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楽しみにしてくださるのならば

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 葉河瀨さんに、自宅の最寄り駅まで送っていただくこととなりました。一度乗り換えをして、最寄り駅までの電車に乗り込み、座席に二人並んで腰掛けているのですが……

「……」
「……」

 本日も、気まずい沈黙が訪れてしまいました。
 葉河瀨さんに聞きたいことも色々とあったのですが、今はそんな話題をしている場合ではないですよね……
 
 日神さんとの打ち合わせは途中で意識が朦朧とした挙げ句に、抜け出してしまう。
 月見野様とお話をするという約束も、果たせずじまい。

 昨日の発言の真意を聞くも何も、こんな情けない人間が葉河瀨さんの意中の人なわけないですよね。それなのに、お昼に電話をいただいたときは赤面してしまって……思い返せば、自意識過剰もいいところです……

「……気分が優れませんか?」

 思わずため息を吐いていると、葉河瀨さんが心配そうに首を傾げました。

「あ、いえ、大丈夫です!」

 慌てて首を横に振ると、葉河瀨さんは安心したように薄く微笑みました。

「それなら、よかったです」

「ただ、皆様にご迷惑をおかけしてしまったうえに、謝罪もせずに話し合いの場から抜け出してしまって……」

 明日、月見野様からお叱りを受けて、改めて皆様に謝罪をすることができればいいのですが、許していただけるはずもないですよね……自業自得ではありますが。
 いっそのこと、このままどこか遠くに行ってしまいたい……

「気が滅入っているようなら、このままどこかに逃げてしまいましょうか?」

「……え?」
 
 不意に、私が考えていたことを葉河瀨さんが口にしました。
 驚いて顔を見つめると、葉河瀨さんは穏やかな表情で軽く首を傾げていました。

「逃走資金といざと言うときの潜伏先のあてなら、国内外にいくつかあります。何か手助けが必要ならばご一緒しますし、一人の方がいいということであれば、援助だけしますので」

 いざと言うときの潜伏先候補がいくつかあるなんて、葉河瀨さんは何か危険な研究をなさっているのでしょうか?
 いえ、今気にするのは、そこではないですよね……

「いえ、お言葉はありがたいのですが……さすがに、このままお詫びもせずに逃げ出してしまうわけにはいかないので、大丈夫ですよ」

 苦笑をしながら答えると、葉河瀨さんはどこか残念そうな表情で、そうですか、と口にしました。逃亡先の心配までさせてしまうなんて、本当に葉河瀨さんには心労をおかけしてしまってばかりですね。
 でも……

「どうしましたか?一条さん」

 思わず黙り込んでしまうと、葉河瀨さんは困惑した表情で首を傾げました。
 今なら、聞くことができるかもしれません。

「あ、はい……あの……なぜ、そこまでして、私なんかのことを気にかけてくださるのですか?」

 ずっと気になっていたことをようやく聞くことができました。
 私の質問に、葉河瀨さんは目を軽く見開きました。そして、ぎこちなく視線を移動させてから、それは、と呟き、目を伏せてしまいました。
 これはきっと、口にしづらい理由なのですね。
 注意して見ておかないと、甚大な被害が出そうだから、だとか。
 いえ、まったくもって、その通りではあるのですが……
 きっと葉河瀨さんは、聞くまでもない質問をされて、困惑しているのでしょう。


「一条さんが、俺の意中の人だからですよ」


 ……え?
 それは……何かの冗談ですよね?
 でも、葉河瀨さんの表情は真剣ですし……
 突然の発言に困惑していると、葉河瀨さんは淋しげに微笑みました。

「すみません。突然、不可解なことを口にしてしまって」

「あ、いえ、その、えーと……でも、なぜ私なのですか?」

 しどろもどろになりながらも、何とか質問することができました。

「一条さんが、俺を救ってくれたからです」

 葉河瀨さんは優しい声で、私の質問に答えてくれました。
 私が……葉河瀨さんを救った?
 でも、私と葉河瀨さんの接点と言えば、弊社の受付で対応するくらいだったはず。
 しかも、私は月見野様のことばかり気にしてましたから……葉河瀨さんの思い違いなのでしょうか?
 疑問に思っていると、葉河瀨さんは、ああ、と呟いてから、苦笑いを浮かべました。

「やっぱり、覚えていないですよね」

「す、すみません!」

 慌てて頭を下げると、葉河瀨さんは微笑んだまま軽く目を伏せて、首をゆっくりと横に振りました。

「気にしないでください。忘れている可能性の方が高いと思ってましたから」

 気にするなと言われても、気になってしまいますよね……
 葉河瀨さんと私の、受付以外での接点……
 そうだ、朝にもそのことについて思い出そうとして、何か引っかかることがありましたね。
 あと少しで、何か思い出せそうな……

「だから、俺の気持ちに、すぐに答えてくれとは言いません。それに、貴女が今、誰に想いを寄せているのかも分かっていますから」

 必死に思い出していると、予想外の言葉が耳に入りました。
 私が想いを寄せている方が、分かっている?
 
「あの……なぜ、分かったんですか……?」

「見ていれば、誰のことを目で追っているかくらい、すぐに分かりますよ。今回の件も、そのことが動機になっている、ということも」

 葉河瀨さんは、全て分かっていたのですね……
 なら、会社に戻られたら、皆様に私が呪いを行った理由をお話になるのでしょうか……

「心配しないでください。この件の動機について俺から、月見野さんを含めた社内の人間に、話をするつもりはありませんから」

「え……それで、いいのですか?」

 意外な言葉に驚いていると、葉河瀨さんは穏やかに微笑みながら頷きました。

「だって、幸い大した被害は出ていないし、一条さんはもうこちらの人間に何かするつもりはない。なら、この件はもう解決しているじゃないですか」

 葉河瀨さんは穏やかな声で、そう言いきりました。
 たしかに、そうなのかもしれませんが……皆様にしてしまったことを考えると、何かけじめをつけないと……今の状況だと、弊社が皆様に危害を加えるのを止めるとかでしょうか?
 なら、やはり山本社長を……
 

 技術者をまとめ上げているといっても、所詮は老いぼれなのですから。
 致命傷を負わせるくらい、たやすいでしょうし。


「……なので、間違っても今回の件に責任を感じて、山本社長を一人でどうこうしようなんて思わないでくださいね」

 一瞬、意識が遠くなりましたが、葉河瀨さんの声で現実に引き戻されました。改めて顔を見ると、穏やかな笑みは消えていました。

「……今回の件で、一条さんの体にもかなり負担がかかっているように見えます。だから、これ以上は何もしないでください」

 そう言う葉河瀨さんの表情は、凄く真剣なものでした。
 たしかに、昨日は倒れてしまいましたし、今日も体が重く感じていました。でも……

「皆様にご迷惑をおかけしてしまったので、何もしないというわけには……」

「垂野がこちらに危害を加えるのを止めてくれただけでも、充分です。トップ同士のイザコザについては、本人達が明日直接話をつける、と言っているのですから、任せておけばいいんですよ」

 葉河瀨さんはそこで言葉を止めると、小さく息を吸い込みました。

「それに、一条さんに何かあったら、悲しいですから」

 悲しい、ですか……
 葉河瀨さんの表情を見ると、社交辞令で言っているわけではなさそうです。
 私なんかに好意を寄せてくれる方を悲しませてはいけませんよね……

「……分かりました。山本の件は、川瀬社長にお任せすることにします」

「そうしてください」

 葉河瀨さんはそう言うと、安心したように微笑みました。
 眼鏡の奥に見える、細められたまつ毛の長い目。
 鼻筋の通った高めの鼻。
 口角が上げられた薄い唇。
 寝癖と眼鏡に気をとられてしまいがちですが、葉河瀨さんって凄く綺麗な方なんですね……
 こんな方から、告白を受けてしまったなんて……
 
  一条さんが、俺の意中の人だからですよ。

 改めて先ほどの言葉を思い出すと、顔が赤くなって行くのを感じます。

「一条さん、どうしましたか?」

「い、いえ!何でもありません!」

 慌てて首を横に振ると、葉河瀨さんはどこか釈然としない表情で、そうですか、と呟きました。
 月見野様への想いに決着をつけてもいないのに、告白を受けてドキドキしたなんて答えたら、葉河瀨さんも軽蔑しますよね、きっと。ならば……

「あの、葉河瀨さん……」

「はい、何でしょうか?」

「明日、月見野様とお話しするときに、今までの想いを正直に伝えようと思うんです。それで、その、凄く卑怯なことを申し上げているのは重々承知なのですが……先ほどの告白の答えは、それまで待っていただけますか?」

 我ながら、厚かましいにも程があるお願いですよね……
 でも、葉河瀨さんは嫌な顔をせずに、薄く微笑みました。

「ええ、全くかまいませんよ。もしも、それで月見野さんとの仲が上手くいくのであれば祝福しますし、仮に上手くいかなくても、気晴らしにはいつでも付き合いますから」

「申し訳ありません……」

「謝らないでください。たとえ、何があったとしても、貴女を責めるようなまねは、絶対にしませんから」
 
「……ありがとうございます」

 お礼を言うと同時に、目的地を告げるアナウンスが車内に流れました。
 電車を降り、駅の外に出ると、辺りは夕暮れになっていました。

「では、俺はこの辺りで」

「あ、はい。今日は、本当にありがとうございました」

 頭を下げると、頭上から、いえいえ、という優しい声が聞こえました。

「気にしないでください。あ、そうそう、明後日シュークリームを食べに行くという約束ですが、真木花の近くに良さそうな店を見つけてので、あとで詳細を送っておきます」

「え?シュークリームですか?」

 意外な言葉を受けて、頭を上げると同時に、思わず聞き返してしまいました。すると、葉河瀨さんは戸惑った表情を浮かべて、頬を掻きました。

「えーと……都合が悪くなってしまいましたか?」

「あ、いえ、そうではなく……こんなゴタゴタした状況で、のんびりとシュークリームを食べに行ってもいいのでしょうか?」

 山本社長のことですから、川瀬社長とお話をして万事解決、ということは難しいと思うんですよね。私へのお詣りの依頼も、諦めていないようでしたし……そんな中で、弊社の近くでお茶をしていたら、葉河瀨さんに何か危険なことが起こってしまうのではないのでしょうか?
 心配していると、葉河瀨さんは穏やかに微笑みました。

「ゴタゴタした状況のときこそ、糖分は必要ですから。もしも、気分が乗らないということであれば、当日でもキャンセルしていただいてかまいませんよ」

 葉河瀨さんの表情、凄く楽しみ、という気持ちが隠しきれていないですね……

「分かりました。何か都合が悪くなるようなことがあったら、連絡しますので」

 私が答えると、葉河瀨さんは表情を更に明るくしました。

「ありがとうございます。では、俺はこれで」

「はい、お疲れ様でした」

「お疲れ様でした」

 葉河瀨さんは、微笑んでそう言うと、軽やかな足取りで改札口に向かって行きました。
 月見野様とのお話で、今まで想いに決着がつけられて、無事に明後日の約束を守れればいいのですが……
 今は、川瀬社長と山本社長のお話が、上手く纏まってくれることを祈ることにしましょう。
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