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鉄火場

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「まったくアイツは、人に変なあだ名をつけて……」
 人が疎らな始業時間前の執務室で、日神君は受話器を持って憤慨していた。電話を切る前に何を言われたかは分からないけど、最近は打ち解けていているみたいだから良かったかな……なんて考えている場合じゃないか。
「日神君、さっき脱臼って聞こえたけど、早川君は大丈夫なの?」
 声をかけると、日神君は受話器を置いてからこちらに不安げな表情を向けた。
「ひとまず、悪態を吐く気力はあるようでしたが、心配ではありますね。本来ならば、今日は1日安静にしてろと言いたいところではあるのですけれども……」
 そう言うと日神君は悲しげに目を伏せた。
 確かに以前、日神君が戦力外通告を言い渡した結果、早川君の部署が異動したことがあった。だから、無理して来なくてもいい、と言い辛いんだろう。
「……あの時のことは本意ではなかったって、早川君ももう分かってるんだから、気に病みすぎない方が良いんじゃないかな?」
 実際に早川君が異動していた時期は、第三課は人員が足りなくてかなり厳しかったしね。
 当時の状況を思い出していると、日神君は視線を上げて気まずそうな表情を浮かべた。
「そうですね……ただ、今更な話で申し訳ないのですが、あの時なぜすぐに早川を引き止めなかったんですか?」
 ……当初持ちかけられていた話では、日神君が早川君に戦力外通告をした後、僕がすぐにフォローに入って引き止めることになっていた。でも……
「それだと、確かに早川君は僕に感謝するかもしれないけど、君は恨まれたままだったんじゃないかな?」
 そう思ったから、すぐにフォローを入れることができなかった。身近な人間に恨まれるのも、恨むのもあまり幸せなことではないからね。できれば、部下達にはそういう思いをして欲しくなかった。
「それは、そうなのでしょうけれども……」
 日神君がそう呟いていると、執務室のドアが勢いよく開いた。驚いてそちらに目を向けると、息を切らした早川君が立っていた。えーと……大丈夫なの、かな?
「おはようございます!」
 早川君は元気良く挨拶をすると、何事もなく自分の席に着こうとしたけど、日神君がそれを制止した。
「ちょっと、待て。早川、病院はどうした?」
「なんとか自分で嵌め直せたんで、今日は出社しました!病院は明日行ってきます!」
 早川君の答えを聞いて、日神君は眉間をおさえながら深い溜息を吐いた。
「悪化とか、再発とかは大丈夫なのか?」
「大丈夫っす!この位余裕っすよ!この通り!」
「分かったから肩を回すのはやめろ!見てるこっちが怖くなるだろ!?」
 肩をぐるぐると回しながら早川君が笑うと、日神君が目を取り乱した表情を浮かべて叫んだ。うん、確かに見ているこっちが不安になる光景だね。
「早川君、君が大丈夫って言うなら止めないけど、本当に無理はしないでね?悪化して長期療養とかになっちゃったら、元も子もないでしょ?」
 そう伝えると、早川君はしょげた表情を浮かべて、すみません、と小さく呟いて頭を下げた。
「早川君のことは僕も日神君も頼りにしてるんだから、身体は大事にしないとね?」
 急に引き合いに出された日神君は驚いた表情を浮かべてから気まずそうに頬を掻いて、そうですね、と小さく呟いた。その言葉を聞いた早川君も目を見開いてから気まずそうな表情を浮かべて、失礼しました、と頭を下げた。
 衝突することも多いけれど、以前のように本気でいがみ合うこともなくなってきたのは良かったかな。
「確かに、日神課長の小うるさい小言を永い間聞かないと、調子は狂いますからね」
「……仮にも現上司に向かって小うるさいはないんじゃないか?早川犬」
「!?今、また人のこと犬扱いしたっすね!?」
「別に?フルネームで呼んだだけだけれども?」
「イントネーションがちーがーいーまーしーたー!」
 ……まったく、この子達は……
 でも、軽口をたたき合えるようになったのは良かったかな。
 いざこざする二人を眺めながら、感慨にふけっていると再び執務室のドアが開いた。三人して目を向けると、眠たげな表情をした葉河瀨部長が、書類を手に欠伸をしながらやって来る。頭には今日もすごい寝癖が付いているね……
「早川、昨日お客様から来てた製品の問い合わせだけど……」
 葉河瀨部長は早川君の側で立ち止まると、小さく欠伸をしてから書類を差しだそうとしたけど、一瞬だけ眉をひそめて手を止めた。視線は早川君の右肩辺りに向いている。
「葉河瀨部長?どうしましたか?」
 早川君が怪訝そうに首を傾げると、葉河瀨部長は無精ひげの生えた顎を軽く掻いた。
「……いや、なんでもない。取りあえず、FAQのような物を作ったから俺が不在の時とかに使ってくれ」
「ありがとうございます!助かります!」
 深々と頭を下げる早川君に対して、気にするな、と言うと、葉河瀨部長は日神君に顔を向けた。
「日神」
「……何?」
 日神君が怪訝そうな表情をすると、葉河瀨部長は再び小さく欠伸をしてから話を続けた。
「ちょっと、相談事がある。今日の夜空いてるか?」
「まあ、妻に連絡を入れれば大丈夫だけれども……あまり、長くは付き合えないぞ?」
「ああ、構わないよ。じゃあ、後で連絡するから」
 葉河瀨部長はそう言うとまた一つ欠伸をして、執務室から出て行った。そういえば、昨日も相談事があるって言っていたけど、聞きそびれちゃったな……何かトラブルじゃないと良いけど……
「なんか、日神課長と葉河瀨部長が飲みに行くのって、意外ですね」
 昨日のことを思い出して不安になっていると、早川君の感心したような声に我に返った。
「そうか?葉河瀨とは同期だから、年に数回くらいは飲みにいっているぞ?」
 そうだったのか……てっきり、お互い苦手意識を持ってるのかと思っていた……
 日神君が口にした意外な事実に内心驚いていると、早川君が気まずそうな表情で口を開いた。
「あ、いえ……お二人とも、友達がいないタイプのような気がしたので……」
 ……確かに内心ちょっと心配してることではあるけど、本人を前にして口にできる早川君はすごいね……
 なんてことを考えていると、日神君は一瞬だけ苛立った表情を浮かべて、すぐに勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「……まあ、俺も葉河瀨もイヌ科のお前とは違って、常に集団で行動している訳じゃないからな」
「なんて失礼なこと言うんすか!?」
「そうか、すまなかった。イヌ科に対して失礼だったな」
「この……」
 ……本当にこの子達は……
「ほらほら、喧嘩してないで。そろそろ業務を開始するよ?」
 そう言うと二人はハッとした表情を浮かべて、同時に頭を下げた。
「申し訳ございませんでした」
「すみませんでした」
 息の合った謝罪を受けて、こちらも午前中の業務に取りかかった。今日は午後からまた、例のお客様のところに行かないといけないから、午前中にできる限りのことをしておかないとね。

 午前中の業務を終え、昼休みを挟んで、今日の打ち合せの内容を確認している内に、会社を出る時間になった。部下達に軽く頭を下げて、昨日押し入れから引っ張り出してきた薄手のコートを手に執務室を出る。今日は、僕一人の外出だから道中が少し淋しい気もするけど、今朝はバタバタしていたから少し落ち着く気もするかな。
 そんなことを考えながら、地下鉄を乗り継ぎ件のお客様間に到着した。受付に置かれた電話の受話器を取り、要件のある部署の番号を押すと、穏やかなクラッシク音楽が流れる。
「受付でございます」
 クラシック音楽に聴き入る間もなく、受話器から一条さんの声が聞こえてきた。
「株式会社おみせやさんの月見野です。烏ノ森マネージャーとのお打ち合せに参りました」
「かしこまりました。ただいまご案内いたしますので、少々お待ちください」
「かしこまりました」
 受話器を置いて間もなく、入り口からオフィスカジュアルに身を包んだ一条さんが現れる。
「お待たせいたしました。ただいま、ご案内いたします」
 一条さんはそう言って、丁寧なお辞儀をした。顔を上げた一条さんを見てみると、疲れた顔をしている。
 昨日葉河瀨部長も言っていたけど、あまり眠れていないのかな?
「……あの、なにか?」
 心配していると、一条さんは首を傾げて不安そうな表情を浮かべた。まあ、急にスキンヘッドのおじさんに見つめられたら、怖いよね……
「すみません。お顔色が優れないように思えたので……。私が言えることではないと思いますが、あまりご無理をなさってはいけませんよ?」
 余計なお節介を言ってみると、一条さんは顔を赤くして、失礼しました、と頭を下げた。うん、風邪っぽいのかもしれないね。
「……お心遣い、ありがとうござ、います。ただい、ま、ご案内いたしま、すので」
「いえいえ。こちらこそいつもありがとうございます」
 体調が悪いからかしどろもどろになる一条さんにつられて応接室に向かうと、ドアの前で黒い長袖のワンピースを着た烏ノ森マネージャーと鉢合わせた。烏ノ森マネージャーは鋭い目つきを一条さんに向けると、軽く溜息を漏らした。
「一条さん、ご案内するのが遅いわよ。何をモタモタしているの?」
「すみません……」
 高圧的な烏ノ森マネージャーの言葉に、一条さんは肩をすぼめて頭を下げた。丹田の辺りで重ねられた手は、力を込めすぎているのか小さく震えている。
「申し訳ございません、烏ノ森マネージャー。私が受付でつい世間話に付き合わせてしまったので。ごめんね、一条さん」
 僕の言葉に一条さんは顔を上げて大きな目を見開くと、再び頭を下げて小声で、すみません、と呟いた。対する烏ノ森マネージャーは、そうですか、と溜息交じりに呟く。
「ともかく、中へお入りください。一条さんは、もう戻っていて良いわよ」
 一条さんは軽く頭を下げると、小走りに去って行った。
「……僕が言えた義理ではないんだけど、もう少し部下をいたわってあげたら?」
「ご自分が言えた義理ではないと分かっていらっしゃるのなら、何もおっしゃらない方が良いと思いますわよ」
 思わず一条さんへの心配を口にしてしまうと、烏ノ森マネージャーは冷たくそう言い放って、無言で応接室に入るように促した……昔は、こうではなかったんだけどね……
 烏ノ森マネージャーに促されて応接室に入り席に着くと、彼女は先ほどとは打って変わって社交的な笑みを浮かべた。
「本日はお越しいただきありがとうございました。早速で申し訳ないのですが、先日ご依頼した件はご検討いただけますでしょうか?」
「それが、大変申し上げ辛いのですが……社内で検討をしてみたところ、現在の弊社の技術力では難しい、との判断がでまして……お力になれず、誠に申し訳なく思ってはおりますが……」
 そう伝えると、烏ノ森マネージャーは眉をひそめて、そうですか、と呟いてから再び社交的な笑みを浮かべた。
「以前、人事評価システムを導入した際、ちょっとした事故はありましたが、その後ご担当の方が丁寧にご対応くださったので、弊社としては、是非とも御社にと考えているのですよ」
 に、ね……
 思わず顔をしかめてしまい、烏ノ森マネージャーが笑みを浮かべたまま軽く首を傾げる。
「あら?怖いお顔をなさっていらっしゃいますが、どうかなされたのですか?」
「……いえ、随分と白々しい物言いをなさるようになったな、と思っただけですよ」
 そう伝えると、烏ノ森マネージャーは笑みを嘲笑に変えて口を開いた。
「あらあら、私は御社の誰かに何かを強要した覚えはないですよ?前任の担当者では案件を続けるのが難しい、と伝えたら、日神さんでしたっけ?あの綺麗な顔をした方が、色々と自主的に協力してくださっただけですから」
 あくまでも、自分の非は認めないか。
 いつからだったろうか、彼女がこんな風になってしまったのは。

「……分かっているくせに」

 こちらの思いに気づいたのか、彼女はぽつりとそう呟いた。
 ほんの少しだけ、悲しそうな表情をしながら。
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