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現場

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 一条さんの自宅の最寄り駅に着いて、駅前の喫茶店にたどり着いた。道中に何度か連絡を入れてみたけど、まだ返信は来ていない。
 そんなわけで、社用のノートパソコンで仕事をしながら返事を待っているけど、やっぱりなかなか集中できない。さっきから、同じ単語を誤変換しては修正するを繰り返している。
 風邪で寝込んでるくらいなら不幸中の幸いなんだけど、多分それは楽観的すぎる考えだよね……
 
 昨日の夕方に、山本社長は一条さんと話があると言っていた。
 今の状況を考えると、間違いなく丑の刻参りを依頼しようとしていたのだろう。

 川瀬社長たちが割って入ってくれたからあの場は収まったけど、山本社長は納得しているようには見えなかった。そうはいっても、一条さんも、こちらの人間はもう呪わない、と言っていたみたいだし、山本社長の依頼を受けているとは思えない。それでも、もしも脅迫を受けて、呪いを使わざるを得ない状況に追い込まれていたら……
 不安になっていると、不意にテーブルがガタガタと揺れるのを感じた。慌てて目を向けると、業務用のスマートフォンがガタガタと震えていた。
 こちらの番号に連絡が来るってことは、一条さんからの連絡じゃないみたいだね。でも、なんだか凄く不穏な空気が漂っている気がする……

 恐る恐る画面を確認すると、川瀬社長の電話番号が表示されていた。

 ……うん、きっと連絡が来るってことは、山本社長との打ち合わせで命に別状があるような事態にはなっていないはずだ。でも、なんだかスマートフォン全体から、不穏な空気を感じる。
 川瀬社長から直接連絡が来るときは、無茶ぶりに近い新案件の話が伴っていることがほとんどだけど……流石に、今の状況で新案件の話は出ないよね。
 うん、きっと、参考までに打ち合わせの結果を共有してくれるって話だろう。
 なんだか、京子から電話をもらったときとは方向性の違う胸騒ぎがするけど……ともかく、電話に出ることにしよう。

「お疲れ様です。月見野で……」

「あ、つきみん!ちょっと、超緊急の新しい仕事が入ったんだけど、今ちょっとお話できる!?」

 ……スピーカーからは、胸騒ぎが的中したことを告げる声が聞こえて来た。
 うん、営業部部長としては、新しい案件が来ることはありがたいんだけどね。
 でも、時間から見て相手は真木花で間違いなさそうだし……
 全面戦争みたいな事態になっているお客様と新たな仕事となると、契約を結ぶのも一大事だろうし……
 そもそも、真木花とは契約を終了させるという方向で今まで動いていたのに、やっぱり新たな契約を結ぶために動くことになった、なんてことになったら、日神君を筆頭とした部下たちも納得しないだろうし……

「あれ?もしもーし!つきみん、聞こえてるー!?」

 逡巡していると、川瀬社長の大きな声がスピーカーから聞こえて来た。

「あ、はい、聞こえています……しかし、社長、真木花との取り引きは終了させる、との方針で今まで動いてきたはずですが?」

「うん!そうだよ!でも、そうも言ってられないから、超緊急なの!もう、今までにないくらい緊急なんだからね!」

 今までの経緯を理解した上で言っているとなると、社長が意見を変えることは考えづらい。ということは、相当厄介な案件ということだけは間違いないよね……

「かしこまりました、今は出先なので詳しくは社に戻ってから聞かせていただきます。ただ、急に方針を変えて契約を取ってこいという話になったので、部下たちはあまり積極的に動いてくれないかもしれませんよ?」

 無駄だとは思っているけど、念のため苦言を呈してみた。すると、スピーカーから、大丈夫、という、元気いっぱいの声が聞こえてきた。何が大丈夫なんだろう……

「契約はね、もう締結したの!山本が喀血して呼吸困難を起こしたから、その血であらかじめ用意してた契約書に押印してもらったよ!」

「ああ、そうだったんです……え!?か、喀血!?」

 川瀬社長があまりにも当然のように言い放ったから、聞き流してしまいそうになってしまった。
 えーと、山本社長もかなり後ろ暗いことをしてきた方なんだろうけど……喀血している相手に契約を迫るというのは、酷すぎるようなきがするかな。

「課長と部長で応急処置してすぐに救急車呼んだから、命に別状はないよ!」

「そ、そうですか……」

 誇らしげな川瀬社長の言葉に、曖昧な返事をすることしかできなかった。命に別状はなくても、倫理観には、ちょっと別状があるんじゃないかな?
 そういった倫理観のズレが、経営の秘訣と言えなくもないのかもしれないけど……

「あ、あとね、あとね!ついでに山本には、もうこっちに手を出しません、っていう内容の、めちゃくちゃ効力のある契約書に血判押してもらったから!だから、つきみんたちが襲撃されることはないよ!」

 若干失礼なことを考えていると、スピーカーからは再び川瀬社長の誇らしげな声が聞こえてきた。
 いまいち状況がつかめないけど、山本社長との因縁は、ひとまず一段落したみたいだね。それは、不幸中の幸いではあるんだけど……喀血して呼吸困難になったという山本社長のことを考えると、これにて一件落着というわけではなさそうだ。

「それで、今回の仕事だけど、営業部からはつきみんと、ひがみんと、早川ちゃんと、吉田ちゃんに協力して欲しいの!とくに、吉田ちゃんにはすぐ話をしときたいんだけど、今日のスケジュールってどうなってる?」

「あ、はい。午前中は取引先に直行ですが、午後一には帰社する予定です。ただ、そうなると日神君にも一度話をしないといけないですが……」

 吉田は真木花関連で軽い怪我をしているし、昨日も無事だったとはいえ襲撃を受けた。こんな状況で更に真木花に関わることを、日神君が許可するだろうか……いや、確実に許可しないよね。

「あ、ひがみんのことなら大丈夫!今、課長が電話して、事情の説明してくれてるから!」

 反語的なことを考えていると、スピーカーから自信に満ちあふれた川瀬社長の声が聞こえた。たしかに、山口課長の言葉なら、日神君も聞いてくれるかもしれない。いろいろ事情があって、奥さんが山口課長の養子になったって前に聞いてたから。ただ、話を聞いてくれたとしても、吉田が関わることについては首を縦には振らないんじゃないかな……

「安心して、つきみん!吉田ちゃんにお願いしようと思ってるのは、嘉木君とのネゴシエーションだから!」

「え……カギって……全国でんでん虫を愛でる会の嘉木代表のことですか!?」

 意外な人物の名前に、思わず会社名ではなく謎の秘密結社名の方を口にしてしまった。いや、嘉木会長としてはその方が本望なのかもしれないど、川瀬社長に伝わるだろうか?

「うん!そう、そう、でんでん虫の嘉木君!たしか、保有してた倉庫でいくつか使ってないのがある、っていつだったか聞いた気がするから、貸してもらおうと思って」

「倉庫、ですか……」

 たしかに、嘉木会長の会社のグループ企業に、物流に特化した企業はあった。でも、なんでまた急に倉庫を借りるなんて話になるんだろう?
 悩んでいると、スピーカーから川瀬社長の不敵な笑い声が響いた。

「ふっふっふ、つきみん。昔っから、決戦というものは、夜の港の倉庫と相場が決まっているのだよ」

 うん、たしかに川瀬社長の言うとおり、映画とかでそういった場面は観たことあるけど……

「あの、川瀬社長?決戦というのは、一体……」

 仰々しい単語について尋ねてみると、スピーカーから、あ、という気まずそうな声が聞こえた。

「ごめん、ごめん!さっき、契約を取った仕事の内容、まだ教えてなかったね」

 えーと、なんで決戦と言う言葉から、山本社長直々に締結していただいた契約が連想されるの……かな?

「あの、まさか、決戦というのが仕事内容だったり……」

「うん!そうだよ!今度の仕事内容は、我が社総力を挙げての大仕事……」

 川瀬社長の声はそこで一旦止めり、深く息を吸い込む音が耳に入った。



「鬼退治なんだからね!」



 スピーカーからは、意気揚々とした声が聞こえた。
 いつもなら、またまたご冗談を、などと言って、川瀬社長の言葉をそのまま信じたりはしなかっただろう。
 でも、今は状況が違う。

「その、鬼というのは……誰のことをおっしゃっているのですか?」

「決まってるでしょ、一条ちゃんだよ」

 スピーカーからは、どこか大人びた川瀬社長の声が聞こえた。この声が出ると言うことは、社長は間違いなく本気なのだろう。それでも……

「……川瀬社長、これから、これ以上は丑の刻参りをしないよう、一条さんに直接伝えようとしているのですが」

「うん。知ってるよ。その件について、無駄な抵抗だなんて言わないし、ましてや止めようなんて考えてない。でも、対処できるリスクは、事前に対処しておきたいから」

 スピーカーから聞こえる川瀬社長の声は、大人びたもののままだった。

 山本社長が喀血して倒れたのなら、一条さんが昨日丑の刻参りをしてしまったのは間違いないのだろう。
 それでも、あと一夜だけだとしても、時間は残されている。あの子を止められる可能性は、皆無ではない。

「ああ、それと。真木花からも、烏ノ森マネージャーともう一人、手伝いを出してくれることになったから。人手が足りなくなるってことはないよ」

 無駄な抵抗だとは言わない、とは口にしていたけど、川瀬社長の中では、一条さんの説得は無理という結論が出ている様子だ。

「そう、ですか……でも、総力を挙げるということは、製品開発部にも声をかけるということですよね?葉河瀨君が素直に納得するとは、到底思えないのですが」

 葉河瀨部長の名前を出すと、スピーカーからは、あー、という、苦笑が混じったような声が聞こえた。

「まあ、今日の段階でハカセに話を振っても、邪険にされるだけだろうね。でも……」

 川瀬社長はそこで言葉を止めると、軽く息を吸い込んだ。

「説得が成功したとしても、失敗したとしても、明日にはこっちの話に耳を傾けてくれるはずだから」

「……そうですか」

 大人びた川瀬社長の声に、短く返事をするのが精一杯だった。
 一条さんの説得を成功させて、川瀬社長が葉河瀨部長に、ごめん取り越し苦労だった、と平謝りをする。
 そんな結末を、まだ、諦めなくても良いはずだ。
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