仔猫殿下と、はつ江ばあさん

鯨井イルカ

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第一章 シマシマな日常

ドカッ

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 シーマ十四世殿下一行が朝食をとっていたころ、魔王城の実験室では、白衣を着た魔王がため息を吐いていた。長い髪を一つ結びにした魔王の目の前には、粉末が入ったビンがいくつか並べられている。

「……分解は完了したから、あとは合成か」

 魔王はそう呟くと、壁に掛かった時計に目を向けた。

「このままだと、抗魔法物質が完成するのが開演ギリギリか……点滴する時間を考えると……もう、開演時刻を遅らせるしか……いや、しかし、一時間以上遅れるとなると、さすがに……」

「おう、切羽詰まってるみたいじゃねぇか」

 魔王が独り言をこぼしていると、背後からしわがれた声が響いた。

「はい。少し見込み違いがあったので……えっ!?」

 不意にかけられた声に平然と返事をしかけた魔王だったが、ことの異常さに気づき、驚きながら後ろを振り返った。すると、そこには水色のつなぎに白衣をはおった灰門が立っていた。

「め、迷宮王! なぜ、ここに!?」

「だから、今の王はお前だろ!?当代魔王! 俺はただの灰門源太郎だ!」

 灰門が苛立った表情で怒鳴りつけると、魔王は慌てて深々と頭を下げた。

「失礼いたしました。灰門様」

「おう。本当に次から気ぃつけろよ」

 灰門はそう言いながら、眉間にシワを寄せて腕を組み、側にあった椅子にドカッと腰掛けた。テンプレートになりそうなやり取りを終えると、魔王は、コホン、と咳払いをした。

「それで、本日はどのようなご用件でしょうか?」

 魔王が尋ねると、灰門は薄く紅を引いた唇の端を吊り上げ、ニッと笑った。

「なぁに、苦戦してるみてぇだから、手伝ってやろうかと思ってよ」

 灰門の言葉に、魔王は目を輝かせた。しかし、すぐにハッとした表情を浮かべると、おずおずと小さく挙手をした。

「あ、あの、灰門様?」

「ん? どうした?」

「なぜ、私が窮地に立たされていると分かったのでしょうか?」

 魔王が尋ねると、灰門は、ふん、と鼻を鳴らした。

「そんなの、気になって覗いたからに決まってんだろ。俺やお前にかかれば、そのくらいは朝飯前だろ? 当代魔王」

「それは、そうですけど……ワクワク迷宮アイランドの改修が忙しいからよっぽどのことがなければこの件に関わらない、とおっしゃっていましたよね?」

 魔王が更に問いかけると、灰門は眉間にシワを寄せた。

「関わらねぇのは、よっぽどのことがなければ、の場合だ。今は、下手すりゃ音楽会が中止になるかもしれねぇ危機的状況なんだろ?」

「そう、ですね……」

「なら、放っておくわけにはいかねぇだろ! 俺も、ルンルン通り商店街のヤツらも、ワクワク迷宮アイランド改修現場のヤツらも、今日の音楽会を楽しみにしてたんだからよ!」

 灰門はそう言い放つと、再び口の端を吊り上げて、ニッと笑った。

「サバトラ坊主が手伝っていたとはいえ、本来三人がかりでするようなことを一人ですんのは骨が折れただろ? 俺が来てやったからには、必ず間に合わせるから安心しろ」

「……ありがとうございます」

 魔王が深々と頭を下げると、灰門は満足げな表情で頷いた。

「おう、任せとけ。しっかし、あの頭巾の小僧達、大口叩いてたから、もうちっとくらい使えるヤツらかと思ったんだけどな」

 灰門は苦々しい表情して、頭を掻きながらそう言った。すると、魔王が、はは、と声を漏らして苦笑した。

「まあ、若いころは自分の実力を過大評価して、現実との落差に落胆するということも多々ありますから」

 魔王の言葉に、灰門は再び、ふん、と鼻を鳴らした。

「まあな。肝心なのはそっからどんな対応をするかだが……」

 灰門がそう言いかけたところで、実験室に扉がトントンとノックされる音が響いた。

「兄貴ー! ちょっと、いいか?」

 そして、扉の外からシーマの声が聞こえた。

「ああ、シーマ、どうした? 用があるなら、部屋の中に入ってきて大丈夫だぞ」

 魔王が声をかけると、ドアノブが少しだけ動いた。しかし、扉が開かれることはなかった。

「いや、今は抜け毛対策用の防護服を着てないから、止めとくよ」

「そうか……それで、何かあったのか?」

 魔王は若干淋しそうな表情を浮かべたが、気を取り直して扉の向こうのシーマに声をかけた。

「ああ、はつ江からの伝言だ。キッチンの冷蔵棚におにぎりが入ってるからお腹が空いたら食べるといいだぁよ、とのことだ」

 シーマがはつ江の口調を真似て伝言をすると、魔王は穏やかな微笑みを浮かべた。

「そうか。教えてくれてありがとう。はつ江にも、ありがとうと伝えておいてくれ」

「ああ、分かった! それと、もう一つ……」

 シーマが言葉を続けると、魔王はキョトンとした表情で首を傾げた。

「もう一つ?」

 魔王が聞き返すと、シーマは扉の向こうで、ああ、と相槌を打った。

「その、兄貴のことだから、なんだかんだで大丈夫だとは思うけど……抗魔法物質の方は間に合いそうか?」

 シーマが問いかけると、魔王はギクリとした表情を浮かべた。

「あー、えーと、その、だな……」

 魔王が口ごもると、扉の向こうから、ふふん、と鼻を鳴らす音が聞こえた。

「安心しろ、兄貴! 朝ご飯のときに皆で話して、もしものときははつ江の踊りや、マロさんとウェネトさんの演奏で、時間を稼ぐことにしたんだ! あのローブの二人組も力を貸してくれるんだぞ!」

 シーマが得意げにそう言うと、魔王は目を輝かせた。

「そうか……! それは、凄く助かるよ、ありがとう! 他の皆にも、ありがとう、と伝えくれ」

「ああ、任せろ! それで、どのくらい時間を稼げばいい?」

「あ、えーと、それは……」

 シーマが尋ねると、魔王は口ごもりながら灰門に顔を向けた。すると、灰門はニッと笑みを浮かべながら、手でVサインを作った。それを見た魔王の顔から、一気に血の気が引いていく。

「え……二日もかかるのですか?」

「馬鹿野郎! この状況でそんなにかかるわけねぇだろ!?」

 灰門が椅子から立ち上がりながら怒鳴り声を上げると、魔王は怯えた表情を浮かべた。

「え、じゃ、じゃあ二秒ですか?」

 再び魔王が問いかけると、灰門は額をおさえながら深いため息を吐いた。

「お前はどうしてそう、極端なんだよ!? 二十分だ、二十分! 分かったか!?」

「は、はい! 分かりました!」

 魔王は姿勢を正して返事をすると、扉に向き直り、コホン、と咳払いをした。

「二十分もあれば、充分だ」

 魔王が凜々しい声でそう言うと、扉の向こうから小さなため息が聞こえた。

「兄貴、格好つけてるところ悪いんだけど、全部聞こえてたぞ……」

 シーマが脱力気味にそう言うと、魔王も力なく、そうか、と呟いた。

「……まあ、いいや。そのくらいの時間なら予想の範囲内だから、安心してくれ。灰門様、兄のことをよろしくお願いします」

「おうよ! 任せとけ、サバトラ坊主!」

 シーマの言葉に、灰門は胸を張りながら返事をした。

「ありがとうございます。じゃあ、ボクも色々と準備することがあるから、コレで失礼するよ」

 シーマがそう言うと、魔王は穏やかに微笑んだ。

「ああ、色々とありがとうな、シーマ」

「べ、別に兄貴のためじゃなくて、音楽会を楽しみにしてる皆のためなんだからな! でも、大変だったら手伝ってやらないこともないから、すぐにボクを呼ぶんだぞ! じゃあ、また後でな!」

 シーマは扉の向こうでツンデレると、トコトコと足音を立てて、実験室から遠ざかっていった。

「うひゃひゃひゃひゃひゃ! 随分と良い弟じゃねぇか、当代魔王!」

 笑いながら声をかけると、魔王はいつになく凜々しい表情を浮かべて、胸の辺りで手を握りしめた。

「ええ! 可愛くて、賢くて、優しい、素晴らしい弟です!」

 魔王がすがすがしいくらいの自慢をすると、灰門は笑ったままコクリと頷いた。

「違ぇねぇな! それに、あの頭巾の小僧共もなんだかんだで、大丈夫そうだな」

 灰門の言葉に、魔王は穏やかな微笑みを浮かべた。

「ええ。彼らは自分の過ちを認めて、ちゃんと歌姫達にも謝れるような素直な子達ですから、きっと大丈夫ですよ」

「おう、そうだな。そんじゃあ、俺は合成が終わったらあとはお前に任せて、小僧達の晴れ舞台を楽しませてもらうことにするかな」

「……くれぐれも、ヤジは飛ばさないでくださいよ」

「うひゃひゃひゃひゃひゃ! むしろヤジ飛ばすようなヤツは、俺がぶっ飛ばしてやるから任せとけ!」

 灰門が笑い飛ばすと、実験室はなごやかな空気に包まれた。それから、魔王と灰門は、二人して抗魔法物質の合成に取りかかった。
 こうして、抗魔法物質合成作業の人手不足も解消しつつ、音楽会開演の時刻が着実に近づくのだった。
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