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博士の平常な近状

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  見慣れた会議室の風景を、見慣れた数式や化学式が埋め尽くしている。
 心配ごとがある日は発作が起こりがちだったが、今日は特に酷い。

「以上が顧客から出ている要望だけれども……大丈夫か?葉河瀨」

 思わず目を閉じていると、訝しげな声が聞こえた。目を開くと、数式に紛れて、眉を顰める日神の顔が目に入った。日神の手には、顧客の要望をまとめた資料が握られている。そうだ、以前納品したソフトウェアのバージョンアップについて、打ち合わせをしているんだった。
 本当は、月見野さんに着いていきたかったが、きっと一条さんはそれを望まないだろう。
 それに、仮にも部門の長を務めているわけだから、仕事を放っておくわけにもいかない。
 目をこらしながら資料に目を通すと、機能別、優先度別に分けられた要望が記載されていた。日神が作る資料は、発作の最中でも見やすくて助かる。

「まあ、優先度が高い要望は対応可能だろうな。ただ、それ以外の細かい要望に対応するなら、一度俺も話を聞きに行った方が良さそうだな」

 質問に答えると、日神は気まずそうな表情を浮かべた。ひょっとしたら、また知らないうちに、顧客から出入り禁止を食らっていたのだろうか?

「いや、それならありがたいけれども、そういうことを聞いてるんじゃない」

「じゃあ、何を気にしていたんだ?」

 わけが分からずに問い返すと、日神は呆れたような表情を浮かべた。そして、聞こえよがしに深いため息を吐いた。

「体調は、大丈夫なのか?」

 そう尋ねる日神の表情は、実に不安げだ。やはり、日神に発作について話すのは、得策ではなかったか。
 朝一の打ち合わせで日神から、一条さんが呪いを使っていることに何故気づいたかを聞かれた。少し悩んだが、この状況で隠し事をして、一条さんに不都合なことが起こるのは避けたかった。
 だから、右目が義眼だということを伝えた。それと、普段見ている風景や、発作のことも。 

「たしかに発作は起こっているが、昼休みにでも仮眠を取れば大丈夫だろ」

「まあ、本人が大丈夫と言うのなら、良いけれども」

 投げやりに答えると、日神はどこか不服そうにそう言った。
 コイツは自分に余裕がないときでも人の心配をし出すから、厄介なことはあまり教えたくなかった。その性格のおかげで厄介ごとを一人で抱え込み、夏頃までは見ていられないくらい痛々しい姿に見えいた。まあ、今は心を許せる嫁さんにも出会えたみたいだし、あのときほど酷くはならないか。ただ、心配させたままにしておくのも、悪いか。

「そんなに心配なら、疲労した脳を癒やすための甘い物を、沢山持ってきてくれれば良いと思います」

「よし。それくらい軽口をたたけるなら問題無いな」

 日神はそう言いながら、爽やかな笑顔を浮かべた。安心してくれたなら何よりだが、少しだけ残念だ。あわよくば、大量の甘い物を手に入れられると思っていたのに……

「……仮にも部門長なら、甘い物を自分で買うくらいの、経済的余裕はあるだろ」

「えー、正義さん、酷いですー」

 苛立った表情をしていたので、嫁さんの口調を真似てみた。すると、日神は眉間にしわを寄せて、こちらを睨みつけた。

「だから、クオリティの低いたまよの真似をするな!」

 場を和ませようとしたのだが、またしても逆効果だったようだ。謝罪をすると、日神は呆れた表情を浮かべて、深いため息を吐いた。

「……ともかく、その要望に対応する場合の概算見積もりを出しておいてくれ。今日中に、たのめるか?」

「大丈夫ですよー、正義さん」

 懲りずに真似をしてみると、今度は無言で鋭い視線を向けられてしまった。これ以上からかうのは、やめておくことにしよう。
 
 日神に睨まれつつも、業務についての打ち合わせはつつがなく終わった。
 会議室を出ると、軽く目がくらんだ。廊下の暗がりが、全て数式や化学式で埋め尽くされている。

「……本当に、大丈夫なのか?」

 不意に、日神が足を止めて、不安げな表情をこちらに向けた。

「大丈夫、大丈夫。視界がいつもより理屈っぽいだけだから、気にするな」

「そんな言い回しをしたら、余計気になるだろ……」

 俺の答えに、日神は呆れた表情を浮かべて、深いため息を吐いた。

「辛いようなら、概算見積もりは明日以降でもかまわないけれども?顧客には、俺から説明するから」

 辛い、か。
 初めの頃はそんな風に思っていたのかもしれないが、もうそんな感覚も忘れてしまった。右目の視界を失ってしばらく立った頃……母親がいなくなってから、強弱はあるにせよほぼ毎日起きているからな。

「まあ、そこまでは必要ないよ。それに、社内にいれば、見えるのは数式とか化学式くらいだから」

 あの日から、仕組みが分かっている物については、その仕組みを説明する式が浮かんで見えるようになった。
 医者が言うには、失った視界を補おうとして脳が幻覚を見せている、と言うことらしい。
 幻覚と言う割には、かなり正確な式が見える。それに、とき一度読んだ本の内容や、クラシック音楽の楽譜なんかも見えたりする。だから、各種テストやコンクール等では、この発作が役に立つこともあった。
 ただ、仕組みが理解できないモノについては、場合によってはかなり気色悪い見え方もする。

「なら、良いのだけれども……その状態で、今の彼女に会っても平気なのか?」

 不意に、日神の不安げな声が耳に入った。
 なんてことを言うんだお前は、と言う言葉が口を突いて出そうになった。だが、その言葉は堪えておこう。間違い無く、こちらのことを心配しているのだから。

「もう、日神ってば心配屋さんなんだから。私達なら、大丈夫なのだわよ」

 茶化してみると、日神は脱力した表情を浮かべてため息を吐いた。

「どんなテンションをしてるんだよ、お前は」

「あら、私は平常運転なのだわよ?」

 更に茶化してみると、日神は、もういい、と呟いて、足早に営業部の執務室へ戻っていった。ふむ、突き放されてしまったようで少し淋しくはあるが、不安にさせたままよりはマシだろう。
 それにしても、今の状態で一条さんに会っても平気かどうか、か。
 一条さんの姿がどんなに恐ろしいモノに見えたとしても、逃げ出さない自信はある。
 ただ、そんな恐ろしいモノになってしまったら……

 辛い思いをするのは、一条さんなのではないのだろうか?

 ……せめて、昨夜大人しくしてくれていれば、そんな事態になるのは避けられているだろう。だが、今朝の月見野さんの話や、電話越しの彼女の様子だと……

「あ、ハカセー!丁度良いところにいた!」

 嫌なことを考えていると、不意に明るい声が耳に入った。振り向くと、カワウソ……もとい、川瀬社長が立っていた。

「お疲れ様です。何か、ご用でしょうか?」

 丁度良い、と言う言葉に若干の不安はあったが、なるべく平静を装って尋ねてみた。すると、川瀬社長は満面の笑みを浮かべ……

「あのね、スリーサイズ教えて!」

 ……どういうわけか、セクシャルなハラスメントを繰り出した。

「えーと、それを知って、何をするおつもりなのでしょうか?」

 脱力しながら尋ねると、川瀬社長は何故か得意げな表情で胸を張った。

「ふっふっふ!黙秘ー!」

 黙秘をするのに、何故そんなに得意げなのか気にはなった。だが、社長相手に細かいことを気にしたら、負けな気もする。ただ、代表取締役社長的な人物からのセクハラ行為に素直に屈するのは、仮にも中間管理職としていかがなものだろうか?

「祭!いきなりセクハラ発言をしないの!ハカセが困ってるでしょ!?」

「まーまー、部長。いきなりなのはダメだけど、必要な情報なんだから、仕方ないなりよ★」

 対応に悩んでいると、川瀬社長の後ろから聞き慣れた声が聞こえた。視線を向けると、白い毛並みのキツネと赤茶色の毛並みのタヌキ……もとい、管理部の信田部長と山口課長の姿があった。

「お疲れ様です。ところで、俺のスリーサイズが必要になるなんて、どんな状況なんですか?」

 脱力しながら尋ねると、信田部長はため息を吐き、山口課長は不敵な笑みを浮かべた。

「そうね、まずは事情を説め……」
「あのね。一条ちゃんが、山本を斃したの」

 信田部長の声を川瀬社長の声がかき消した。

 一条さんが、あの爺さんを……斃した?
 と言うことは、昨夜も……
 なら、一条さんは……

「心配しなくても、一条ちゃんはまだヒトだよ。かろうじて、だけどね」

 川瀬社長の言葉が、やけにハッキリと聞こえた。

「ハカセ、こんなところで仕事してていいなりか?まだヒトのうちに、姫っちに会いに行った方がいいなりよ?今日が、最後のチャンスなんだから」

 続いて、茶化しているのか本気で心配しているのか、判断が付かない山口課長の声が聞こえた。

「……まるで、明日には確実にヒトでなくなるような口ぶりですね?」

「だって、そうでしょ?残念だけど、今夜のお詣りが終われば、一条ちゃんはヒトじゃいられなくなるんだから」

 山口課長への問いかけに、川瀬社長が答えた。やけに冷静に、さも当然と言いたげな声で。
 殴り飛ばしたい衝動に駆られたが、信田部長が悲しげな目をこちらに向けていることに気づいた。俺が視線を合わせると、信田部長は目を伏せて、首を横に振った。たしかに、ここで感情にまかせても、仕方がないか。

「……そうならないために、月見野さんが説得に行っているはずです」

 絞り出すように声を出すと、山口課長が深くため息を吐いた。

「まあ、月見野の声が届いてくれれば、それでいいんだがな」

 山口課長は低い方の声で、まるで吐き捨てるようにそう言って、俺に視線を向けた。
 まるで、お前が行け、とでも、言いたげな仕草だ。
 俺だって、今すぐにでも一条さんの側に行きたい。
 彼女を凶行に及ばせる要素がまだ残っているなら、それを取り除き、もう大丈夫だから、と声をかけたい。
 だが……

「……月見野さん以外に、一条さんを止められる人はいないじゃないですか」

 ……昨日かけた、俺の言葉は届かなかったんだ。
 なら、もう月見野さんに頼る以外の選択肢は、あり得ないだろ。

「ハカセ、山本社長に口を割らせたんだけど……」

 自暴自棄になっていると、諭すような信田部長の声が耳に入り……

「部長、それ以上は、言わなくて良いよ」

 川瀬社長の声が、それをかき消した。 

「……山本社長が、何を言ったというんですか?」

 問いかけると、川瀬社長は微笑みを浮かべて首を傾げた。

「今はまだ秘密!とにかく、スリーサイズを教えてくれる気になったら、いつでも連絡してね!明日の日付が変わるまでに分かれば、なんとかなるから!じゃあ、私はこれで!」

 社長はセクハラ的な発言を残し、軽快な足取りで社長室へ向かっていった。信田部長と山口課長も、何か言いたげな表情を浮かべながらも、管理部の執務室へ向かっていった。
 状況が芳しくない、と言うことは飲み込めた。
 だが、今は月見野さんによる説得が、上手くいっていることを祈るくらいしかできないか……
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