仔猫殿下と、はつ江ばあさん

鯨井イルカ

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第二章 フカフカな日々

その夜

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 先端が渦を巻いた三日月と無数の星々が浮かぶ濃紺の空。
 
 夜の鳥たちが悲しげに歌う暗い森。

 赤墨色の水が絶えず流れる血の大河。

 ここは魔界。
 魔のモノたちが住まう禁断の地。

 そんな魔界の一角にある、峨峨たる岩山に築かれた白亜の城。
 
 その城の一室では……

「ふふふんふふーふふん、ふふーふふん♪」

 ……丈の長いネグリジェを着た老女が、鼻歌交じりに鏡台の前で髪をとかしていた。
 パーマのかかった白髪のショートヘアがチャーミングな彼女の名は、森山はつ江。
 御年米寿のハツラツばあさんだ。

 はつ江は髪をとかし終えると、兄妹の椅子から立ち上がり、うーん、と背伸びをした。
 すると、扉から、トントン、と小さなノックの音が聞こえてきた。

「はつ江、まだ、起きてるか?」

「ほいほい、ヤギさんや、ちょっと待ってておくれ」

 はつ江はトコトコと歩き出し、扉をゆっくりと開いた。

「遅くにすまないな」

 扉の先には、黒尽くめの服を着た青年が立っていた。
 赤銅色の長髪と瞳、側頭部から伸びる一対の堅牢な角が特徴的な彼は、魔王。
 魔のモノたちを統べる、威厳に満ち……、ているかどうかはよく分からない王だ。

 申し訳なさそうな表情の魔王に向かって、はつ江はニッコリと微笑んだ。

「別に構わねぇだぁよ。なにか、ご用かい?」

「ああ。話したいことがあるのだが、ちょっといいか?」

「大丈夫だぁよ! ささ、中へおはいんなさい」

「ありがとう」

 そうして、二人は部屋の中央にある応接セットに腰掛けた。

「それで、お話っていうのはなんだい?」

「ああ、えーとだな……、魔界での暮らしは、どんな感じだ?」

「おかげさまで、毎日とっても楽しいだぁよ!」

「そうか、えーと、それは良かったんだが、な、実は、なんというか、その、えーと……」

 魔王がどこか淋しげな表情で口ごもると、はつ江は穏やかな微笑みを浮かべた。

「……ひょっとして、もうあっちに帰らないといけない時間がきたのかい?」

 はつ江の質問に、魔王はビクッと肩を震わせた。それから、しばらく目を泳がせると、観念したように小さくため息を吐いた。

「……ああ。さっき連絡があってな、リッチーが明日の夕方に、城に戻ってくることになったんだ」

「ほうほう、そうかい。リッチーさんは、ゆっくりできたのかね?」

「ああ、身も心もリフレッシュいたしましたぞ、と連絡がきたよ」

「それならよかっただぁよ!」

「こっちの都合で呼び出しておいて、帰る時期も勝手に変更してしまってすまない……」

「わはははは! 予定が変わることなんて、よくあることだから気にすることねぇだぁよ!」

 はつ江はそう言うと、カラカラと笑った。ひとしきり笑うと、はつ江は穏やかな表情で、軽く首をかしげた。

「……それで、シマちゃんはこのことを知ってるのかい?」

「いや、もう寝ちゃってたから、明日の朝話す予定だ。それに、こんな夜遅くに話して、家出されちゃったりしたら、大変だから」
 
「あれまぁよ! シマちゃんが家出なんてするのかい!?」

「まあ、もしも、の話だ。でも、昔リッチーが夕飯に、もの凄く失敗したピーマン料理を出したときは……、家出ってほどじゃないけど、外の銛の高い木に登って、降りてこなくなっちゃって大変だったなぁ……」

「ほうほう、そうだったのかい……、それで、今回は大丈夫なのかい?」

 はつ江がいつになく真剣な表情で問いかけると、魔王はコクリとうなずいた。

「ああ。アイツももう大人だし、理由をちゃんと説明すれば、大丈夫なはずだ。それに、はつ江にも、昨日絵美里さんに渡した魔界フリーパスをして、いつでもこっちに遊びに来られるようにするから」

「そうかい……、そんなら、安心だぁよ」

 はつ江は心底ホッとした表情で、小さくため息を吐いた。

「……なあ、はつ江。前にも聞いたが、どこかでシーマに会ったことはあるのか?」

「そうだぁねぇ……、ヤギさんや、シマちゃんはあの、お魚がお空を飛んでくる日に、こっちに来たんだろ?」

「ああ、そうだな」

「それって、いつ頃の話だったんだい?」

「少し前……、といっても俺とかリッチーの少しだと、他の人とは感覚が違うか。えーと、そっちの世界の時間に直すと、七十年くらい前だったな」

「そうかい……」

「ああ。ただ、他のケット・シー族よりも体も心も成長がかなりゆっくりでな……、だからこそ、寿命がかなり長い俺たちのところに来てくれたんだと思うんだけれども」

「……なら、間違いないねぇだぁよ」

「そうだったか。なら、前はいったいどんな……」

 どんな関係か、と問いかけようとした魔王は、不意にハッとした表情で言葉を止めた。

「すまない。配慮の足りない質問だった。あの時代、そっちの世界はたしか……」

 苦々しい表情の魔王に、はつ江はニコリと微笑んだ。

「気にすることねぇだぁよ、もう、うーんと昔のことだから。それに、縞ちゃんはこっちに来てから、楽しく暮らしてたんだろ?」

「ああ。シーマだけでなく、あの時代に魔界にやってきた人たちは、全員穏やかに暮らしていた……、と思うんだ、多分。ほら、一応、俺も色々頑張ったりしてた気もするし……、完璧かどうかは自信ないけど……」

「わははははは! ヤギさんのところなら、きっとみんな幸せに暮らせてたに決まってるだぁよ!」

「そ、そう、か、な?」

「そうに、決まってるだぁよ! ……ありがとうね、ヤギさん」

「……どういたしまして」

「そんでよう、ヤギさん、縞ちゃんは、もっと小っちゃいころ、どんな感じだったんだい?」

「それはもう、可愛かったぞ! そのころのアルバムもあるけど、見てみるか?」

「それは、ぜひ見たいだぁよ!」

 二人はしんみりした空気を吹き飛ばすように、シーマが更に仔猫だったころの話題で盛り上がりはじめた。

 かくして、人見知り魔王とはつ江ばあさんは、シーマ十四世殿下トークに花を咲かせたのだった。
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