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憧れ!
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見上げると、所々に白い雲が浮かぶ黒い空が広がり、下を見れば黒い地面に白いまだら模様が広がっている。
いっそのこと、此処で目が覚めてくれれば良いのだが、相変わらず夢は続いている。
時折、泣いている誰かの姿が現れる。友人であったり、知人であったり、想い人であったり、恋人であったり。
その度に、蟻、蜂、毒蛾、毒蝶、蜈蚣、蠍、蜘蛛を使役して、涙の原因を退ける。
しかし、感謝などはされない。恐ろしい、気持ちが悪いと口にして、或いは偽善者と罵りながら、姿を消していく。
別に感謝されるために行った訳ではないが、消えて欲しくない姿も多くあった。
それでも、足を進める。
足の下からビチャビチャと嫌な音が聞こえる。
誰かの姿が消える度に、視界に映る白い色が小さくなっていく。
そしてまた、泣いている誰かの姿が現れる。
いい加減に疲れた。
その姿を横目にして、側を通りすぎる。
泣き声が、段々と小さくなっていく。
多少の罪悪感はあったが、周囲の景色の色が変わることは無い。
最初から、こうしていれば良かったんだ。
「正義さん。そんなところで寝ていたら、身体が痛くなってしまいますよ」
穏やかな声と共に身体を揺すられて目覚めると、心配そうに身体を揺り動かすたまよの姿があった。どうやら、書斎の机に突っ伏したまま眠っていたらしい。背中から首に違和感があるが、幸いなことに、まだ寝違えてはいないようだ。
「そうだな、起こしてくれて助かった」
上体を起こして言葉をかけると、たまよは、いいえ、と言って頭を下げた。
「朝ごはんを用意していますが、先にシャワーになさいますか?」
昨日は夕食をとった後に浦元からメールで連絡があり、たまよには時間がかかるかもしれないから先に休んでいるように告げて、書斎へ籠り人事課長への報告やら、今日の事前準備やらをしていた。事前準備用の調べ物が終わって一息ついたところで、そのまま眠っていたらしく、服装は昨日のままだった。流石にこのままでいるのは、気持ちが悪い。
「そうしよう。空腹ならば、朝食は先に済ませてくれて構わない」
「ありがとうございます。でも、まだそんなにお腹が空いてる訳ではないので、ご一緒します。ひとまず、給湯器のスイッチをつけて来ますね」
たまよが一礼して部屋を出たところで、椅子から立ち上がり、伸びをする。しかし、伸びをした瞬間、右掌のすり傷まで伸ばしてしまい、軽い呻き声を上げてしまった。
「ご無事ですか!?」
案の定、たまよが血相を変えて飛んでくる。昨日は随分と心配をかけてしまったので、今日はあまり騒がせないようにしたかったが、早々にやってしまった。
「驚かせて悪かった。少しだけ傷口が開いたが、問題は無いから」
そう言って、まだジワジワと痛む右手をふってみたが、たまよは心配そうにその手を取って、血が軽く滲んだガーゼを見つめた。
「でも、痛そうですよ……」
「まあ、痛いことは痛いが、死ぬような怪我でもない。ただ、シャワーの時にしみるかもな……」
昨日処方された傷口の保護用フィルムが何処にあったか思い出していると、たまよが手を取ったまま、こちらを凝視していることに気付いた。
「……何?」
一応は聞いてみるが、ここ数日のやり取りを思い出すと、大体ロクなことを言いださないだろう。
「……お体を洗うお手伝いいたしましょうか?」
……案の定、予想していた通りの言葉が返ってきた。
「必要ない」
キッパリと断ると苦笑と共に、ですよね、と言葉が返ってきた。断られると分かっているなら、一々聞かなければ良いものを。
「では、傷口が濡れないように処置致しますので、少々お待ちください」
「ああ、助かるよ……ちょっと待て」
そう言った途端、嫌な予感がしたため、部屋を出て行こうとするたまよを呼び止めた。
「はい、何でしょう?」
「まさかとは思うけど、白菜を傷口に巻くつもりじゃ無いだろうな?」
たまよから明確な答えは出なかったが、焦った表情をして言葉を詰まらせているところを見ると、図星なのだろう。白菜のことを何だと思っているんだ……
「ひとまず、絆創膏が入っていた箱か、鞄の中に傷口保護用のフィルムが入っていると思うから、それを持ってきてくれ」
「かしこまりました。すぐにお持ちいたします」
そう言って、たまよは部屋を出て行った。
甲斐甲斐しいとは思うけれども、時折ズレた発言をする所が、もう少しどうにかなってくれればな……
「お疲れ様でした。今日は白菜のコールスローサラダと、ハムエッグと、トーストです」
シャワーから出ると、たまよは食卓に食事を並べている最中だった。
「お怪我の方は大丈夫でしたか?」
「ああ、処置してもらったおかげで、全く問題無かったよ」
そう答えると、安堵の表情と共に、そうですか、と返事がきた。
「倒れた時に擦りむいてしまったと聞きましたが、砂が入ったり膿んだりしなくて良かったです」
どうやら、人事課長なりに話の辻褄が合うようにしてくれたらしく、日傘の一件は無かったことになっていた。
「今後は、あまりご無理をなさらないでくださいね」
「……気をつけよう」
たまよに見つめられ、言葉がつかえたが、何とかそう告げることが出来た。しかし本当は、今日早々に無茶をすることになるかもしれない。
「ともかく、朝食にしようか」
話題を変えるために食卓につくと、たまよもコクリと頷いて食卓についた。
トーストを齧りながら、今日の仕事内容について考えていた。
浦元からは昨日、本格的な事を起こす前に、今回のターゲットに恐怖心を与えておきたいため何か虫をけしかけろ、ということを婉曲な表現で依頼されていた。ひとまず、不審に思われないように、虫を向かわせる、とだけ返信し、人事課長に事の次第をメールで報告した。
しばらく待っているとスマートフォンに、依頼として請け負っている以上は何かしておかないとこちらに反動が来るかもしれない、というメッセージが悩んだ顔をしたモアイ像のイラスト付きで返ってきた。
しばらくイラストに気を取られていると追伸で、命に別状がないようにしてくれれば多少脅かすくらいなら良いよ、と言うメッセージが何か閃めいた様なモアイ像のイラスト付きで送られてきた。ひとまず、イラストには一切触れずに、承諾した旨をメッセージで返した。
しかしそう返して極力害のない虫の目星を付けたものの、軽い虫刺されだとしても、アレルギー症状を起こされたら命に関わらないとも限らない。顔面スレスレにセミを飛ばせるか、とも考えたが、手元が狂って引っ掻き傷でもできてしまったら、依頼を放棄したときの反動とやらより厄介だ。人事課長に、満面の笑みで何をされるか分かったものではない……
「正義さん、正義さん」
今日の依頼についてしばらく逡巡していたが、たまよの呼びかけにより中断された。
「どうした?」
その声が心なしか、いつもの呼びかけよりも苦しそうな所が気にかかる。
「もしも……許していただけるのであれば、今度お時間ができたらでいいので、水族館と言う所に行ってみたいと、少しだけ思っているのですが……」
たまよは申し訳無さそうに、そう言う。どうやら、体調が優れないという訳では無いようだ。
「何をそんなに萎縮しているんだよ……まあ、今は副業の方が立て込んでいるから、落ち着いたらな」
軽くため息を吐いてそう答えはした。しかし、今回の件がいつ落ち着くのか分からないし、片付いた時に果たして無事かどうかも保障できない。ただ、あまり不安にさせるのも気がひける。たまよは、こちらのそんな考えを知ってか知らずか、答えを聞いた途端に、先程までかしこまっていた表情を俄かに明るくさせた。
「ありがとうございます」
できれば、連れていけるように最善を尽くそう。
「水族館……ここからだと、電車で2、30分位の所が一番近いが、最寄駅から10分位は雑踏の中を進まないといけないか。歩けそうか?」
確認をしてはみたが、一昨日のことを考えると、たまよにとって負担が大きいかもしれない。たまよはこちらの問いに、ゆっくりと首を横に振ってから答えた。
「えーと、そちらでは無く、この前お出かけした駅から、すたいりっしゅな電車に乗って行く所に、行ってみたいのです……」
「ああ、あそこか。それなら平日に行けば、駅からの道はそこまでの人混みでも無いだろうな。しかし、何故急にその水族館に行きたいと思ったんだ?」
雑踏を長く歩かなくて良いことには、内心ホッとした。しかし、思い出してみると、この辺りだともう少し近場に幾つか候補があったように思う。その水族館の何が、たまよの関心を引いたのだろうか。
白菜以外の何に興味を持つのか気になったため、回答を待っていると、たまよはしばらく目を泳がせていたが、観念したように俯いて口を開いた。
「あの、昨夜テレビを見ていたら、夏休みに行きたい水族館特集という番組が放送されていまして……」
「まあ、この時期ならそういうこともあるだろうな。それなら、他の候補もあっただろうけど、何故そこを?」
「……すみません」
ただ気になっただけなのだが、詰問になってしまっていたらしく、たまよはそう言って、伏し目がちになり、なにやら口ごもってしまった。
「いや、別に謝る必要は無いだろう?こちらも怒っている訳では無く、何を見たかったのか気になっただけだから、言いたく無いのなら無理強いはしないけれど?」
「……あの、お怒りにならないでくださいね?」
できる限り穏やかな口調で問いかけたところ、たまよは上目遣いになりながら、恐る恐るといった様子で答え出した。
「だから、別に怒ってはいないと言っただろ」
「あ、はい……えーと……その水族館なんですが、深海に住む方々が集まっているそうなんですよ」
「そう言えば、いつだったか潜水調査船の展示と、深海の環境の再現に取り組んでいると聞いたことがあったな……」
しかし、それが口ごもる理由とは結び付きづらいが……
「えーと……その中にですね、大変すたいりっしゅな方がいらしたので、一度お会いしてみたいなと思ったのです……」
深海のすたいりっしゅなたまよが興味を持ちそうな生物か……まあ、間違いなく一種類しかいないだろう。
「つまり、ダイオウグソクムシを見に行きたいんだな」
「はい……」
素直に連れて行っても良いのだけれど、少しからかってみたくなった。
「へえ……昨日ひとの参考資料を見て咎めてきたのに、自分はそういうこと言うんだ?」
「ち、違います!繁殖したいとかそういうことでは無くて、どうすればあんな風にすたいりっしゅになれるのか、秘訣が聞ければなと思っただけです!」
どうやら、ファッション誌のモデルに憧れるのと、同じような心境のようだ。頬を染めて慌てている姿を見て、思わず口元が緩んでしまった。
「笑顔になっていただけたのは何よりなのですが、恥ずかしいので、あまりからかわないでください……」
「ははは、すまなかった。しかし、今日はやけに、すたいりっしゅ、にこだわっているが、一体どうしたんだ?」
そう聞くと、少し間を置いてから答えが返ってきた。
「えーと……昨日図鑑を拝見してしまった時に、すたいりっしゅな正義さんと一緒にいるなら、私もすたいりっしゅにならないと、失礼なのかなと不安になりました……」
きっと、こちらを褒めているのだとは思うが、一つ気になった。
「別に一緒にいる時に不満を感じている訳では無いから、必要以上に外見について気に病む事は無い。それよりも何をもって、すたいりっしゅ、としているのかが気になる」
「それはですねー、高速で走る列車ですとか、ダイオウグソクムシさんですとか、正義さんですとか、フナムシさんですとか、ウルトラミラクルエレガントな課長さんですとか、松ぼっくりとかです」
たまよは少しだけ照れた様子で答えたが、フナムシや人事課長や松ぼっくりと同じ括りにされていると思うと、複雑な心境だ。まあ、ダンゴムシからすると、褒めているのかもしれないけれども……
「……そう言えば、たまよはダンゴムシか……」
「はい。ダンゴムシですが、急に改まっていかがなされましたか?」
「急で悪いんだが、朝食が済んだら、出かける用意をしてくれ」
「かしこまりました。事情はよく分かりませんが、正義さんがそう仰るのなら、ご一緒いたします」
たまよはそう言って一礼すると、心なしか急ぎ気味にトーストを食べ始めた。
浦元には、虫を向かわせる、としか答えていなかったから、たまよを連れて会いに行くということでも、問題は無いだろう。
「ところで正義さん、今日も暑いので、お外に行くなら、白菜を額に巻いて出かけた方がよろしいでしょうか?」
いや、問題は他のところに色々あるか……
たまよの質問に、巻かない、とだけ答えた。流石に、白菜を頭に巻いた二人組がうろうろしていたら、そこそこ問題になるだろう。
ひとまず、通報されるような事案にならないことだけを祈りながら、朝食を終えてしまおう。
いっそのこと、此処で目が覚めてくれれば良いのだが、相変わらず夢は続いている。
時折、泣いている誰かの姿が現れる。友人であったり、知人であったり、想い人であったり、恋人であったり。
その度に、蟻、蜂、毒蛾、毒蝶、蜈蚣、蠍、蜘蛛を使役して、涙の原因を退ける。
しかし、感謝などはされない。恐ろしい、気持ちが悪いと口にして、或いは偽善者と罵りながら、姿を消していく。
別に感謝されるために行った訳ではないが、消えて欲しくない姿も多くあった。
それでも、足を進める。
足の下からビチャビチャと嫌な音が聞こえる。
誰かの姿が消える度に、視界に映る白い色が小さくなっていく。
そしてまた、泣いている誰かの姿が現れる。
いい加減に疲れた。
その姿を横目にして、側を通りすぎる。
泣き声が、段々と小さくなっていく。
多少の罪悪感はあったが、周囲の景色の色が変わることは無い。
最初から、こうしていれば良かったんだ。
「正義さん。そんなところで寝ていたら、身体が痛くなってしまいますよ」
穏やかな声と共に身体を揺すられて目覚めると、心配そうに身体を揺り動かすたまよの姿があった。どうやら、書斎の机に突っ伏したまま眠っていたらしい。背中から首に違和感があるが、幸いなことに、まだ寝違えてはいないようだ。
「そうだな、起こしてくれて助かった」
上体を起こして言葉をかけると、たまよは、いいえ、と言って頭を下げた。
「朝ごはんを用意していますが、先にシャワーになさいますか?」
昨日は夕食をとった後に浦元からメールで連絡があり、たまよには時間がかかるかもしれないから先に休んでいるように告げて、書斎へ籠り人事課長への報告やら、今日の事前準備やらをしていた。事前準備用の調べ物が終わって一息ついたところで、そのまま眠っていたらしく、服装は昨日のままだった。流石にこのままでいるのは、気持ちが悪い。
「そうしよう。空腹ならば、朝食は先に済ませてくれて構わない」
「ありがとうございます。でも、まだそんなにお腹が空いてる訳ではないので、ご一緒します。ひとまず、給湯器のスイッチをつけて来ますね」
たまよが一礼して部屋を出たところで、椅子から立ち上がり、伸びをする。しかし、伸びをした瞬間、右掌のすり傷まで伸ばしてしまい、軽い呻き声を上げてしまった。
「ご無事ですか!?」
案の定、たまよが血相を変えて飛んでくる。昨日は随分と心配をかけてしまったので、今日はあまり騒がせないようにしたかったが、早々にやってしまった。
「驚かせて悪かった。少しだけ傷口が開いたが、問題は無いから」
そう言って、まだジワジワと痛む右手をふってみたが、たまよは心配そうにその手を取って、血が軽く滲んだガーゼを見つめた。
「でも、痛そうですよ……」
「まあ、痛いことは痛いが、死ぬような怪我でもない。ただ、シャワーの時にしみるかもな……」
昨日処方された傷口の保護用フィルムが何処にあったか思い出していると、たまよが手を取ったまま、こちらを凝視していることに気付いた。
「……何?」
一応は聞いてみるが、ここ数日のやり取りを思い出すと、大体ロクなことを言いださないだろう。
「……お体を洗うお手伝いいたしましょうか?」
……案の定、予想していた通りの言葉が返ってきた。
「必要ない」
キッパリと断ると苦笑と共に、ですよね、と言葉が返ってきた。断られると分かっているなら、一々聞かなければ良いものを。
「では、傷口が濡れないように処置致しますので、少々お待ちください」
「ああ、助かるよ……ちょっと待て」
そう言った途端、嫌な予感がしたため、部屋を出て行こうとするたまよを呼び止めた。
「はい、何でしょう?」
「まさかとは思うけど、白菜を傷口に巻くつもりじゃ無いだろうな?」
たまよから明確な答えは出なかったが、焦った表情をして言葉を詰まらせているところを見ると、図星なのだろう。白菜のことを何だと思っているんだ……
「ひとまず、絆創膏が入っていた箱か、鞄の中に傷口保護用のフィルムが入っていると思うから、それを持ってきてくれ」
「かしこまりました。すぐにお持ちいたします」
そう言って、たまよは部屋を出て行った。
甲斐甲斐しいとは思うけれども、時折ズレた発言をする所が、もう少しどうにかなってくれればな……
「お疲れ様でした。今日は白菜のコールスローサラダと、ハムエッグと、トーストです」
シャワーから出ると、たまよは食卓に食事を並べている最中だった。
「お怪我の方は大丈夫でしたか?」
「ああ、処置してもらったおかげで、全く問題無かったよ」
そう答えると、安堵の表情と共に、そうですか、と返事がきた。
「倒れた時に擦りむいてしまったと聞きましたが、砂が入ったり膿んだりしなくて良かったです」
どうやら、人事課長なりに話の辻褄が合うようにしてくれたらしく、日傘の一件は無かったことになっていた。
「今後は、あまりご無理をなさらないでくださいね」
「……気をつけよう」
たまよに見つめられ、言葉がつかえたが、何とかそう告げることが出来た。しかし本当は、今日早々に無茶をすることになるかもしれない。
「ともかく、朝食にしようか」
話題を変えるために食卓につくと、たまよもコクリと頷いて食卓についた。
トーストを齧りながら、今日の仕事内容について考えていた。
浦元からは昨日、本格的な事を起こす前に、今回のターゲットに恐怖心を与えておきたいため何か虫をけしかけろ、ということを婉曲な表現で依頼されていた。ひとまず、不審に思われないように、虫を向かわせる、とだけ返信し、人事課長に事の次第をメールで報告した。
しばらく待っているとスマートフォンに、依頼として請け負っている以上は何かしておかないとこちらに反動が来るかもしれない、というメッセージが悩んだ顔をしたモアイ像のイラスト付きで返ってきた。
しばらくイラストに気を取られていると追伸で、命に別状がないようにしてくれれば多少脅かすくらいなら良いよ、と言うメッセージが何か閃めいた様なモアイ像のイラスト付きで送られてきた。ひとまず、イラストには一切触れずに、承諾した旨をメッセージで返した。
しかしそう返して極力害のない虫の目星を付けたものの、軽い虫刺されだとしても、アレルギー症状を起こされたら命に関わらないとも限らない。顔面スレスレにセミを飛ばせるか、とも考えたが、手元が狂って引っ掻き傷でもできてしまったら、依頼を放棄したときの反動とやらより厄介だ。人事課長に、満面の笑みで何をされるか分かったものではない……
「正義さん、正義さん」
今日の依頼についてしばらく逡巡していたが、たまよの呼びかけにより中断された。
「どうした?」
その声が心なしか、いつもの呼びかけよりも苦しそうな所が気にかかる。
「もしも……許していただけるのであれば、今度お時間ができたらでいいので、水族館と言う所に行ってみたいと、少しだけ思っているのですが……」
たまよは申し訳無さそうに、そう言う。どうやら、体調が優れないという訳では無いようだ。
「何をそんなに萎縮しているんだよ……まあ、今は副業の方が立て込んでいるから、落ち着いたらな」
軽くため息を吐いてそう答えはした。しかし、今回の件がいつ落ち着くのか分からないし、片付いた時に果たして無事かどうかも保障できない。ただ、あまり不安にさせるのも気がひける。たまよは、こちらのそんな考えを知ってか知らずか、答えを聞いた途端に、先程までかしこまっていた表情を俄かに明るくさせた。
「ありがとうございます」
できれば、連れていけるように最善を尽くそう。
「水族館……ここからだと、電車で2、30分位の所が一番近いが、最寄駅から10分位は雑踏の中を進まないといけないか。歩けそうか?」
確認をしてはみたが、一昨日のことを考えると、たまよにとって負担が大きいかもしれない。たまよはこちらの問いに、ゆっくりと首を横に振ってから答えた。
「えーと、そちらでは無く、この前お出かけした駅から、すたいりっしゅな電車に乗って行く所に、行ってみたいのです……」
「ああ、あそこか。それなら平日に行けば、駅からの道はそこまでの人混みでも無いだろうな。しかし、何故急にその水族館に行きたいと思ったんだ?」
雑踏を長く歩かなくて良いことには、内心ホッとした。しかし、思い出してみると、この辺りだともう少し近場に幾つか候補があったように思う。その水族館の何が、たまよの関心を引いたのだろうか。
白菜以外の何に興味を持つのか気になったため、回答を待っていると、たまよはしばらく目を泳がせていたが、観念したように俯いて口を開いた。
「あの、昨夜テレビを見ていたら、夏休みに行きたい水族館特集という番組が放送されていまして……」
「まあ、この時期ならそういうこともあるだろうな。それなら、他の候補もあっただろうけど、何故そこを?」
「……すみません」
ただ気になっただけなのだが、詰問になってしまっていたらしく、たまよはそう言って、伏し目がちになり、なにやら口ごもってしまった。
「いや、別に謝る必要は無いだろう?こちらも怒っている訳では無く、何を見たかったのか気になっただけだから、言いたく無いのなら無理強いはしないけれど?」
「……あの、お怒りにならないでくださいね?」
できる限り穏やかな口調で問いかけたところ、たまよは上目遣いになりながら、恐る恐るといった様子で答え出した。
「だから、別に怒ってはいないと言っただろ」
「あ、はい……えーと……その水族館なんですが、深海に住む方々が集まっているそうなんですよ」
「そう言えば、いつだったか潜水調査船の展示と、深海の環境の再現に取り組んでいると聞いたことがあったな……」
しかし、それが口ごもる理由とは結び付きづらいが……
「えーと……その中にですね、大変すたいりっしゅな方がいらしたので、一度お会いしてみたいなと思ったのです……」
深海のすたいりっしゅなたまよが興味を持ちそうな生物か……まあ、間違いなく一種類しかいないだろう。
「つまり、ダイオウグソクムシを見に行きたいんだな」
「はい……」
素直に連れて行っても良いのだけれど、少しからかってみたくなった。
「へえ……昨日ひとの参考資料を見て咎めてきたのに、自分はそういうこと言うんだ?」
「ち、違います!繁殖したいとかそういうことでは無くて、どうすればあんな風にすたいりっしゅになれるのか、秘訣が聞ければなと思っただけです!」
どうやら、ファッション誌のモデルに憧れるのと、同じような心境のようだ。頬を染めて慌てている姿を見て、思わず口元が緩んでしまった。
「笑顔になっていただけたのは何よりなのですが、恥ずかしいので、あまりからかわないでください……」
「ははは、すまなかった。しかし、今日はやけに、すたいりっしゅ、にこだわっているが、一体どうしたんだ?」
そう聞くと、少し間を置いてから答えが返ってきた。
「えーと……昨日図鑑を拝見してしまった時に、すたいりっしゅな正義さんと一緒にいるなら、私もすたいりっしゅにならないと、失礼なのかなと不安になりました……」
きっと、こちらを褒めているのだとは思うが、一つ気になった。
「別に一緒にいる時に不満を感じている訳では無いから、必要以上に外見について気に病む事は無い。それよりも何をもって、すたいりっしゅ、としているのかが気になる」
「それはですねー、高速で走る列車ですとか、ダイオウグソクムシさんですとか、正義さんですとか、フナムシさんですとか、ウルトラミラクルエレガントな課長さんですとか、松ぼっくりとかです」
たまよは少しだけ照れた様子で答えたが、フナムシや人事課長や松ぼっくりと同じ括りにされていると思うと、複雑な心境だ。まあ、ダンゴムシからすると、褒めているのかもしれないけれども……
「……そう言えば、たまよはダンゴムシか……」
「はい。ダンゴムシですが、急に改まっていかがなされましたか?」
「急で悪いんだが、朝食が済んだら、出かける用意をしてくれ」
「かしこまりました。事情はよく分かりませんが、正義さんがそう仰るのなら、ご一緒いたします」
たまよはそう言って一礼すると、心なしか急ぎ気味にトーストを食べ始めた。
浦元には、虫を向かわせる、としか答えていなかったから、たまよを連れて会いに行くということでも、問題は無いだろう。
「ところで正義さん、今日も暑いので、お外に行くなら、白菜を額に巻いて出かけた方がよろしいでしょうか?」
いや、問題は他のところに色々あるか……
たまよの質問に、巻かない、とだけ答えた。流石に、白菜を頭に巻いた二人組がうろうろしていたら、そこそこ問題になるだろう。
ひとまず、通報されるような事案にならないことだけを祈りながら、朝食を終えてしまおう。
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