横に振って返した。
「惜しいですが……少し、違いますね」
「じゃあ、何のための眼鏡なんですか」
「試しに掛けていただければ分かると思いますよ」
僕は彼に言われるがまま、半信半疑で眼鏡を掛ける。
やはり度は入っていないようで、視力が変わるなんてことはない。それからレンズに色がついていることもなく、光線から目を保護するような役割も見て取れない。
なんだ、ただの伊達眼鏡ではないか。そう思って古物商の方を見たとき、黒く濁った何かが目に映った。
突然の出来事に驚いた僕は後ずさる。瞬間、古物商は何処から取り出した、手斧を僕に目掛けて振り回した。
「危なっ!」
手斧は先程まで僕のいた場所を横断した。もしも、後ずさっていなかったらと考えると、恐ろしい。
「な、何しているんですか! というか、何考えているんですか! 危ないでしょ!」
「おや、すいません。ですが、当たりませんでしたよね」
「そりゃ、当たりはしませんでしたけれど、危ない物は危ないですよ! もし僕が躱せていなかったら……」
そこまで言って、言い淀む。
そうだ、僕は古物商の振り回した手斧を躱した。それは、黒いモヤが目に映って、驚いた僕が後ずさったために起こった奇跡だ。しかし、今考えてみると、その黒いモヤは手斧の軌道を表していたように感じる。
僕が答えに辿り着いた時、古物商が笑みを浮かべた気がした。
「そう。この眼鏡は、貴方の眼球だけではなく、貴方自身を危険から守ってくれる優れもの」
「危ない場所が黒く映る。お客様にピッタリな商品なのです」
僕は息を呑んだ。
古物商の言葉が正しければ、僕が先程見た黒いモヤは事前に危険地帯を示唆した物だったということだ。
そして、理解した。仕組みは分からないが、この眼鏡があれば危機を察知して事前に防ぐことができるという事を。
欲しい。欲しい欲しい欲しい。これさえあれば、僕は自信を持って生きてゆける。
だが、この眼鏡を諦めなければならなかった。
僕は眼鏡を外す。
「あの、素晴らしい商品だとは思うんですが……僕、そんなお金持ってなくて」
それは最初に言うべきことだった。これを言ったのなら店に入れてもらうことすらなかったはずだ。
そして、そんなにお金を持っていないなんて言ったが実は今、僕は一銭も持っていない。無一文である。それなのに、試しに商品を利用して…飛んだ冷やかしだ。
元を正せば古物商が僕をここに連れてきたとはいえ、これではクソ客待ったなし。
追い出される覚悟で古物商に目を向ける。
彼は僕の言葉に怒る事も悲しむ事もなく口を開いた。
「あぁ、お代は結構ですよ」
「え?」
それは衝撃的な発言だった。お代は、結構? そんなわけが無いであろう。
商品を手に入れるために買い手が金を払い、売り手が受け取り商品を渡す。それが売買であり、店で行われるべき事だ。だから、今回も僕がお金を払わなければ、商品を手にする事は不可能なはずだ。そのはずなのにお代は結構?
「タダって……怪しすぎますよ!」
僕はつい声を荒げてしまった。古物商はそんな僕を見てなお、先程と一切変わらない様子であった。
「対価はこれからの貴方次第ではあります。ただ、お金じゃないので安心してください」
「はぁ……」
金じゃない対価とは何か。僕にはさっぱり分からない。それに、どうすれば対価は支払わずに済むのだろうか。思考を巡らせて問いかける。
「そ、それは悪用をするなってことですか?」
「いえ、好きに扱ってくれて構いませんよ。あぁ、対価のことですか。あまり気にしないで大丈夫ですよ。貴方には関係ありませんから」
僕には関係ない。そんな訳ないだろうと言いたくなった。
何かをすれば対価を支払う事になる。でも、その何かがわからないなんておかしい。
この取引は断るべきだ。そう感じている。感じているのに、断れない。その眼鏡を僕は欲していた。対価が何であったとしても、安全のための犠牲なら仕方ない。
そう考えて、僕は頷いた。頷いてしまった。
「分かりました。じゃあ、これください」
「まいどあり」
その言葉を聞いて、再度眼鏡を掛ける。周囲に黒いモヤはない。ここに危険はない。そう安心して、古物商に頭を下げる。
そうして、僕が出口の扉に手を掛ける。
「最後に一つ。物には魂が宿る。それを忘れずに、商品をご利用ください。では……」
そんな言葉を聞きながら、僕はその店を後にした。
◇
家に帰るまでの道中、様々な場所で黒を見た。道路の真ん中や川の中、公園の遊具にコンビニの入り口。なぜ黒く映るのか、理由の分かる場所にもそれが分からない場所にも黒は存在していた。
理由が分からないからといって僕はそこには近寄らない。きっと、危険な何かがあったのだ。それを事前に避ける事ができるこの眼鏡はやはり素晴らしい物だと思う。
「ただいま」
家に着き、扉を開ける。少し帰る時間が遅くなったがお母さんはいるはずがない。まだ、仕事をしているのだろう。
冷蔵庫を開ければ、ラップに"食べたら洗ってね"とメモの貼られたカレーとサラダが入っていた。
僕はカレーを電子レンジで加熱して食べる。書かれていた通り食べ終わったら皿を洗う。そうして、シャワーを浴びて着替えた。
もう、明日からは危険な目に遭うことはない。そんな希望に胸躍らせながら、僕は眼鏡を大事にケースに入れて、眠りについた。
………
……
…
「行ってくるね! 遅刻しないでよ!」
お母さんの声で僕は目を覚ました。返事をしようと起き上がった時、ガチャリと扉の閉まる音がした。もう、仕事に出てしまったようだ。
僕はベッド横に置いてあったケースを見る。どうや、昨日のことは嘘ではなかったようだ。そこから眼鏡を取り出して、掛ける。
周囲に黒は映っておらず、我が家が安全であることに一息ついた。
朝食を食べ、学校へと向かう。
眼鏡は通学路の所々に黒を映した。危険な場所が分かるというのはやはり良いものだ。僕はそれらを避けて、中学校へとたどり着いた。
「おい、"ワキガ"の奴……眼鏡かけてきてるぞ」
「丸い眼鏡とか、オシャレ気取りかよ」
遠くから、ヒソヒソと声が聞こえてきた。僕をいじめる奴らの声だ。どうやら、僕が眼鏡を掛けて登校するだけで彼らにとっては不快らしい。
また嫌がらせを受けるだろうか。しかし、今の僕にはそれが怖くない。
事前に防ぐことのできる危険は、脅威ではない。
その日、学校の至る所に黒があった。空き教室や理科室に廊下の隅。僕はそれらを避けて生活した。特に昼休みにトイレの個室を避けた後のいじめっ子達の顔は最高だった。
今日も僕がトイレで昼食を食べると思っていたアイツらは掃除用のバケツいっぱいに水を溜めて待機していたのだろう。だから、トイレの個室だけが真っ黒だった。
そんな危険な場所に僕は行かなかった。そうして、後ですれ違ったいじめっ子の憎むような顔を見て嬉しくなってしまった。
次の日は靴が黒くなっていたため、中を確認して画鋲を取り出した。また次の日は自分の机の中が黒かったため、様子を見ていると虫が出ていった。さらに次の日、その次の日……と僕はいじめっ子達の嫌がらせを避けつづけた。
眼鏡のおかげで、僕に不利益は訪れない。安全を保障された生活は楽しかった。
そして、ある日。下校中にいじめっ子の集団が帰っていく姿を見た。
彼らの行く先は黒く塗りつぶされていた。このまま進めば、彼らはどうにかなってしまう。
だから、何も言わなかった。どうにかなってしまえと、そう思ったから。
次の瞬間、一台のトラックがいじめっ子達に突っ込んでいった。それは突然の出来事で僕以外の誰も予想ができないことだった。
その後、事の顛末を学校で聞いた。どうやら、トラックの運転手は居眠り運転をしていたらしく、そのままいじめっ子達に激突したとのことだった。
誰も亡くなりはしなかったが、5人中、2人が入院生活を余儀なくされた。
彼らは群れなければ、いじめることもできなかったらしい。そうして、世界から黒色は減っていった。
嫌がらせはほとんど受けなくなったとはいえ、全ての黒が消えてなくなるわけではない。人の悪意による黒はほとんどなくなったが、自然に発生する黒が消えることはない。例えば、道に落ちている石ころ。誰が置いたというわけでもないそれに躓けば転んで怪我をしてしまうかもしれない。だから、道には黒い場所がある。
僕だけの危険ではない黒色が。
◇
気づけば、僕は中学3年生になっていた。
僕の危険に恐怖する性格は直るどころか悪化しており、相変わらずあの時貰った眼鏡を掛けて生活している。
その年の夏、僕をいじめていた2人が入院生活を終えて、学校に復帰した。いじめっ子集団の再結成だ。だが、怖くはない。僕にはこの眼鏡があった。
しかし、予想とは裏腹に彼らが僕に手を出すことはなかった。いや、気づいていないだけだったのかもしれない。黒を避け続けた僕には、人為的な黒か自然的な黒かを判別できなくなっていた。
ある日、水泳の授業があった。
僕は何食わぬ顔で眼鏡を掛けたまま授業に参加しようとしたが、それを先生に止められた。
眼鏡をしたままでは泳ぐことはできない。代わりにゴーグルをしろと言われた。
そんなこと、出来るはずがない。いくらプールとはいえ、水の中は危険だ。そこに危険地帯が分かる眼鏡もせずに向かうなどアホらしい。
僕は体調不良を訴えて授業を休もうとしたが、すぐに元気であることが先生にばれて眼鏡は更衣室に置き去りになった。
コンタクトであれば誤魔化せたのに。そんなことを考えながら、僕はプールへと向かった。
久しぶりの危険な場所が分からない状況には気が滅入った。それはまともに泳ぐことが出来ないほどで、挙動不審な僕に気づいた先生は「本当に体調不良だったのか」と心配して僕をプールから出してくれた。
それから、すぐに眼鏡を掛けようと走った。そうして、更衣室へ辿り着く。
あぁ、やっと眼鏡が掛けられる。
危険が分からない状況は僕にとってとてつもなくストレスだったようで、それを晴らすかのように、ふと思考が巡った。
そういえば、いじめっ子集団にトラックが衝突した時、僕はそこが危険だと分かっていた。それは事前にその場所が黒色で染まっていたからだ。この眼鏡は、危険な場所を黒く染めてくれるもので、それは僕だけにとっての危険ではない際にも適応された。そう。僕だけの危険ではない黒色もある。
悪い思考は止まらない。
じゃあ、"黒い場所に誰かを誘き出せば、その人は危険な目に遭う"ということだろうか。
つい、笑みが溢れた。
あぁ、そうだ。復讐をしよう。僕をいじめたアイツらに。それを見過ごしたアイツらに。
僕はロッカーを開く。その時、違和感があった。鍵が掛かっていなかったのだ。
どうやら、僕は鍵をかけ忘れていたらしい。
それはもう焦った。
もしかしたら、誰かに僕の眼鏡の特殊な力がバレて盗られたかもしれない。
そんな焦りとは裏腹に、ロッカーに大事な眼鏡はあった。
「よかった」
僕は安心感から着替えることもせずに真っ先にその眼鏡に手を伸ばす。
これから起こす復讐劇に想いを馳せて、僕は眼鏡を掛けた。
そうして、絶望した。
世界は危険で埋め尽くされてた。
え、なんで?意味がわからない。
僕は首を振り回した。何処もかしこも、黒、黒、黒。
ここは危険だ。僕は更衣室から飛び出して、学校の中を走り回った。廊下も黒。教室も黒。図書室も黒。音楽室も理科室も窓から見える外の景色さえも真っ黒だ。
黒、黒、黒、黒、黒、黒、黒。
インクを溢したかのように真っ黒な世界だ。安全地帯は何処にもない。
それでも諦めず、僕は必死に走り回る。そうして、水着姿のまま僕は学校から飛び出す。
きっと、何処かに黒くない場所があるはずだ。僕は、僕だけでも逃げるんだ。
そうして、道路に飛び出した。
甲高い音が一瞬聞こえた。
瞬間。
全身に激痛が走った。
あ、ああ! 痛い! 痛い痛い! 痛い痛い痛い!
地面に叩き付けられて、眼鏡が割れた。
そして、僕の眼は外の世界を映し出す。煙を上げるトラック、何かを叫ぶ男の姿、僕から噴き出す赤い血液。
これが何を意味するのか痛みで僕には何も分からなかった。
そうして、視界は徐々にボヤけていき、最期には
僕の世界は一色に染まった。
◇◇◇
喧しいほど、サイレンの音が鳴り響く。
血痕が10mほどの道を作っていた。その終着点で、もう動かない少年を見下す1人の影があった。
彼はその無惨な事故現場で何かを見つけてしゃがみ込む。
「おや、アナタも喰われてしまいましたか」
古物商は粉々に砕け散った眼鏡を拾い、こう口にした。
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